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 それから二日後、朝見の後、アインデッドは午前の練兵には参加せず、そのまま謁見の間の隣に幾つかしつらえられている会議のための部屋に移った。
 先だってシェハラザードが相談したこと――ナーディルに大公位を譲るための話し合いを行うので、そこに同席していてほしいと頼まれたのである。やや遅れて、衣裳を男装めいた大公の略装からドレスに改めたシェハラザードが入ってきた。
 従ってきた数人の女官が下がり、タマルだけになってしまうと、彼女の口調はあっという間に私的な場所でのものになった。アインデッドしかいないなら、大公らしい威厳を取り繕う必要もないと判断したらしい。
「ああ、アインデッド。やっぱり不安だわ。ナーディルは何と言うかしら。よもや断ることはないと思うけれど、時期が時期だし――厄介ごとを押し付けると思われたらどうしましょう」
 シェハラザードはいかにも心配そうに首を傾げ、指を噛みはしなかったものの唇に拳を当てた。アインデッドはちょっと呆れたように言った。こちらも、聞いているのがタマルだけだったので、臣下の口調ではなかった。
「思っているとおりに言えばいいじゃないか。大公位のことは殿下だって承知の事なんだから、厄介ごとと思うことはないだろう」
「そう……そうかしら」
「だいたい、そんなふうに疑う方が却って失礼じゃないのか?」
「失礼……かしら?」
 アインデッドは内心でため息をつき、一言、大公としてナーディルに譲位すると言ってしまえばいいのに、と考えた。二人は家族である以前に大公と公子であり、いわば王と臣下でもあるのだから、命令しようと思えばいくらでもできるはずなのだ。
(全く……本当に、大公なんて仕事には向いてねえ女だよな)
 シェハラザードの、年頃の女性としての顔も知っている身としては、そう思わざるをえない。公女だ大公だと肩肘を張っている態度は時に高慢とも見えて腹が立つこともあるが、恋人として甘えたり尽くしたがったりするのは、結構可愛いと思うのである。アインデッドとしては、女はできれば可愛い方が良かった。
 彼の好みはさておき、シェハラザードが本来は受動的で依存的な性格であったのは確かな事だった。できることなら彼女は今すぐにでも大公などという面倒で、自分の本質からかけ離れた職務はナーディルに任せてしまいたかったに違いない。
 しばらくして、侍従が先触れとして扉を開き、ナーディルが入ってきた。姉との話し合いの席に侍女や侍従以外の第三者がいることに、おやというような視線を向けてきたので、アインデッドは素早くシェハラザードに声をかけた。もちろん、喋り方は公的なそれに豹変していた。
「大公閣下、やはり私は席を外しておりましょうか」
「いえ、ここにいて頂戴。――ナーディル、アインデッドには立会人として同席してもらう事になるけれども、よいかしら?」
「構いません。よろしく、アインデッド将軍」
 アインデッドはこの場では中立の立場であり、口を挟むことはないとすぐに納得したようで、ナーディルは小さく頷いて、アインデッドにも会釈をした。シェハラザードとナーディルは用意されていた小さな机に向かい合って着席し、アインデッドは下がって壁際に控えた。
「それではさっそく本題に入りたいのだけど……。ナーディル、あなたにしたい話というのは他でもない。わたくしはあなたに譲位したいと考えているの。早急には決めかねる事かもしれないけれど、考えておいてくれないかしら」
 ナーディルは黙ったまま、姉の顔を見た。驚いたようでもなかったが、探るような視線を向ける。その視線は続いて彼女の背後にいたアインデッドにも向けられた。アインデッドは困って、その目を避けるようにシェハラザードを見た。ナーディルも追うように視線を戻す。二人の視線の移動に気づいた様子もなく、シェハラザードは続けた。
「わたくしはこの数ヶ月で、自分は大公のような地位には向いていない、普通の女なのだと実感しました。だからあなたが無事に戻ってきてくれてとても嬉しい。秋までに私は退位して、あなたに即位してもらいたいのだけれど、どうかしら」
 ややあってから、ナーディルは口を開いた。
「それは……姉上がそうお望みなのでしたら、僕とて即位を厭うものではありません。それに、本来は僕が継がねばならなかった重責を、姉上に肩代わりさせていることは申し訳ないとも思っていますし」
 そこで彼は一旦言葉を切った。
「ですが、まだ姉上が即位なさって、ラトキアが生まれ変わってから半年も経っておらぬというのに――。秋に譲位してくださるのだとしても一年には満たないというのに、退位や即位が立て続いては国民も混乱いたしましょうし、財政的にも余裕はあまりないのではありませんか?」
 ラトキアの大公はシェハラザードであるという認識が一般に固まってしまう前に――というシェハラザードの思惑は充分に理解したが、ナーディルは国内の情勢を考え合わせる事も忘れなかった。さすがに彼は執政や財務の詳しい事は把握していなかったが、大々的な戴冠式を執り行えるほどの財力は今のラトキアにはない、という程度の予測はつけることができた。
「それほど大掛かりな儀式でさえなければ、大丈夫だと思うけれど」
 シェハラザードは気を殺がれたように沈んだ声で言った。
「自分でこんなことを申し上げたくはないのですが、姉上」
 ナーディルは恥ずかしげに下唇を噛んだ。
「僕は先代ツェペシュの世継ぎの公子です。それが即位するのならば、仮戴冠だけで済ませるわけには参りませんし、国内外――特にエトルリアなどにラトキアの正式な支配者が即位したことを見せ付ける必要があります。即位戴冠の儀式はそれなりの規模でなければならないでしょう」
 彼の言うことは尤もだったので、シェハラザードはゆっくりと頷いた。
