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     流れは広く 私には渡れない
     飛んでいける翼もない
     二人を運ぶ 一艘の船がほしい
     そうすれば二人
     一緒に漕いでゆけるのに
            ――アーラウの恋歌




     第四楽章 すれ違う思い




 時を前後して、メビウス――アルドゥインのもとにも、ウジャス皇帝薨去の知らせは入った。
「葬儀には行かないのか、アル?」
 セリュンジェの問いに、アルドゥインは首を横に振った。
「ウジャス陛下は、弔いは無用の事と仰ったんだ。お言葉のとおり、俺が憶えているだけで陛下は満足なさってくださると思う。むしろ生きておいでのうちにもう一度お目にかかれなかったものを、今さら伺うことの方が陛下の御霊に失礼な気がする」
「お前がそう言うのなら、そうなんだろうな」
 セリュンジェは何となく考えるような顔をして言った。
「それよりも俺が心配なのは、陛下の死によって、これからゼーアがどうなっていくのかだ。本格的な三国分裂が始まるかもしれない」
 アルドゥインは端正な眉を寄せた。
「だが、今ここで俺たちが何を心配しても仕方あるまい?」
 セリュンジェは肩をすくめた。
「そうだな……しかし、気になるよ」
「お前は本当に、自分に関係ないことでも心配するやつだな。そんなことは、我らがメビウスに火の粉が飛んできたときに考えればいいんだよ」
「お前の言うとおりだな、セリュ」
 アルドゥインは低く声を立てて笑った。
 そしてまた――ゼーア。
 弔問使節の代表も決まり、翌日には随員の選定も何とか済まされた。あれこれの準備にもう一日必要としたので、かくてヌファールの月三十日にグリュンとルカディウスは三百人の随行員・護衛と共にシャームを発った。
 ヒダーバードまでは徒歩で行っても五日程で到着する。そのまますぐに帰ってくればサライアの月の上旬に戻ってこられる。だが、どうせシャームを出るのならラトキア東北部の見聞を広めたいし、シャームに伺候していない東北部諸侯に視察を兼ねた挨拶をしていきたいとルカディウスが申し出ていたため、帰りはずっと遅くなる予定であった。
 視察だのなんだのと、胡散臭い理由だとアインデッドは思ったのだが、だからといって一緒に行くわけにもいかない。離れたところで心配しても何にもならないことは判っていたので、シャームを発つ前日にわざわざ自分の寛ぎを邪魔しに来て、鬱陶しいくらい別れを惜しむルカディウスに対して「そんなに行きたくなければ無駄に時間をとらなきゃいいだろうが」と言うだけに止めていた。
 ルカディウスはともかくとして、グリュンが城からいなくなったことで一番のびのびしていたのは、実のところアインデッドではなくシェハラザードであった。うるさいことを言うグリュンがいないのだから、とばかりにアインデッドを食事に誘ったり、お茶に誘ったり、恋人との時間を作ろうと一生懸命であった。
 しかし、グリュンがいようがいまいがアインデッドの忙しさは変わらなかったので、彼女の努力が実を結ぶ事はあまりなかった。だからその夜、アインデッドがシェハラザードの私室を訪れたのはほとんど一ヶ月ぶり以上の事であった。
 ともするとアインデッドは仕事を理由に帰りたそうであったが、さすがにシェハラザードをずっとほったらかしにしている自覚があったので、その日はできるかぎり彼女の意向に沿う事に決めていたようだった。


