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 ウジャス三世崩御の知らせは、当然のことながら閣議に招集された者全員に告げられる事になった。ペンを右手に、将軍の判を左手に持ち、大量の書類を相手にしていたアインデッドはこの急な知らせに驚くでもなく、ただ面倒そうな顔をしただけであった。名前を知っているだけでしかない名目上の君主の死など、彼にとってはどうでもいいことであったし、それよりは目の前にある現実の仕事を片付けたかったのである。
「面倒な時期に死んでくれたもんだな、まったく」
 だがそういうわけにもいかず、急いでやりかけの仕事だけは済ませてから、渋々立ち上がりながらアインデッドは肩をすくめた。
「ラトキアの再独立を認めてくれてからで助かったけどな。もう少し手続きが遅れていたらどうなっていたもんだか知れねえ」
 あまりにもてらいのない言葉だったので、隣で聞いていたルキウスがどきっとしたように顔をこわばらせた。
「閣下」
「ルキウス、今のは俺の独り言だ。いいな」
 少年の冷や冷やした表情を見下ろして、アインデッドは片頬で笑ってみせた。アインデッドのこういう発言はこれが初めてというわけでもなかったので、ルキウスはようやくほっとした表情を返した。
「かしこまりました。私は何も聞いておりません」
「じゃあ、行ってくる。赤の部屋だったな」
 『赤の部屋』はシャーム城内にいくつかある、会議用の小広間の一つである。赤の、と頭につくことから明らかなように、入ってすぐ目に入るのは一面の赤である。亡きツェペシュ大公が好んだ色であったことから、この部屋は赤で統一され、お気に入りということで特に贅が凝らしてあった。
 壁に張られた布は鮮やかな赤葡萄の色をしており、セラミスと薔薇の花が絡み合いながら連続する意匠が浮き上がるように織られている。それは絹のような光沢を持つサテン織りのジャニュア綿であったが、仮にエトルリアの絹であったら、同じ面積の金箔が貼られているほどの価値になっただろう。もちろん、そうでなくてもたいへんな値打ちものであることに変わりはなかったが。
 この赤い壁布に合わせて、天井から吊り下げるのは赤いガラスのシャンデリア――といきたいところであっただろうが、それはあまりにも高価だったので、赤みがかった輝きを放つ金銅製の吊り燭台であった。壁にも飾り枝付き燭台が取り付けられており、まもなく訪れる日没に備えてその全てに蝋燭が灯されていた。
 シャーム城内の大公一族や貴族たちの使う部屋の例に漏れず、ここも壁といわず天井までごてごてと彫刻やら絵画やら、漆喰の飾り彫りやらで飾られている。この装飾過多にいつもアインデッドはうんざりさせられた。どこに目をやっても落ち着けないし、第一この部屋の赤は自分の髪の色には似合わなくて気に入らないと密かに思っていた。
 外はいまや薄暮の時間帯である。夕日の鮮やかな朱金の光と蝋燭の炎、そして部屋全体を包む壁布の色のせいで、部屋全体が赤い光に満たされていた。居並ぶ人々の顔も真っ赤に染まっている。
(まるで、悪魔の腹の中にでもいるみたいだぜ)
 声には出さず、アインデッドは心の中で毒づいた。これを美しいと思う感覚はどうしても理解できない。ここにいる全員が同じ美意識を持っていて、この部屋を美しいと思っているのかどうかまでは判らなかったが。
 アインデッドが入っていった時、主だった廷臣はほとんど揃っており、あとはマギードとシェハラザード、ナーディルの到着を待つばかりであった。もちろんこのことにグリュンが噛み付いてこないわけがなかった。
「ずいぶん遅いではないか、イミル将軍。閣下のお召しに遅れたらいかがするつもりだったのだ」
「申し訳ございません」
 遅れたわけじゃないからいいだろうとか、俺にはあんたと違って仕事があるんだとか、言いたいことは様々にあったが毎度のことながら腹の底にぐっと溜め込んで、アインデッドはことさら固めた無表情で頭を下げた。
「まあまあ、グリュン殿」
 横から助け舟を出してくれたのは、これも毎度のことながらハディースであった。
「実際に遅れたわけではございませんし、仮に遅れたときには大公閣下がご叱責なさるべきお立場なのですから、ここでグリュン殿がお心を煩わせることもございますまい」
「まあ、貴殿がそう言うのなら……」
 グリュンを直接たしなめるのではなく、気遣う形をとったのが功を奏したのか、グリュンは一応引き下がり、それ以上何も言ってこなかった。アインデッドは視線とちょっとした表情だけでハディースに謝意を伝えた。きちんと通じたようで、ハディースも頷きを返してくれた。
 そこにシェハラザードたちが現れたので、グリュンはアインデッドに厭味を言うのをひとまず忘れたようであった。
 シェハラザードからの前置きの挨拶は短く、すぐに会議は本題の、弔問使節を誰にするかの検討に入った。
「ゼーア皇帝は三大公国の君主ということになっていたから――正式には、大公であるわらわが行かなければならないのであろうが、そういうわけにも……」
 シェハラザードが言葉を途切れさせたように、大公不在の隙を狙われては困るので、シェハラザードが国を離れるなどということはなるべく避けたい。生前にも新年の挨拶などには代理を寄越してばかりだった残る二大公国も、大公自らが弔辞を述べに行くとは考えられない。
「たしか、二十年以上前に皇后が亡くなられたはず。その時にはどうしたのか、記録は残っていようか、ゼテス?」
 シェハラザードは座の中央辺りにいた儀典官ゼテスに視線を向けた。
「はい。ここに記録がございます」
