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 ラトキアの北、エトルリア国境に接し、イテューン湖にもほど近いのどかな農村地帯、エルザーレン伯爵領。国土の大半が乾燥した土壌に覆われ、それほどゆたかな土地柄ではないラトキアの中では唯一といっていいほど、水にも土壌にも恵まれた土地である。
 ミール麦の生産にかけては世界でも一、二を争う地域だが、エルザーレン地方では乾燥した土地を好むマリニア、セラミスの花はフェリス地方と違って全くといっていいほど作ることができない。
 花摘みの最盛期ともなると色とりどりの花々が百花繚乱、千紫万紅と咲き乱れ、空気まで甘い花の香りに満たされるフェリス地方と、その季節には青々とした麦畑が広がり、風にさわやかな土と緑の香りがするようなこの地方では、同じ国内でありながら別の国のような錯覚すら起こしてしまいかねない。
 そんなのどかなエルザーレン、ラトキア北部に、嵐の予感は密やかに近づいていたのであった。
 エルザーレンからナーディルの使者がやってきたのは、黄狼の年ヌファールの月も半ば以上過ぎた頃――シェハラザードがシャームを奪還して四ヶ月、ナーディル探しをそろそろ諦めかけていた時のことだった。
「長旅ご苦労であったな。後ほどねぎらいの宴を催そう。して、ナーディルは?」
「は。ありがたきお言葉にございます。それでは述べさせていただきます。ナーディル殿下はただいま、アクティバル将軍と共にエルザーレン伯爵ラバック卿のもとに身を寄せられ、ご無事に過ごしておられます」
 使者の言葉を聞いて、ともかくもナーディルがあの時無事にシャームを逃れていたのだと知ってシェハラザードはほっとした。
「……ラバック卿はアクティバル将軍の子息であったな。そうか、子息の元に身を寄せていたか」
 アインデッドは相変わらず朝見の間中ずっとむっつりした顔のままでシェハラザードの右斜め後ろに影のように――影というにはあまりにも目立ちすぎたが――立っていた。使者はこの見慣れない外国人の将軍がいつの間にアクティバルに代わって大公の後ろにつくようになったのかといぶかしんだ。
 ティフィリス出身の新しい英雄アインデッドの噂はシャーム周辺、再独立戦争の舞台となったラトキア西部では有名であったが、シャーム以北、ラトキア北東部のエルザーレンにまでは浸透していなかったのである。彼はこの、俄か作りの広間から改装の終わった部分に移動した朝見の間のきらびやかさに似合っているようでいて、それでいて何か異質なものを持っていた。
 周りはたいてい黒や茶色の髪を持つラトキア人であったから、鮮やかな赤い髪はそれだけでも目立っていたのである。
「して、使者どの」
 マギードが待ちきれないというように口を開いた。
「ナーディル殿下がシャームにお戻りになる日は? 閣下はそれを心待ちにしておられるのだが」
「それは、大公閣下の所存にお任せすると仰っておられます。殿下は大公閣下の決起のさいに駆けつけることができなかったことを大変に悔やんでおられ、またその点につき閣下のお叱りがあるのならばこれを真摯に受けるつもりである、と仰せでございます」
 つまりあくまで現在の大公であるシェハラザードをたて、自分は臣下である、という立場でもって使者を送ってきたのである。
「叱ることなど何があろう。早急にエルザーレンに戻り、姉は一刻も早く再会できる日を待っていると、ナーディルに伝えておくれ」
 シェハラザードの声は弾んでいた。しかし、アインデッドはナーディルの生死が判明したら、その次には彼がどの程度の力量を持った戦士であるのかとか、頭のできの良し悪しにしか関心はなかった。他に気になるとすれば、ナーディルが宮廷に戻った時、自分をどのように見るかといったことであった。シェハラザードが弟の消息を知って喜んでいようがどうだろうが、そこはほとんど気にしていなかった。
 それに、彼にはそんなことよりももっと興味のあることが今はあった。アインデッドの頭は騎士団の訓練や、持ち込まれる判例をもとにして考えている法案のことでいっぱいだったのだ。それはたしかに一国の将軍、閣僚の一人としては有能な証拠であったが、シェハラザードの恋人としては失格の態度であった。
