前へ  次へ

     老いた鷲の星は墜ち
     南の空より若き狼の星が昇りつつあった。
     それは世界を破滅に導いてゆく
     恐るべき凶星であった。
               ――ゼーア年代記




     第三楽章 遠き挽歌




 翌日は、前々からの予定通りにシャーム城の本宮前に設けられている大馬場で観兵式が華々しく執り行われた。国境警備にあたっているのでシャームには駐留していない黄騎士団を除く黒、白、赤、青の四騎士団の精鋭が集められて、まずはそれぞれ行進を見せ、その後には簡単な模擬試合が行われた。
 この観兵式の前にも、ナーディルにとって嬉しい再会があった。
「お早うございます、ナーディル殿下。本日はそれがしが説明係としてお傍に控えさせていただきます」
 ロイヤルボックスに入ってきた少年が一礼した。顔を上げたので誰なのかを知って、ナーディルは顔をほころばせた。思わず礼儀作法も忘れて駆け寄り、喜びに任せて彼の両手を取った。
「テオ! 懐かしいな。元気だったか?」
「はい。殿下におかれましてもお変わりない様子、嬉しゅうございます」
 にこやかに返したのは前黒騎士団長ナハソールの次男、テオであった。歳が近い事もあってナーディルとは幼い頃から遊び友達として親しくしており、今回もその関係で説明係に抜擢されたのだった。
 テオがまとっている黒騎士団の礼服を見て、ナーディルは言った。
「君はやはり黒騎士団に入ったんだね」
「アインデッド将軍のお引き立てをいただきまして、今は第一隊で副隊長をつとめております」
「そうか」
「ああ殿下、騎士団の行進が始まります。ご覧下さい」
 進軍ラッパの音を聞いて、慌ててテオは馬場に顔を向けた。ナーディルもひとまず世間話はおいて席に戻った。眼下では四色の彩りとなった兵士たちが軍楽隊の行進曲に合わせて足並みを揃え、列を展開したり隊形を組み替えたりといったパフォーマンスを繰り広げている。
 思い出したようにナーディルはちょっと声のトーンを落とした。
「父上と兄上は、残念なことだったな。特に父上のことは辛かっただろう」
「勿体ないお言葉です。ですがラトキアのために命をかけることができたのですから、父も兄も本望であったと思います」
 テオは悲しげな微笑みを返した。
「父と兄が亡くなったことは、いくさの常なのですから僕の中ではもう踏ん切りがついているんです。大公閣下から哀悼のお言葉までいただいて、畏れ多いばかりです」
「テオ……」
「ただ、父はエトルリアの軍門に一時降っていましたから、そのことで父を責める方もいますし、僕が黒騎士団に入ったことについても納得がいかぬ方もおられるようです」
 幼馴染みの気安さで、テオは沈みがちな声で打ち明けた。
「それはしかし、ドミニクス殿を人質にとられて致し方なかったことと聞いているぞ。そんなことを言う奴がいるのか。何て無礼な」
 憤慨したようにナーディルは語気を強めた。短気ですぐ手が出ることで知られていた獅子公ツェペシュの血は争えないらしく、シェハラザード同様そのまま立ち上がりかねない勢いだったので、テオは手真似で止めた。なだめるように言う。
「でも、アインデッド将軍はいつも僕の味方をしてくださいます。以前僕の目の前で父を悪し様に言った方がいた時も、大公閣下のために父が命をかけた事実は間違いないし、裏切ったと見えたのも兄を人質にとられていたゆえ致し方なかったこと――。後の行動に見るように、父は誰よりも立派な忠義の士だったと褒めてくださいました。そして誰の前であろうとも、二度と父を侮辱するような発言はするな、今後もしも自分の耳に今のような発言が入ったなら、自ら切って捨てるからそう思えと、そうも仰ってくださいました。将軍は本当に良い方なんですよ」
 ナーディルの気を落ち着けさせるはずだったものが、次第にテオ自身が興奮した口調になって、目を輝かせて頬を紅潮させた。
「テオは本当にイミル将軍を慕ってるんだな」
「ええ!」
 テオは力強く言い切って頷いた。
「素晴らしい方ですよ、将軍は。あの方がラトキアに来てくださったことは、ヤナスのお導きだと思います。それにナーディル殿下もこうして戻ってきてくださったのですから、これからのラトキアにはもう、心配することなど何もないでしょうね」
「そうだな。そうなればいいと思うよ、僕も」
 話している間に行進が終わり、やがて始まった騎士団の模擬試合を眺めながら、ナーディルは呟いた。

