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 シャーム市の東西南北には、城の守護と市門の警備のための要塞が築かれている。小規模なものながら堅牢なつくりで、壁の一面は市壁と一体になり、そこには矢狭間や小窓が設けられている。それ以外の窓はほとんどなく、出入り口は重苦しい大きな鉄の鋲を打った分厚い扉の一つきりで、それもまず門を抜けてからでないと見ることができない。門は要塞の前庭を囲む高い壁に作られていた。
 四方の要塞でも特に人員の配置が多く、作りも一層堅牢で厳重な警戒下にあるのは、レント・シャーム街道の起点であり終点であるために最も人馬の交通量が多い南大門近くのブリュア要塞であった。
 要塞はまた、出入り口や窓が少なく、壁も高くて侵入も脱出も困難なことから監獄としても用いられていた。収容されているのはシャーム市内、近郊の犯罪者が主で、死刑待ちの囚人は一般の囚人とは区別されて、処刑台が設けられているノヴェッラ広場前にある北のノヴェッラ要塞に収容されていた。
 ともあれそのような所なので、囚人に差し入れを持っていったり面会を申し込んだりする者以外にはほとんど近づく市民もないし、それらのわずかな訪問者も朝早くや日暮れ時――夜のルクリーシスの刻には要塞の門にかんぬきが下ろされてしまうので、夜目を忍んでということはできないのだ――に人目を避けるようにして入ってゆく。
 そのため、その日の昼頃に堂々と要塞に入っていった馬車は通りがかる人々の目を引いた。囚人護送用の馬車でないことは、鉄格子のかわりに目隠しのカーテンを閉めた窓がついていること、何よりも美しく塗装されて、控えめとはいえ扉や四隅に飾り彫りがされていることからすぐに判る。
 馬車を迎えて開かれた門は、その姿が奥へと吸い込まれるように消えるや否や素早く閉められた。まるで慌てているようであったが、そこまで注意深く様子を窺っているものはいなかった。門を抜け、出入り口の前に停められた馬車からそそくさと下りてきたのは、陰気臭い黒いローブをまとった痩せて醜い小男――ルカディウスであった。
 彼の訪問はあらかじめ知らされてあったらしく、到着して間もなく扉が開き、要塞の警固に当たっている兵の制服を着た中年の男が出迎えた。肩章に付けられた菱形の金の鋲が三つなので、彼がここの責任者、隊長であることが判る。ルカディウスは彼にちょっと頷きかけるような仕種をしただけで要塞内に入っていった。
 ルカディウスの訪問目的も、目指す所も既に明らかなものらしく、足早に一階の廊下を通り過ぎ、階段を登っていく足取りに迷いも乱れもなかった。何度も訪れている者の確かさであった。
「例の囚人は変わりないか」
 せっせと足を動かしながら、ルカディウスは後に続く隊長に尋ねた。
「はっ。何事もなく過ごしております。また、卿の仰せ付けになったように取り扱っております。何の不具合もございません」
 隊長はきびきびと答えた。
「結構」
 二人が上がっていったのは、要塞の最上部だった。階としては四階にあたる。要塞は大きな円筒の上にもう一つ小さな円筒を乗せたような形をしていて、三、四階はその小さい円筒の部分に当たる。
 一階と二階を抜けていく間には、大勢の人を一か所に集めているせいで生じる目を刺すような臭いや、物音、言葉は聞き取れぬ声などがあったが、三階ではそれらは薄らぎ、四階にはもう石造建築の湿っぽさとどことないかび臭さだけが感じられ、人の気配は全くといっていいほど感じられなかった。
 四階にたどり着くと、ルカディウスは隊長にもう付き添わなくてもよいと告げた。
「それでは御免つかまつります」
 くるりと背を返して、隊長は階段を降りていった。見送ることもせず、ルカディウスは廊下を進んでいく。
 階段はいちばん端にあり、長い廊下がそこから真っ直ぐにのびていた。両側が牢ないしは小部屋なので、小窓があいていても廊下は夜のように暗く、隊長が別れ際に手渡したカンテラがなければ足下も見えなかった。
 廊下の一番奥の牢には誰かが収容されているらしい。扉の前に濃いねずみ色の胴着とズボン、革の頭巾といういでたちの看守が一人、粗末な三本足の椅子に腰掛けていた。彼にもまた、ルカディウスは既に何度も見慣れた訪問者であったらしい。近づいてゆくと立ち上がって、人形のようなぎくしゃくとした礼をした。
「これは、ルカディウス様」
「ご苦労だな」
 言いながら彼はローブの内側に手を突っ込み、レアル銀貨を取り出した。それを看守に握らせると、看守は何もかも飲み込んでいる様子で一言も発さずに銀貨をおしいただくような真似をしてそれを腰紐にくくりつけた巾着に納めた。そして巾着の隣にぶら下がっている鍵束を探り、目の前の扉を開けた。