「アインデッド……」
「……呼んだか?」
 傍らで眠っているように見えたので、何となくその名を呼んだだけであったが、意外にもアインデッドはまだ起きていた。
「ただ、呼んでみただけだわ。起こしてしまったのならごめんなさい」
 シェハラザードは常夜灯のおぼろな明かりの下でこちらを見つめる恋人の顔をうかがった。
「謝ることはないぜ。ずっと起きていたからな。お前こそ眠らないのか」
「そうね……。明日、あなたに相談したいことがあったの。それを考えていたら、眠れなくて」
「……どうせなら、今言えよ。いったい、何の相談だ?」
 アインデッドはシェハラザードの肩や頬にかかった髪を払って、手櫛で整えてやりながら言った。シェハラザードはアインデッドの肩に頭を持たせかけたまま、彼の顔を見上げた。
「ナーディルのことよ。わたくしはもともと、あの子が戻ってくるまでの代理のつもりで大公に即位したの。それは知っているわよね? そして、ナーディルは生きていて、シャームに戻ってきてくれた。わたくしがナーディルに大公位を譲っても、あなたはこの国にいてくれる?」
 シェハラザードは言い終わると、不安げにアインデッドの背中に腕を回してすがりついた。自分の物思いと同じことに悩んでいたのか、とアインデッドは少しすまない思いになった。
「それはまあ、ナーディル殿下が俺を解雇するとでも言うのでなければな。俺には出ていく理由はねえよ。大公位を譲るってのも、ナーディル殿下が元々世継ぎの公子だったんだから、当然の話だろう」
「でも予想外に、父上がご存命の頃から次期大公と決まっていたナーディルより、臨時で就いたわたくしのほうが民に支持を受けるようになってしまったわ」
 ややあって、アインデッドは頷いてみせた。
「ハディース殿に聞いたが、ツェペシュ大公が生きていた頃から、そんな話はちょくちょくあったらしいな」
「ええ……グリュンとか、今は亡くなったナハソールが特に。父上も、わたくしが男ならばとよく仰っていたわ。だけどあの時は、まさかこんなことになるとは思っていなかったら言えていたことよ。それにわたくしだって、大公という仕事がこんなにも荷の重いものだとは思っていなかったわ。端で見ている分には気楽なものだったけれど、いざなってみると大変なものね」
 シェハラザードはため息に乗せて呟いた。
「もちろん、ナーディルやアクティバルが何と言おうとあなたがラトキア救国の英雄であることに違いはないし、おいそれと免職にするわけにもいかないでしょう。だけど、わたくしがあなたを優遇しすぎたと言われて、降格でもさせられたら……」
 アインデッドは苦笑いを浮かべた。ナーディルはアインデッドに敵意を持ってはいないし、アインデッドもナーディルを好意的に見ている。ナーディルが三代大公になってもアインデッドの立場が大きく変わることはないだろうし、シェハラザードの心配は取り越し苦労になるだろう。
「それなら、ナーディル殿下のもとで納得してもらえるだけの手柄を立てればいいだけの話だ。そうだろう?」
「ええ――ええ、そうだわね。あなたはいつだって、自分の力で何もかも手に入れられる人だもの」
 シェハラザードは何度も頷いた。彼女の本当に言いたいことはアインデッドにも判っていた。急にいとおしい気分に駆られて、アインデッドは彼女の体を引き寄せて、銀色の髪に口づけした。
「別に俺は、お前の地位を愛してるわけじゃないんだぜ、シェハル。そんなふうに疑われるのは――心外だな」
「疑ってなんか……」
 シェハラザードの抗議はいくぶん弱々しかった。
「それに、そういうことなら、俺はお前には大公なんて早く辞めてもらいたい」
「え」
 驚いたように、シェハラザードはふいに体を起こしたアインデッドの顔を見上げた。薄暗がりで黒く見える彼の瞳は真剣そのものだった。
「お前が大公であることに宮廷も民も慣れてしまう前に――というより、お前の下での体制が固まりきる前に譲った方がいい」
 その意味するところはシェハラザードにも理解できた。彼女を頂点とした政体が確立すれば、それに付随した利権構造なども出来上がってくる。譲位、と簡単に言うが、それは一番上だけが代われば済む問題ではないのだ。シェハラザードが大公でいてくれなければ困るもの、ナーディルが大公にならなければ困るもの、双方がいるのだから。
「そうね……」
「それに、そうすれば、俺が地位目当てでお前と付き合ってるんじゃないってことを皆に判ってもらえる」
「アインデッド……」
 シェハラザードの小声の呼びかけを遮るように、アインデッドは少し悔しげな面持ちで続けた。
「そりゃあ、最初お前に近づいたのは、のし上がるための足がかりが欲しかったからだ。その事は否定しない。だけど、いくらのし上がる早道だっていっても、お前をそういうふうに利用するつもりなんかさらさらなかった。俺が欲しかったのは、最初の足がかりだけだ。女の気持ちを利用するなんて、男として最低だからな。
 だからお前を好きになったことはそれとは別なんだ。でも今のままじゃ、まるで俺がラトキア大公の地位目当てでお前を誘惑したと――周りにはそう見えてしまう。実際そんな風に考えてる連中が多いのも判ってる」
 内奥の苦渋をそのまま表わすように低い声を、シェハラザードは黙って聞いていた。アインデッドの言葉は本心からのものだと、その表情や声音から悟られた。アインデッドの複雑な矛盾した感情、時に見せる冷たい態度の理由をシェハラザードはこの時やっと理解した。
 アインデッドがさらにのし上がっていくために、大公であるシェハラザードを利用するのが最も確実で手っ取り早い手段であるのは明らかである。だが、アインデッドが彼女の手を借りようと思ったのは最初の手がかりを得るためだけに過ぎない。それ以上のことは、彼は考えもしていなければ求めもしていなかった。
 『光の天使』がシェハラザードであると今のアインデッドは確信していたが、シェハラザードは公女であって王女ではない。彼女の地位を利用したとしても、王にはなりえないとアインデッドは理解していた。飽くまで王位は自らの手で掴み取るものであり、ラトキア大公としてのシェハラザードを利用する気など全くなかったのである。
 しかし現実として、彼はいかようにでも恋人の地位を利用できる立場となってしまった。またルカディウスが目論んでいた通りにもなってしまった。シェハラザードを一人の女として愛したとしても、誰からも地位目当てとしか思われない。そのことがアインデッドを苛立たせていたのである。
 理由を告げることができないだけに、自分から別れを切り出すことなどできない。ならばいっそシェハラザードが自分を嫌ってくれれば、彼女から別れてくれればそんな疑いも晴れる――そんな思いが、時にアインデッドを冷たい仕打ちへと駆り立てていたのだ。
「ごめんなさい、アイン」
 シェハラザードは呟いた。アインデッドはちょっと驚いたような目をしてシェハラザードを見た。
「何が?」
「あなたがそんなふうに悩み、苦しんでいたことに、わたくしは全然気づかなかった。あなたの気持ちを疑いさえしていた。さぞ気の利かない女だと思ったことでしょうね」
「そんな風には思ってねえよ。どう思われたって仕方ねえ。はたから見ればその通りなんだから」
 照れくさそうにアインデッドは答えた。



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