 その知らせがもたらされたのは、ナーディルがシャームに戻って五日目、ヌファールの月二十七日の夕方のことだった。
 シェハラザードとナーディルが晩餐を控えて軽くお茶でもしようと支度を整えさせ、シェハラザードがもてなし役としてペルジア産のお茶を注いでいたところに、ラトキアでただ一人の宮廷魔道士オートンが慌ただしく入ってきた。
「おくつろぎの所を失礼いたします、シェハラザード閣下、ナーディル殿下」
「いったい何事なの? オートン」
「申し上げます。火急の知らせにございます」
 オートンは褐色の髪と瞳を持つ四十歳ばかりの男であった。カーティスで正規の魔道教育を受けた魔道師はラトキアには数えるほどしかおらず、それも初級や中級の三級どまりといったところである。そんな中で中級の二級を持つオートンは、この国ではずば抜けた才能を持つ魔道師であった。
 もっとも、背はほどほどながらずんぐりした体格や、いかにも無害そうな太り肉の柔和な顔立ちから察せられるとおり、才気煥発とは言い難いところがあり、自分からリーダーシップを取って何かをするということは無い。
 ラトキア宮廷に仕え始めた二十年近く前から今に至るまで、与えられた地味な仕事を地味にこなすだけの目立たない人であった。あまりにも地味なのでエトルリアによる血の嵐を免れたのはある意味で見上げた事だが、彼の存在に全く気づいていない廷臣もいたくらいである。が、アインデッドがフリードリヒに対して述懐したように、国家間の連絡係として、こういう時だけ表に出てくるのであった。
「本日、ゼーア皇帝ウジャス三世陛下がご逝去あそばされました」
 報告を受けて、シェハラザードは持ち上げかけていた茶器を下ろした。
「死因は何だったの?」
「老衰によるものと聞いております。ウジャス陛下は本日、いつもどおりにご起床あそばされ、午前をお過ごしになられました。昼食の後午睡を取られましたが、ディアナの刻に女官が陛下にお目覚めの挨拶をしに参ったところご臨終にあり、ヌファールの刻にご逝去を確認したとのことです」
「まあ……」
 眠ったまま息を引き取ったというのなら、帝の望みどおり、それは穏やかな最期であったのだろう。
 シェハラザードもナーディルも、この薄幸の老帝に拝謁したことはなかったが、ゼーアに住む者としてその人生に起きた事は知っていた。そしてかれらは二人とも、乱世を生きる王族であった。このような場所、時代に王族と生まれ、見る者には悲惨とも思える人生を送りながら、静かに最期を迎えられたことに、何か思うことがあったようである。しばらく、二人は無言で顔を見合わせていた。
「遺言などは?」
 やがてシェハラザードが先に物思いから覚めて口を開いた。オートンはうやうやしく頭を垂れた。
「帝の最期のお言葉は『幸せに生きよ』であったとのことです。ゼーアの帝位に関する遺言のたぐいは現在のところ、存在を明らかにされておりません」
「ペルジア大公がゼーア皇帝の後嗣を名乗るということは、ありうるかしら」
 頬に軽く指を当てて、シェハラザードは呟いた。
「ですが姉上。もしアダブル大公が次代のゼーア皇帝なり、新たなゼーア王なりを名乗るにしても、それに関するウジャス陛下のお言葉が全くないと言うのでは根拠に欠けます。そうならば、遺言がないというのではなく、むしろ帝が自らを後嗣と指名したという遺言を捏造し、同時に発表するのではないでしょうか」
 それに応えて、ナーディルが言った。
「ですから、何も残されていないと明言したからには、アダブル大公にそのつもりはないと考えた方がよいでしょう」
 少しも迷う所のない堂々とした口調であった。シェハラザードは弟がいつのまにかそんな喋り方をするようになったことに驚くと同時に、その思考力に驚いた。
「確かに……ペルジア大公が話に聞くとおりの庸常な人物だというなら、あなたの見方の方が正しいかもしれないわね」
「それよりも気になるのはエトルリアの動向です」
 つとナーディルは表情を厳しくした。
 名目だけでも三つの大公国が『ゼーア』という一つの枠組みにおさまってきたのは、ひとえにゼーア皇帝の存在があったからである。それが無くなった今、必ずや三国の関係に何らかの変化が生じてくるだろうことは、シェハラザードならずともこの話を聞いたものなら誰しも予想できた。
「そうね……ペルジアが『遺言はない』と明言したのも、エトルリアへの牽制なのかもしれない。でも今は、とにかくウジャス帝の崩御への対応を考えないと。オートン、他にペルジア側からの連絡は?」
「陛下の葬送の礼はゼーア帝国の伝統に則って執り行う、ということ以外、具体的には何もございません」
「それではさがってよろしい。ご苦労でした。タマル、閣僚と儀典長にこの事を告げて、至急集まるようにと伝えてちょうだい。ソナ、ハガル、おまえたちは赤の部屋に会議の準備を整えるように、係りの者に伝えて」
「かしこまりました」
「ただいますぐ」
 タマルは両手でスカートを摘まんでちょっと持ち上げて礼をし、同様の礼をした他の侍女たちと共に部屋を出ていった。シェハラザードは何となく苦笑に似たものを浮かべてナーディルを振り返った。
「会議にはあなたも出席してちょうだいね、ナーディル」
「はい。お力になれるかどうかは判りませんが」
「何を言っているの」
 シェハラザードは小さく笑った。
「さっきの、ペルジア大公への読みはなかなか鋭かったじゃない。別れていたのはほんの一年と少しだけなのに、考え方までずいぶん大人になってしまって驚いたわ。父上は……こういうとなんだけれど、あまり冷静に考えられるという方ではなかったのに、誰に似たのかしらね」
「それは僕を褒めてくださっているんですか、それとも?」
「あなたを褒めているのに決まっているじゃないの。それ以外には何もないわ」
 ナーディルはいたずらっぽく訊ね、それに応えてシェハラザードはまた笑った。そろそろ会議室にお運びを、と戻ってきたソナに声をかけられ、二人は一旦言葉を切った。
「では行きましょうか。まったく――ゆっくりとお茶をするどころではなくなってしまったわね」
「姉上の淹れてくださったお茶を楽しめないのは残念ですが、仕方ありませんよ。生き死にばかりは、本人にも周りにも思い通りに行かないことですからね」
 朗らかに言って、ナーディルはすっかり冷めてぬるくなってしまったお茶を一口飲んでから立ち上がった。



前へ  次へ
inserted by FC2 system