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 パーティーを途中で抜け出してまで頑張ったので、アインデッドは今日中に片付けなければならない仕事を日付の変わらない内に終え、調べておくと約束した判例も参考になりそうなものを見つける事ができた。
 ルカディウスがアインデッドの部屋を訪れたのは、彼が久々にゆっくりと風呂に入って寛ぎ、そろそろ寝支度をと考えていたその矢先であった。彼の滅多にない寛ぎと一人きりの時間は一テルも経たないで破られてしまったのだった。
「ルカディウス卿にアーフェル水を。出したら下がっていていいぞ」
 小姓たちに席を外すように命じ、アインデッドはこれから始まるストレスの波に耐えるための覚悟を決めた。
「ナーディル殿下の印象はどうだった、アインデッド?」
 そこに座るようにと指し示された椅子がアインデッドから一番離れたところだったので少々残念そうにしながら、ルカディウスは尋ねた。彼は今夜のパーティーには挨拶だけで参加せずにいた。その間何をしていたのか、アインデッドは取り立てて訊こうともしなかった。
「いい子だと思うぜ」
 アインデッドはルカディウスのほうを見ないようにしながら答えた。
「どんなもんかと思ってたが、初対面の挨拶もなかなかしっかりしてた。見たところ体もかなり鍛えてるようだし、まだ見てないが剣も結構使えるんじゃないかな。獅子公ツェペシュの息子というのはだてなわけじゃないようだな」
 どんな話の展開になるにしろ、自分はナーディルに好感を持っているというのをことさら強調するために、アインデッドは褒め言葉だけを並べた。それは実際の感想だったので、さほど難しいことではなかった。
「ずいぶん肩入れしてるようだな」
 ルカディウスは何となく不満げに言った。
「肩入れ? そういうのじゃねえよ」
 足を組み替えながら、アインデッドはすげなく返した。
「恐らくシェハラザードはナーディルに大公位を譲る気だろう。そうでなくても主の弟なんだから、無駄に敵意を抱いてどうする。向こうだって、俺に悪感情があるわけじゃなかったみたいだしな。馬鹿じゃねえのか、お前は」
「……」
 何か言いたげな顔をしたルカディウスだったが、とりあえず開きかけた口を閉じた。ルカディウスに続ける言葉がないことを確かめて、アインデッドは声を低めた。
「ルカ、お前は俺をシェハラザードの夫にして、いずれラトキア大公に――そう言ってたな。忘れたとは言わせねえ」
 緑の瞳が物騒に光る。
「あ、ああ」
 その輝きに気おされたように、ルカディウスはいくぶん曖昧に頷いた。
「だが、お前はナーディルの存在を計算に入れてなかった」
 鋭くアインデッドは言った。ルカディウスは叱責されたように、びくりとして彼の顔を見上げた。だがアインデッドの表情は落ち着いており、声音も静かだった。ルカディウスは返事をしなかったが、アインデッドは無理に問いただすことはしなかった。どうせ答えは判っていたので。
「そんな惨めったらしい顔をするな。別に気にしてねえんだから。俺が言いたいのは別のことだ。お前はどうせ下らないことをまた考えているんだろうが、ナーディルに手を出したら、ただでは済まさないからな」
 そう言ってルカディウスを睨みつけたアインデッドの目は、ぞくりとするほど冷たかった。
「アイン……」
 ルカディウスは言いかけたが、アインデッドはそれを遮った。
「この国程度、十七、八の小僧をどうこうしてまで欲しがるようなものじゃねえ。ましてや恋人の弟だってなら、なおさらにな。忘れるなよ。俺が望むのは――そしてお前が俺に約束したのは、王位だ。ラトキアの大公位じゃない。くだらねえことは考えるなよ」
 返事はなかった。アインデッドは険しい表情のまま質した。
「聞いているのか、ルカ」
「聞いてる。判ってるよ、アイン。お前の言いたいことは」
「だったらとっとと自分の部屋に戻れ。お前の聞きたいことはナーディルをどう思うかってことだったんだろ。俺の答えは聞いたはずだ」
「……」
 やや不満そうではあったが、ルカディウスはおとなしく出ていった。


 一方、アクティバルのもとには二人だけで話したいことがあるからと、グリュンが訪れていた。アクティバルのために用意された一室は、今はその地位のものがいないので使われていない左府将軍のための一角で、アインデッドの起居している場所とは城の中庭を挟んで真向かいにあった。
「話とは?」
 とりあえずの挨拶を交わし、もてなしの用意が整ったところでアクティバルは尋ねた。だがグリュンはすぐには本題に入らなかった。
「おぬしが戻ってきてくれて、本当に嬉しく思うよ。アクティバル」
 アクティバルはにこりと笑った。
「うむ。わしもこうして、ナーディル殿下をお伴い申し上げてシャームの地を踏めたことを嬉しく思っている」
 それから、彼は少し残念そうに続けた。
「わしがナーディル殿下にシャームを取り戻して差し上げられなかったことが、多少心残りではあるがな」
「それだがな、アクティバル」
 グリュンは持ち上げかけていたグラスを下ろした。
「おぬしには嫌なことを聞くかもしれんが、何故おぬしとナーディル殿下は動かなかったのだ?」
