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 かくして正使節はグリュンということで決着し、副使節には誰を任命するかに議題は移った。副使にもまた、それなりの地位と身分のものを選ばなければならない。大方の予想通り、これはかなり紛糾した。
 グリュンのように役職は名目だけで、不在であったところで誰も困らない人物というのは、実のところラトキアには全くといっていいほどいなかったのである。
 誰もが認めるほど優秀な人物は、文武を問わずエトルリア軍によって殺されていたし、残った人々ではその日その日の政治を行っていくのが手一杯だった。まして一日や二日で帰れるものではないとなると、不在がもたらす政治への影響を最小限にとどめることを第一に考えなければならない。
 どんな分野の仕事であれ、責任者がいなくなったらたちまち滞ってしまう事が目に見えていた。しかし、責任者になれるほどの地位や身分の者を出さなければ、他国からゼーア皇帝を死んだからとて蔑ろにしている、と批判を受けかねない。なかなか難しい問題であった。
(エトルリアめ、使えそうな奴を片っ端から殺しやがって。……こうなることを期待してやがったのかな。だからってラトキアの連中も、上の一人に何もかもおっつけようとするから、こういうことになるんだよ)
 この人が僅かな間でも不在となっては絶対に困る、とグリュン以外の誰もが理解していたらしく、様々な人が候補に挙げられていく中でもアインデッドの名が出ることはなかった。おかげでアインデッドは安心して自分の考えにふけることができた。
(早いところ、後任に置いたり代理を任せられるような人材を見つけ出して、どんどん登用していかないと。でなきゃもっと大変な事態が起きた時、どうにもならなくなる)
 俺が考えることでもないんだがな、と思いつつも、アインデッドは眼前で繰り広げられている議論を見ていてそんな感想を抱いた。ラトキア人の他人任せな気質そのものを変えていかないことには、これはどうにもならないだろう。しかし人々の意識を変えるには長い時間がかかりそうだったし、アインデッド一人の力でできることではない。
「でしたら――ナーディル殿下にお任せしてはいかがでしょう?」
 誰かの声で、アインデッドは物思いから現実に引き戻された。ちらりと目をやると、ナーディルはいきなり名前を出されたことに少々驚いたふうであった。だがすぐに落ち着いて口を開いた。
「そうだな。僕は先代大公の後嗣、今は公弟であるし……身分としては申し分ないな」
 彼が頷いて同意を示したところで、マギードがやや困った顔で言った。
「しかしナーディル殿下は仮にも公子、公弟たる方。それを副使に、というわけには参りません。もしナーディル殿下に行っていただくのであれば、殿下が正使とならねばなりますまい」
 それは尤もなことだったので、誰もそれについて反論しなかった。
「ならばグリュン殿には一旦決まったことを覆して申し訳ないが、副使になっていただき、殿下を改めて正使にお立てすればよろしかろう」
 財務顧問の一人であるダルリアダ伯爵ソアルーが言った。その方向に話が流れていこうとしたが、今度はシェハラザードが待ったをかけた。
「少し、その結論を出すのは待ってもらえまいか」
 全員の目が彼女に向く。ナーディルも姉の横顔を窺った。
「ナーディルがふさわしくないと言うのではない。けれど、ナーディルはわらわの臣下ではないのだから、わらわの代理としてならば行かせるわけにはいかない」
 シェハラザードの代理としてナーディルが出て行けば、それは国内外にラトキア大公が彼女であり、ナーディルは臣下であると示す事になってしまう。そうなることだけは、シェハラザードとしてはどうしても避けたかった。
 それに、シェハラザードが行ったのはいまだ仮即位だけで、正式な戴冠は行っていない。彼女とナーディルの関係が主従として確定してしまうような事は、今の不安定な大公位の状態から考えても望ましくなかった。
「代理ではなく、とおっしゃるならば、次期大公あるいは大公として行かれる――ということになりましょうか?」
 ゼテスが言った。シェハラザードはこれにも首を横に振った。
「できれば、ナーディルにはラトキア国内にとどまっていてもらいたい。一応の和平は結んだけれども、いまだ我々の手にはエトルリア公子ランの身柄がある。エトルリアがそれを取り戻したがっていることも、我が国の領土を諦めきっていないことも明白。弔問とあっては大掛かりな護衛をつけることはできないし、そこを突いて我が国に対する人質とすべくナーディルを狙ってエトルリアがことを起こさぬとも限らない」
 取り越し苦労――と言ってしまえればよいのだが、言い切れないところがラトキア人のエトルリアに対する不信感の強さであった。また、シェハラザードの心配どおりの事が起きるかもしれないほど、二国間の関係はいまだ緊張をはらんでいた。
「閣下のご懸念も尤も……しかし、では誰にしたものか……」
 誰かが困りきった声で呟いた。
「差し出口をお許しくださいますでしょうか、閣下?」
 控えめに手を挙げ、発言を求めたのはルカディウスであった。
「何事か、ルカディウス卿?」
「副使の大任――このわたくしめにお任せくださいませんでしょうか」
「そなたに?」
 シェハラザードは驚いたように大きく瞬きをした。
(ルカの奴、何を考えてやがる?)
