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「アクティバル殿。今朝はお顔の色がすぐれないようにお見受けしますが、いかがなさいました?」
 朝一番にアインデッドからかけられた第一声はそれであった。脅迫、或いは暗殺未遂とも取れるあの一件の後、アクティバルは床に入ってもなかなか寝付けずに、結局居寝がての夜を過ごす事になってしまったのである。睡眠が浅くなりつつある歳とはいえ、これは肉体的に辛いことだった。
「大したことはござらんが……少し、眠れなくてな」
 それを聞いて、アインデッドは一度大きく瞬きした。
「でしたら、今日の練兵のお願いは取り下げさせていただきましょうか。せめて午前の間だけでも、ゆっくりお休みになられた方がよろしいのでは」
「いや、大丈夫だ」
 アクティバルは首を横に振った。部屋に一人でじっとしているより、誰かと活動していた方が安心できる。
「そうですか。ですが、無理なお願いをしているのでしたら、どうかそのまま仰ってください」
 それは心からの言葉のように聞こえた。アクティバルは探るような視線を一瞬、アインデッドに向けた。昨夜の一件の動機が自分をラトキア宮廷から追い払う事なのだとすれば、それを望みそうなのは外国人であり、現将軍のアインデッドぐらいしか思い浮かばなかったのである。
「……どうかなさいましたか?」
 アインデッドはアクティバルから向けられる視線に、不思議そうに見返してきた。もし平静を装っているのだとすれば大したものだが、とても演技とは思えなかった。アクティバルは目を伏せた。
「ああ、すまん。少々気になることがあったのだが……貴殿には関係ないことのようだ。気にしないでくれ、アインデッド殿」
「するなと仰せならそうしますが」
 訝るような表情ながら、アインデッドはそれ以上アクティバルの態度を追及する事はなかった。短い辞去の挨拶を述べて、彼は黒騎士団の練兵を行うためアクティバルから離れて馬場へと踵を返した。
(今はアインデッド殿一人が将軍だが、左府なり右府なりにもう一人将軍が入れば、むろん彼一人の独断で軍を動かす事はできなくなる。やり辛くなると感じるのは当然のことだろうが……)
 その背中を見送るでもなく眺めながら、アクティバルは自分の考えに沈んだ。
(しかし今の様子からは全く、疑わしいものは感じられなかった。あれが演技とも思えぬし……。では誰が……)
 彼の思考は、小姓の声で破られた。
「アクティバル様、大公閣下とナーディル殿下のお召しでございます。至急『春の広間』にお運びください」
「ん、うむ。今行こう」
 何の話か――と首を傾げながら、アクティバルは先に立つ小姓の少し後ろからついていった。彼が呼び出された『春の広間』は別名を『ユーリースの間』ともいう謁見用の小広間で、装飾には春の花々の意匠が凝らされている。花がモチーフということもあって、シャーム城の数多い広間の中では珍しく可愛らしい印象があり、シェハラザードのお気に入りであった。
「ただいま参りました」
 アクティバルが入っていくと、シェハラザードとナーディルはすでにそこで玉座とその少し手前の椅子にかけて待っていた。シェハラザードはまず、上座の前に置かれていた椅子にかけるよう、アクティバルに勧めた。
 彼の着席を待って、シェハラザードは口を開いた。
「最近の様子はどうであろう、アクティバル? 騎士団の練兵に携わっていると聞いたけれども」
「つつがなく過ごしております、シェハラザード閣下。仰せのとおり、青騎士団の練兵をアインデッド将軍より時折任されております」
「やはり騎士団に関わっている時間が、そなたには最も自然な過ごし方であろうか?」
 シェハラザードは首を傾げるようにして尋ねた。アクティバルは肯定の意味で頷いてみせた。
「そうかもしれませぬ。半生近くを武将として過ごしておりますれば、それ以外の人生を思いつかぬということもございますが」
「そなたならば、さもあろうな」
 彼の答えを聞いて、シェハラザードはゆっくりと頷いた。大公らしい威厳を取り繕うとしている表情の中にも、和んだような微笑みが宿る。
「それを聞いて安心した。できればそなたに将軍職に復帰してもらいたいと思っているが――戻る気は充分にある、と解してもよいだろうか?」
 アクティバルは眉をちょっと上げた。
「しかし、それがしにはこの度のいくさに関する手柄は何も……」
「手柄の有無はこの際措いてほしい、アクティバル」
 シェハラザードは浮かべかけていた笑みを消して、真剣な顔で返した。
「そなたは建国のみぎりより、将軍としてラトキアの安寧のために尽くしてきてくれた。またナーディルをこの一年、無事に守り通してくれた。それを、一度体制の全てが白紙に返ったからとてないがしろにできるものではない。そなたの今までの働きと忠義だけで、充分報いるに値するとわらわは思っている」
 そこで一旦言葉を切り、シェハラザードはナーディルに発言を求める――あるいは加勢を求めるような視線を向けた。それを受けて、ナーディルは姉に頷きを返してからアクティバルに語りかけた。
「理由は姉上が仰ってくれたので僕からくどくどしく言うことはしないが、将軍がアインデッド殿ただ一人しかいない状態は、ラトキアにとっても、また彼のためにも好ましからぬというのは、貴殿にも理解できるだろう。むろん、そのつもりがないものを、無理にとは言わない。だが、今のラトキアで左右府の将軍になりえる者は貴殿をおいて他にないのだ。前向きに考えてくれないか、アクティバル」
 黙って聞いていたアクティバルは、十数秒の間を置いてから主君を見上げた。
「仰ることはこのアクティバル、よく分かりました。しかし、それがしはラトキアの再独立のために何の働きもしておりません。にもかかわらず、かつての武功を理由に位をいただきますのは、納得いきませぬ。それにまた、そのような前例を作れば、ツェペシュ様の御世に手柄ありとて、不相応な地位を求める輩が現れてこぬとも限りません。どうか今しばらくの猶予を下されたく存じます」
 アクティバルの言い分も、それなりに筋が通っていた。シェハラザードとナーディルは顔を見合わせた。だが若く経験も浅い二人には、老将軍の言い分を覆して従わせるだけの理屈を思いつくことができなかったし、かといって幼い頃から世話になっている恩人に強権を以て命じることもできかねた。
 ずいぶん困った表情をしながら、シェハラザードはようやく口を開いた。
「そうまで言うのなら、仕方ない。無理に位を与える事はしないけれども……。なら、この次にエトルリアなりいずこなりとの戦いがある時にはそなたに出てもらい、その武功を以て将軍に昇進させる、ということならば納得してもらえようか?」
 それが、彼女が考え付いた精一杯の条件であった。これには反対するいわれはなかったので、アクティバルは頷いた。
「理由あらばお断りするものではございません。もちろん、その時には喜んでお引き受けいたします」
「ではそのように心得ておいておくれ、アクティバル。話はこれまでゆえ、下がってよろしい」
「はっ。御前失礼いたします」
 アクティバルは立ち上がり、一礼して広間を出た。彼を見送ったシェハラザードとナーディルが、困ったものだというような顔をしてお互いに肩をすくめあったことを、彼は知らなかった。