 牢は二重構造になっていて、開けてすぐは何もない小部屋があり、さらに奥に続く扉があった。
「ご用が済みましたら、お呼びください」
 看守は言いながらルカディウスに一本の鍵を渡し、最初の扉を閉めた。残されたルカディウスはその鍵で、二つ目の扉を開けた。
「……また貴様か」
 牢の主はじろりと不機嫌そうなまなざしをルカディウスに向けた。
「ご機嫌はいかがですかな、ラン殿下」
 顔は真面目くさっていたが、にやにや笑いを浮かべているような声で、ルカディウスは挨拶した。
「ふん。いかがも何もあるものか」
 ルカディウスの態度に苛立ったように、ランは吐き捨てた。
 ブリュア監獄の四階に収監されているただ一人の囚人――それは、さるユーリースの月にラトキア軍に敗れ、以来ラトキアに留め置かれることとなったエトルリアの第一公子ラン・ターリェンであった。
 もちろん、他の捕虜はともかく第一公子の身柄を返還するように、エトルリアが働きかけていないはずがない。しかし交渉を一任されているルカディウスは、のらりくらりと返事を先延ばしにしている。
 しかしランの解放を求めてエトルリアが戦いを挑むということはなかった。下手に攻撃して人質の命を危険に晒しては元も子もないし、今のラトキアは一年前のように簡単に落とせる国ではない。
 しかもランは事実確認が取れていないとはいえシェハラザードに手を出そうとした一件でかなり父大公の信用を失い、ファンはその隙に兄を追い落とすべくせっせと工作に励んでいたので、エトルリア宮廷の足並みはちっとも揃わなかったのである。
 そのようなわけで、ランは部下たちが捕虜交換や身代金と引き換えに次々と帰国している中、たった一人この監獄に幽閉の憂き目を見ていた。シェハラザードにしてみればランなどは手かせ足かせつきで地下牢にでも放り込んで苦しめてやりたい所であったが、さすがに最も大きな交渉カードに対してそのようなことはできない。
 ついでに言えば、残念なことにシャーム城にも、どの要塞にも地下牢がなかった。それでも同じ城内にいるのは嫌だとこのブリュアに移し、一応それなりの待遇で監禁しているのであった。
「貴様も飽きん奴だな」
「これがわたくしめの仕事ですからね」
 ルカディウスは喉の奥で笑った。
「また厭味を言いに来たのか。暇な奴め」
 露骨に嫌そうな顔をして背けながら、ランは言った。
「厭味などとはとんでもない。ラン殿下を案じて、こうして日々参っているというのに、私の心遣いをそのように疑ってくださるとは、お情けない」
 ルカディウスの言葉を半分も信用していないことが、顔を背けっぱなしのランの態度からはありありと読み取れた。また、ルカディウス自身もそれを本気で言っているわけではないということも。
「いい加減、本題に入れ」
「そろそろお国に帰っていただけそうなので、それをご報告しようと思いまして」
 ランはちらりと横目でルカディウスを見た。初めて、まともな興味が動いたことがその目の光から判った。
「……何かあったのだな」
「さすが、お察しのよろしい」
 へらへらと言うルカディウスに、ランは明らかに苛立ってぴしゃりと叩きつぶすような声で続きを促した。
「つまらん世辞を並べるな。何があった」
「何と言うほどのことではございませんが」
 ルカディウスは嫌らしい笑みを浮かべたままだった。
「俺と引き換えになるほどの条件を、ようやく親父が出してきたか」
 相手の卑屈そうな笑顔を見ないようにしながら、ランは牢の片隅に置かれた背もたれのない丸椅子にどっかりと腰を下ろした。
「鉄鉱山と製鉄所の利権か、それとも貴様が納得いく額の身代金か?……いや、その程度はすでに提示されていようものだな。となれば領土の割譲か。砦の一つ二つ、ラトキアにくれてやろうというのか」
「仮にそうであっても、交渉の内容までは申し上げられませんよ、殿下」
 再び、ルカディウスは笑った。今度はくすくすと小さな声を立てて。牢には鉄格子が縦横に嵌められた小さな窓が二つあるきりであったから、蝋燭とランプを消している今はとても薄暗かった。暗がりの中で黒いローブと暗い色の衣服に身を包み、片方だけの目を陰険に光らせている姿はまるで闇から生まれた悪霊か、悪魔じみて見えた。
 ランは何かしらの瘴気、不吉さを感じたかのように、表情をかすかに強張らせた。だが、彼は性格の良し悪しはともかくも現実家であったし、漠然とした気味の悪さなどにいつまでも心をとらわれているほど臆病でもなかった。ややあってから、小さな息をつく。