「そうね……」
「ですから、譲位の発表は秋にでもよろしいでしょうが、儀式を執り行うのは少なくとも一年待ってから――そうなさったほうがよろしいのでは?」
 二人の会話を聞きながら、アインデッドはしみじみと思った。
(やっぱり、後継者として育てられると考え方や心構えもしっかりしてくるんだな)
 自身の忙しさが理由だが、剣の腕前を見てみたいという希望は果たせていないし、挨拶以上の言葉を交わす事もまだ果たせていない。だが、この前の弔問使節を決めるための会議でもなかなかの思考力を見せたナーディルの評価は、アインデッドの中ではかなり高かった。
「では、正式な戴冠式は来年に執り行うことにして、譲位については明日の朝見で発表することとしましょう」
 シェハラザードはそう結論を出した。ナーディルも異論はなかったので、これで二人の話し合いは終わった。あまり長引かずに済んだことに感謝しながら、退出の挨拶を述べてアインデッドは慌ただしく騎士団に戻っていった。
「将軍は本当に、いつもお忙しいのですね」
 駆け出しはしないものの、明らかに早足で去っていく彼を見送り、ため息をつくような調子でナーディルは言った。シェハラザードも首を傾け、頬に手を当てた。
「国内が落ち着けば、もう少しゆっくりできるようにもなると思うけれど。軍のことは彼に任せきりだから……」
「そういえば、将軍は今アインデッド殿お一人なのですね」
「ええ」
 シェハラザードは頷いた。かつてのラトキア軍には左府、右府の二将軍と副将軍の四人がいた。しかしアクティバルを残し全員がエトルリア軍によって処刑されている。将軍に昇進させられるほどの武功のあるものが他にいなかったことから、現在アインデッドが就任している右府将軍以外は空席となっているのだ。
「誰か、将軍の候補となりそうな者はいないのですか?」
「そうね……」
 水を向けられて、シェハラザードは考え込んだ。だが、思い浮かべてみる人材はどれもぱっとしなかった。ハディースやマギードといった武将はいるが、騎士団の団長と将軍を何人もが兼任するのはあまり望ましくない。
 シェハラザードは首を振った。
「今から昇進させられそうな者はいないわ」
「そうですか……。とはいえ誰かが武功を上げられるような戦いがあればいいなどとは、言えませんからね」
 ナーディルも姉の気分が伝染したかのように浮かない表情を浮かべた。それから考え込むような顔のまま口を開いた。
「特に武功で……というのは無理ですが、アクティバルに復職してもらう方向で考えましょうか。とにかく、アインデッド殿お一人に全てを押し付けるような状態はよくありませんから」
「それが一番妥当かしらね」
 これにはシェハラザードも頷いた。


 そんなやりとりが主君たちの間で交わされていたとは知るはずもなく、その日の夜アクティバルは早めの寝支度を整えようとしていた。今は何の役職にもついていないため、朝見への出席以外にアクティバルにはするべきことが何もなかった。
 気遣いなのか、それとも使えるものは何でも使おうという考えなのかは判らないが、アインデッドは彼が暇を持て余していることを知るや「大変申し訳ないのですが」と前置きした上で黒騎士団以外の練兵を時々頼んでいた。
 この日もアクティバルは青騎士団の練兵を行っていた。青騎士団は団長であるマギードが宰相であるため、団長自らが閲兵を行ったり練兵を指揮したりといったことがほとんどできなかったからである。
 軍の仕事を頼まれることに、悪い気はしなかった。そもそも一年半ほど前までは自身の職務として行っていた事である。訓練の内容は多少違っていたが、こんな訓練も行うのかと、昔気質のアクティバルには不思議に思うことはあっても別段それが誤っているわけではないし、理不尽なこともない。
(アインデッド将軍は、なかなか独創的な用兵をする男なのかもしれないな……)
 歳を重ねた自分にはできない発想ができる。それがエトルリアに対し、彼が勝利を収めることのできた最大の要因なのではないかと、そんなふうに思う。
 ふと、室内にもう一人、誰かがいるような気配を感じてアクティバルは本能的に背後の窓を振り返った。だが、そこには何の人影も見えはしなかった。
(気のせいか?――いや、確かに気配はあった)
 隠れている者はいまいかと、カーテンを持ち上げて窓の外をそっと覗く。しかし室内の明かりをかすかに受けた中庭には、やはり誰もいない。気を張りすぎたのだろうかと、アクティバルは深く息をついた。
 その時だった。
 風が笑うような、かすかな嘲笑を聞いたのは。
「何者だ?」
 アクティバルは窓から視線を外し、室内を振り向いた。瞬間、風もないのに燭台の明かりが一斉に消えた。唐突に視界を闇に閉ざされ、アクティバルはぴたりと動きを止めた。光を取り戻したいという欲求よりも、不用意に動いて思わぬ怪我をすることへの用心が勝ったのである。
 息を詰め、はっきりと感じたあの気配が動くだろうかと周囲の気配を探る。視界を閉ざされ、神経を張った状態では長く感じられたが、実際にはそれはさほど長い時間ではなかった。
「!」
 消えた時と同様に、全ての明かりが魔法のように突然戻った。闇に慣れかけていた目には、薄暗かったはずの明かりも眩しく感じられた。今度は明るさに慣れるため目元を覆いながら、アクティバルは呟いた。
「面妖な――」
 手を外した時、この部屋に確かに彼以外の何者かが侵入していた証をアクティバルは見た。自分が座っていた椅子の背もたれに、深々と短剣が突き立てられていたのである。ラトキア軍で使用している統一規格のものであった。
「これは」
 何かの警告だ、とアクティバルは直感した。
「一体、何者が……」



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