 同様に、アインデッドは不審な眼差しをルカディウスに送った。ルカディウスはその視線に気づかなかったように続けた。
「わたくしはゼーアの民ではございませんが、大公閣下にお仕えもうしあげ、お許しいただけるならばこの地に骨を埋めたいと考えております。それゆえ、グリュン閣下にゼーアのしきたりについてなどをご指導いただきつつ、同道をお許しいただきたいと考えるのでございますが、いかがでございましょうか? わたくしは参謀長――多少格は劣りましょうが、他国に面目を保てる程度のものではあろうと自負しております」
「しかし、参謀長の代理を務めるものがいなくては……」
 マギードが眉を寄せた。
「むろん仕事の幾つかは残してゆかねばならなくなりますし、その点では多少ご不便をおかけする事になるとは思いますが、急を要する件については早馬でお知らせくだされば、さほど滞る事はございますまい」
 その心配を払拭するように、ルカディウスはすらすらと言った。
「そうね……」
 シェハラザードは具体的な検討に入った顔つきでちょっと首を傾げた。同じく考え込む表情を見せていたアインデッドの胸中は、かれらとは違っていた。アインデッドの方は、ルカディウスが本心からラトキアの臣として生きていきたいなどと思ってはいないことを知っていたからである。
(ゼーア皇帝の弔問なんかに行って、いったい何にする気なんだ? ペルジアに何か仕掛けに行く……ということだろうか)
 しかしいくらペルジアが世界に冠たる弱国で、ラトキアは復興の途上で意気が揚がっているといっても、立て続けに大規模戦闘を行うだけの国力はない。ゼーアの覇権を狙っていくにしても、エトルリアとの交渉を片付けるのが先だということは、ルカディウス自身が一番よく判っているはずである。
(だが、こいつがナーディルの傍から消えるのなら、少なくともその間は手出しできないという事になるか……)
 一時でも自分から離れたがらないルカディウスが、今回に限ってわざわざ名乗り出てまで外国に出向くというのはいかにも怪しい。自分の目の届かない場所に行って何事かを企むつもりでいるのではないかと考えると不安であったが、シャームからいなくなればナーディルに直接手出しをすることはできなくなる。とすれば、さして反対するいわれはないと彼は考えた。
 シェハラザードたちはアインデッドがそんなことを考えている間に結論を出した。他に副使に立てられそうな人物を思いつくことができなかったので、すんなりとルカディウスに決まったのである。
「ではルカディウス卿、そなたを副使に任じる」
「かしこまりましてございます。よろしくご指導お願いいたします、グリュン閣下」
「うむ。こちらこそよろしくな」
 どういうわけかルカディウスには敵意を抱いていないグリュンは、いたって鷹揚に頷いただけであった。
 かくて正使と副使も決定し、後の護衛やら随員やらの選定と任命は儀典官や近衛の責任で行われることだったので、会議はお開きとなった。アインデッドはルカディウスが副使になったことに多少もやもやした気分が残っていたけれども、置いてきた仕事が待っていたのでルカディウスに声をかけることもなく早々に執務室に戻っていった。
 シェハラザードとナーディルはお茶を仕切りなおすことにして、談笑しながら赤の部屋を後にした。他の閣僚もぞろぞろと出て行く。その中で、グリュンは先を行くマギードを呼び止めた。
「マギード殿」
「いかがなさいました、グリュン様?」
「シャームを留守にする前に、一つ貴殿に聞いておきたいことがあるのだが。ドニヤザード様があのようなことになってまだ一年しか経っておらぬことだが、結婚は考えておらぬのかね?」
 突然尋ねられて、マギードは首を傾げた。口許は微笑みを浮かべたが、目元には悲しみが表れていた。そして小さく首を横に振った。
「そのようなことは、考えもできません。むろん年齢の事もありますし、ステラ家の当主としていつかは考えねばならぬことでしょうが……今は、まだ」
 グリュンは探るような目をマギードに当てながら言葉を続けた。
「ところで、シェハラザード様のことはいかがお思いだね?」
「グリュン様」
 日頃は穏やかなマギードの顔に、険しいものが走る。
「それはどういうことですか」
「いや、貴殿はドニヤザード様と婚約なさっておいでだったのだから、大公家との縁戚を結ぶにしても問題はないものかと思うのだが……」
「やめて下さい、グリュン様」
 グリュンが言わんとしていることを理解した途端、マギードは激しい口調で遮った。
「ドニヤザードの代わりになる女性など、私にはおりません。彼女が亡くなったからとて妹のシェハラザード様に求婚せよなどとは、ドニヤザードに対しても、シェハラザード様に対しても失礼ではありませんか」
 マギードの声は怒りを隠していなかった。
「それに、シェハラザード様にはアインデッド殿がおられるというのに、何ということを仰るんです」
「それが心配なのだ」
 ちょっと勢いを取り戻してグリュンは言いかけたが、マギードの目が全く笑っていない事に気づいて、もごもごと唇を動かした。
「その……わしはただ、このままではシェハラザード様が心配でな……」
「何がご心配なのかは存じませんが」
 目を伏せて短いため息をつき、呆れと怒りが混じったような声でマギードは言った。普段穏やかな彼からは考えられないような声音だった。
「ともかく、グリュン様が期待されているようなことは、私は全く考えておりません。二度と仰らないで下さい。失礼」
 何かを言い返す隙も与えず、マギードは素早く背を返して歩いていってしまった。グリュンは何ともいえぬ渋面でそれを見送った。



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