 アクティバルは気を悪くしたようでもなく答えた。
「ナーディル殿下は、シェハラザード様がエトルリアに対し兵を興された後すぐにお助け参らせようとされた。だがわしは大局が明らかになるまで動かぬ方がよいだろうと思ってナーディル殿下をお止め申し上げたのだ」
 その判断自体は何も間違いではない。シェハラザードがラトキアの独立を取り戻せるかどうかは、挙兵の時点ではまだ定かではなかったのだし、何も判らぬうちに加わって、せっかく生き残った公女と公子が共にたおれては元も子もない。
 だが結果としてシェハラザードは見事シャームを取り戻し、女大公となった。ナーディルが改めて参戦しようと思ったときには、すでに今さら自分が現れても、というところまで事態は進んでいたのである。それで出るに出られなくなってしまって、ようやく意を決して連絡を取ったのがヌファールの月になってしまったのであった。
「そのことを殿下は大変気に病まれているようだ。全てはわしの判断が間違っておったためだが……」
「今それを言っても、どうにもなるまい」
「ああ、そうだな」
 アクティバルは頷いた。沈みかけた表情をふと明るくして顔を上げる。
「しかし、シェハラザード様はとてもあでやかになられたな。一国の大公としての威厳も身につき始めておられるようだ。これからナーディル殿下に大公位を譲られるのかもしれないが、良き補佐としてついていただくこともできるだろう」
「うむ。そうなれば、我がラトキアも安泰というものだが……」
 笑顔で言いかけて、グリュンはアクティバルの先ほどまでの憂鬱がうつったように顔を曇らせた。
「どうした、グリュン殿?」
「わしには気がかりなことがあるのだ」
「一体、何が」
「ルクナバード伯――アインデッドのことだ」
 その名を口にすると災いが起きるという、不吉なサライルその人であるかのように、グリュンは低い声で囁いた。
「アインデッド将軍のことか。シェハラザード様の恋人だともっぱらの噂だが」
 それを聞いたグリュンの顔は、苦虫を噛み潰したようなものになった。
「姫様は騙されておいでなのだ」
「かどうかは、わしには判らんが」
 アクティバルは明言を避けた。
「確かに印象の強すぎる男だ。姫様には似つかわしくないようには思う」
「であろう。あの男を、おぬしはどう思う?」
 満足そうに頷いてから、グリュンは単刀直入に尋ねた。アクティバルは眉を寄せ、小さく首をひねった。何から言うべきかと考えるように三十ジンほど黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「どう、とは姫様の相手としてということか?」
「いや、それは後で聞くとして、武将としてどう思う?」
 何となくほっとしたようにアクティバルは答えた。
「シェハラザード様が起たれた当初は、正直に言ってエトルリアに対し勝ち目はないだろうと思っていた。だからこそナーディル殿下をお止めしたのだが……わしの読みが外れたのは、あの男がいたからだ。言い換えれば、あの男がおらねばシェハラザード様がエトルリアに対し勝ちを収めることはできなかったのではないかと思う。それに、出迎えの時に見た騎士団の整いよう。将軍となってたった四ヶ月かそこらであれほどの統率力を見せるのだから、武将としてはひとかど以上のものを持っているのだろう」
「……」
 肯定的な言葉を聞いたせいか、グリュンは苦い顔になった。そこにアクティバルが問い返した。
「貴殿はどう思っておいでだ?」
「わしは、あの男が好かん」
 即座にきっぱりと、グリュンは言った。
「確かにあの男が姫様をエトルリアから救い出したことは事実として認めねばならん。だが、我がラトキアにはマギード殿が、ハディース殿がいる。あの男がおらずともエトルリアと戦うことができたはずだ」
「グリュン殿」
 アクティバルの言葉も耳に入らぬように、彼は続けた。
「わしは姫様が心配でならん。あやつはきっと、姫様をたぶらかし、ラトキアを我が物にせんと企んでいるに違いない」
「とは限らないと思うが……」
「いいや。わしの目に狂いはないものと信じておる」
 頑固にグリュンは言い張った。
「姫様ばかりか、もはやナーディル殿下までもあの男の術中に落ちようとしている。わしとおぬしがしっかりせねば、この国はどうなる事か」
「しかしだな、グリュン殿」
 苛々した様子も見せず、辛抱強くアクティバルは言った。
「先にも言ったが、アインデッド将軍は間違いなく、雄と呼ばれるに相応しい男の一人であると思う。そのような男が、果たして貴殿の言うように姫様を誑かしてどうこうするとは、わしには思えん。シェハラザード様とてもう子供ではないのだ。男を見る目はそれなりに培っておいでだろう」
「アクティバル!」
 グリュンは声を荒げたが、アクティバルは落ち着いた声で続けた。
「仮に貴殿の言うとおりだったとしても、そのように感情に任せて言っておられては可愛がっておったシェハラザード様を他の男に取られたという嫉妬に他ならぬと、そのように思われても仕方ないだろう」
「むむう……」
 懇々と諭すように言われ、苦りきった表情でグリュンは口を閉じた。


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