 ゼテスは覚書のようなものをめくり、目指す記述を見つけて読み上げた。
「ゼーア皇后レウボヴェラ陛下薨去の際には、当時宰相であらせられたグリュン様がツェペシュ閣下の名代として弔問使節をつとめられております」
「だったら今回も、グリュンを姉上の名代として使節に立ててはどうだろう?」
 ナーディルが言った。
「そうね。摂政ならば皇帝陛下を充分に立てたことになるし、他国にも示しがつくでしょうし」
 大公らしい言葉づかいを忘れて、シェハラザードは一も二もなく弟の意見に賛成した。居並ぶ廷臣たちもそれぞれ目を見交わしたり頷きあったりして、異を唱えるものはいないかと思われた。
「お待ちください、大公閣下」
 そこに口を挟んできたのは当のグリュンであった。
「ゼーア皇帝陛下といえば大公閣下の君主に当たる方、確かに礼を尽くさねばならぬのは道理でございますので、大公閣下に代わるほどの地位のものと言えばむろん選ばれるべき地位のものも限られてまいりますが、いやむろんだからといってそれがしがそれほどの大した者だと申し上げるわけではございませんが、しかしそれがしが参りましてはその間、摂政不在ということになりますし、もちろんそれがしがおらぬからとて政治が滞るものではございますまいが、とはいえ僅かな期間とはいえシャームを離れますのは色々と不安がございます。ですからこの弔問には他の方を立てるのがよろしかろうかと」
 長々と喋ったわりに、論点も言いたいこともはっきりしなかった。とりあえず判ったのは、グリュンが渋っているということだけだった。
「ではグリュン、他に誰がわらわの代理として派遣するのにふさわしいと思う?」
「それは……」
 シェハラザードが訊ね、グリュンがちょっと返事に詰まってしまったその時だった。
「確かにグリュン様のご心配にも一理あるかと思われます、閣下」
 急に発言したのはアインデッドだった。何を言うのか、とシェハラザードはすみれ色の瞳を見開いた。グリュンも、まさか賛成意見めいたものがアインデッドの口から飛び出すとは思っていなかったので、口を開けたまま黙ってしまった。
「グリュン様は摂政――閣下をお助けくださる立場にあられるのは我々一同がよく存じております。また皆様もご承知の通り、このラトキアにはいつ何時、不測の事態が起きぬとも限りません。その時に閣下のお傍におられぬならば、グリュン様に不安あることは当然かと」
「な、何を言っておる、この無礼者め」
 グリュンは気色ばんだ。
「この老骨の手を借りねばシェハラザード様が何一つまともにできぬとでも言いたいのか。わし一人がおらぬからとて政治が滞るようなことなど、あろうはずがない。シェハラザード様は大公として立派にラトキアを治めておられるし、マギード殿もいるのだぞ」
「とんでもないことでございます」
 神妙くさった顔で、アインデッドは首を振った。そしてとびきりの愛想笑いを浮かべてみせた。
「大公閣下のお力を疑うなどということを、何ゆえにこの私が申しましょうか。ただ、閣下を心から案じておられるグリュン様のご心配もごもっともと思い、そのように申し上げたまでの事です」
 確かに自分がいなければ心配だと最初に言い出したのは自分だったので、グリュンは渋々黙った。
「ですがその心配は無用のことと、グリュン様自らが太鼓判を捺してくださったようですね。これはお引き受けくださるということでございましょう?」
 アインデッドの口調はあくまで丁寧で、穏やかな笑みさえ浮かべていた。たとえその緑の瞳を覗き込んでみたところで、悪意のかけらも見出すことはできなかっただろう。それほどまでに、彼は日頃の恨みつらみを完璧に隠しきっていた。しかし見ての通り、アインデッドの言葉には棘が満ち溢れていた。
 むろん彼は、グリュンがそのことに気づかず、周囲に気づかれても絶対に無礼にはならないような言葉を選んでいた。
「それは……」
 グリュンは言葉に詰まった。自分がいなくてはどうのという先程から繰り返している理由で断れば、自分で今さっき擁護したばかりのシェハラザードの統治能力を否定する事に他ならず、それは廷臣たちの前で彼女を「無能だ」と言ったことになる。
 いくら私的な場面では彼女を子供扱いし、その保護者のつもりでいたところで、公式の場でそんなことをすれば王権の否定、叛意と受け取られても仕方がない。そうでなくとも臣下が主君を侮るような発言は許されない。さすがのグリュンでも、その程度の判断力はまだ残っていた。
 彼が返答に窮している間に、マギードが明るい声で追い討ちをかけた。
「おお、ではお引き受けくださるのですな、グリュン殿!」
「いや……」
 グリュンの弱々しい声になど、もう誰も気を留めなかった。シェハラザードは晴れやかな笑顔を向け、両手の指先をぱちりと合わせた。
「よかったわ。摂政が弔問使節にたつならば、皇帝陛下への敬意を充分示した事になるでしょう。これで我が国の体面も保たれようもの」
 もはやグリュンには拒否する余地が残されていなかった。改めて回答を求められ、彼は歪んだ笑顔で承るしかなかった。アインデッドの策略にはまった――と彼が考えたのはしかし短い間で、これがいかに名誉なことであり、重大な役目であるかを周囲が口にし、グリュンこそその役目にふさわしいと持ち上げるのを聞いているうちに、次第に忘れていってしまった。逆に上機嫌になってきさえした。
 もちろん、アインデッドもそこまで計算ずくで、わざと引っ掛けるようなことを言ってやったのである。



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