「貴様の狙いは判っている、ルカディウス」
 何を言うのか、というようにルカディウスは首を傾げてみせた。
「俺から言い出すのを待っていたのか、これから言うつもりであったのかは知らんが、俺は貴様のようにぐだぐだと言葉を並べて時を無駄にするのは好かん。俺と手を組みたくばはっきりとそう言え」
 決して大声ではなかったが、なるほど公子将軍と名乗って一軍を率いるだけはあると思わせる厳しい口調だった。ルカディウスが答えなかったので、ランは詰問するように続けた。
「俺を取り込みたいのでなければ、尋問をするのでもないのにこうも頻々と顔を出す必要などないだろう。俺から聞き出したいことがないのならば、目的はそれしかない。俺にエトルリアを裏切らせたいのか、貴様がラトキアを裏切りたいのか、どちらだ?」
「鋭くていらっしゃるので、私も説明する手間が省けます」
 ルカディウスはにやにや笑いを浮かべたままでいたが、目はうらはらに真剣な光を帯びていた。
「ですが裏切るなど、とんでもない。裏切らせるつもりもございませんよ」
「ふん。白々しい口を利くな。どうせシェハラザードへの忠誠など、爪の先ほどにも持っておらんくせに。お前にとって大切なのは、あの赤い髪の悪魔――いや、お前にとっては愛しの姫君か。それだけのはずだ」
 その指摘に対して、ルカディウスは肯定も否定もしなかった。
「どのみち、裏切りとは関係ありませんよ。ただ、どちらにとっても利益となるように事を運べるよう、手をお貸しいただきたい。それだけで」
「それは貴様の話次第だ。貴様の目的も知らんうちに、貴様の都合のいい言質を取らせるわけにはいかん。もし手を組みたいというのならば、互いに隠し事はなしにしよう、ルカディウス。一体何をどうしようと、そこで俺にどのような役割を果たさせようというつもりだ」
 相手の秘密を一部なりとも暴き、相手もそれを認めたことでランはいくぶん気を許したように足を組んだ。
「詳しくは私もまだ計画を詰めておりませんので、申し上げられません。ただ、殿下には私の計画に沿って動いていただきたい。事が成れば、私はアインデッドの確かな地位を――。ラン殿下はエトルリア大公の地位を手に入れられる。そのようにしていくつもりです」
「取引内容としては、一考にも値しないな」
 ランは言下に切り捨てた。ルカディウスは目を上げ、不敵なランの表情を窺った。
「俺は既に世継ぎの公子――貴様と取引せずとも、いずれ大公位は俺のものになる」
「果たして、本当にそうですか?」
 得意気なランをねじ伏せるように、ルカディウスはたたみかけた。
「あなたは今やラトキアの手中にある。このまま交渉が決裂すればどうなるか。それでなくともこの幽閉が長きにわたれば、無事にエトルリアにお帰りになったとしても、お国での立場はどうなるでしょうね?」
 聞く内に、ランは苦い顔になった。ルカディウスの言葉の意味をよく理解していたからである。ランが戻る見込みがないと判断すれば、サン大公は大公位を第二子のファンに譲ることにしてランを切り捨てるだろう。父のそのような冷徹さは、彼自身にも受け継がれていることとてよく解っていた。
 世継ぎの公子としての立場がなくなれば、人質としての価値は限りなく低くなる。そのとき、彼を忌み嫌っているシェハラザードがどう出るか。殺せば殺したでエトルリアがそれを口実に一戦交えることもあるかもしれないが、どのみちランの命はない。
 そうはならなくても、敵中に留め置かれている期間が長くなればなるほど、エトルリアの人々の心はランから離れ、弟や叔父に向く。そしてランには、幽閉中にラトキアと意を通じるようになったのでは、という要らぬ疑いもかかってくることになるだろう。
 己の運命は、交渉役であるこのルカディウスの心算一つにかかっているのだということを、ランは今さらながら痛感させられ、苦虫を噛み潰したようになった。
「となれば、俺の返答は一つしかありえぬということだな」
 やがて、ランは低い声でうなるように言った。
「お早いご決断、ありがとうございます」
「これは取引だ。言葉を違えるなよ」
「それは、貴方様も同じこと。では……」
 含み笑いと共に一礼しながらルカディウスは牢を出ていった。だが、その姿をランはあえて見送ろうとはしなかった。



「Chronicle Rhapsody27 嵐の前」完(2007/6/22脱稿 2010/3/14up)

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