 その夜、アクティバルの部屋を訪問した二人の青騎士がいた。彼らは城内の明かりが常夜灯だけになる時間まで待ってから現れ、内密の話があると告げた。
「私は青騎士団第三騎兵隊長、ダマススです」
「同じく青騎士団第二騎兵隊の大隊長、テレンスと申します」
 内心で訝しく思いつつも、アクティバルは彼らを招じ入れた。
「話とは何だ?」
 周囲に素早く目を走らせ、部外者がいないことを確認してからダマススは口を開いた。
「アクティバル閣下がご無事にお戻りくださったことを、我ら一同心よりお喜び申し上げております」
「世辞は良い」
 アクティバルは手を振って遮った。早く用件を、と促すような視線を向ける。
「ここだけの話としてお聞き願いたいのですが、我々は大公閣下の人事に少々異議がございまして」
「ふむ――」
「マギード様が宰相であらせられ、青騎士団の団長として我らを束ねる分には何一つ申し上げる事はないのですが、問題は将軍職でございます」
「アインデッド将軍が、何か?」
 アクティバルは片眉を上げた。ダマススはますます声を低めた。
「彼は彼なりにやっているのでしょうが――やはりラトキア人たるわれわれと、ティフィリス人の将軍とでは、食い違う事も色々とございまして。ラトキアのことを何一つ知らぬ余所者が将軍として立つ今の状態を、我々は深く憂慮している次第なのです」
「なるほどな。だがさほど問題があるようなことは聞いておらぬが?」
 今まで、アインデッドに対し否定的な意見を聞いたのはグリュンからだけである。マギードやハディース、カーンといった団長たちは、軍人としてのアインデッドの能力を高く買っていた。確かにそれはアクティバル自身も少なからず認めていることだったので、彼らの言葉は少しばかり意外であった。
「むろん、表立った問題は今のところございません」
 アクティバルの思いを先読みしたように、今度はテレンスが言った。
「ですがティフィリス人のやり方をこのまま通され続けるのも、我々としてはなかなかに受け入れがたいものでして。そう考えている者は我々だけではないと思うのです。ラトキアのことはラトキア人に、というものです。我々としては是非、閣下に将軍職にお戻りいただき、他国者は他国者らしく、それ相応の身分に甘んじるべきだと考えております。ですから、閣下におかれては再び将軍職に戻られるご意向の有無をお尋ねしたく存じます。いかがでございましょう――?」
「むろん、大公閣下にいまだわしを用いてくださるお心があるならば、いつなりと戻る心構えはある」
 シェハラザードからその申し出を受けたばかりであることは、アクティバルは言わなかった。ほっとしたように、ダマススとテレンスは顔を見合わせた。そこへ先回りするように、彼は続けた。
「しかし今のわしには、アインデッド将軍を上回るだけの武功がない。戻るにしても、彼が左府将軍に昇進し、わしが右府に――ということになろう。左府将軍は軍務の最高責任職だ。かつての職であったからとはいえ、それだけでおいそれと求められるものではないからな。大公閣下にもそのように申し上げてある。昇進は、武功を挙げてから――と」
「でしたら、ないものは作ればよろしいのです。アクティバル閣下」
 にやりと笑うような表情で、ダマススは言った。
「どういうことだ――?」
 ダマススとテレンスは、さらに声をひそめた。
 運命の時はゆるやかに、しかし確実に近づきつつあった。



「Chronicle Rhapsody28 闇の中」 完(脱稿・2008)

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