 しかしシェハラザードはシェハラザードでこれはまた自分一人の思いにすぐに浸ってしまう性格であったので、共に喜んでくれてもいい恋人のアインデッドが心ここにあらずといったふうであったのには気付かなかった。ちなみに言っておけば、マギードはそんな二人の様子をまじまじと観察するような性格ではなかった。
 だがアインデッドは目の前で展開されている出来事にそこまで無関心を貫けるほど忍耐強くはなかったので、次第に興味をひかれてきた。
(ラトキア公子ね……シェハラザードが身代わりになったっていう、例の弟だな。話を聞いたかぎりじゃ、親父に比べるとそう大した勇者ってわけでもなさそうだな。シェハルでも代理が務まったくらいなんだから。とはいえまあ、こういう形で使者を出してくるってことは、頭はそれなりに働くみたいだな。アクティバルって将軍の入れ知恵かもしれねえけど)
 アインデッドはラトキア宮廷の歴々全員に心の中での勝手な印象付けをしていた。マギードは『気のいいお坊ちゃま』だったし、ハディースは『気の合うおっさん』、グリュンは『いけ好かないじじい』、シェハラザードに至っては『玉座の飾り』であった。ナーディルも彼にかかってはどんな評価をされるか判ったものではなかった。
(しかし、俺がナーディルをどう思うかよりも、ナーディルが俺をどう思うかが問題だよな。俺とシェハラザードの仲はもう宮廷中が知ってることで、ごまかしようもねえ。俺を姉貴の恋人として認めてくれればいいが、自分の地位を脅かす敵とでも思われたら困るな。俺は新入りだし、いくら軍内でだいぶ株を上げてるといっても、元々の支配者のナーディルの方が上だろうしな……)
 アインデッドが独り言を言わないように充分気をつけながら考えている間に、使者の口上も用件も、シェハラザードの好きな世間話も終わり、アインデッドが気づいた時には、朝見は一通り終わっていたのだった。


 シェハラザードの許しを得て、ナーディルがシャームに帰還する旨を伝えて寄越したのは、それから六日後のことであった。相変わらずアインデッドはシェハラザードの後ろで心を宙に飛ばしていたが、大公らしくはないが若い娘らしいシェハラザードの手放しの喜びを見た時には心が和んだ。
(いいよなあ。姉二人が死んだってのは辛いことだったろうが、弟が生きててくれて、戻ってきてくれるんだからな……。俺にも、妹か弟がいれば、人生はもう少し違ってたのかもしれないな)
 それは物心ついたときにはすでに孤児だった彼の、密かな羨望でもあった。
「ナーディルを迎えるための準備をさっそく始めなくてはならないわね。広間の飾り付けに、宴の準備に、それと市内の清掃も念を入れなければならないし――ああ、間に合うかしら」
 シェハラザードは、大公らしい威厳を取り繕うのも忘れて、あれこれと考え始めた。そんな彼女を誰一人として咎める者もなく、大半は微笑ましく見守っていた。それではこうしたら、というような口添えをする者もいて、広間は和やかな雰囲気に包まれた。朝見の時には不機嫌に黙りこくっているアインデッドも、微かに表情を緩めて彼女の後ろ姿を見つめていた。
(俺も、挨拶を考えとかなきゃな……)
 何心なく広間に流した視線が、ある一点で止まった。そのことを悟られないように再び視線を動かして、最後に自分の足元の床を見つめたところでアインデッドは息をついた。シェハラザードの喜びのおかげでこちらも温かくなりかけていた気持ちが、一変して冷え切ったものに変わった。
(ルカディウス……あいつ、何か企んでやがるのか?)
 確信はない。だが、否定できるだけの材料をアインデッドは持っていなかった。そして一瞬目をやったときにルカディウスが浮かべていた笑みは、他の廷臣たちの笑顔とは全く違う邪悪なものをはらんでいるように、彼には見えた。
 確かに、ルカディウスが描いている、ラトキアを手に入れるためのシナリオにナーディルは不要である。不要というだけならまだしも、計画の邪魔になりかねない存在だと、全てを知っているわけではないアインデッドにも判る。
 しかし、アインデッド自身もそのシナリオに書かれた登場人物の一人――どころか、それらが全て彼のための計画とされている以上、この疑念を誰にも打ち明けたり、相談したりはできなかった。
(だとしたら、ナーディルを守れるのは俺だけだ)
 アインデッドは拳を握り締めた。
(俺が、自分のために自分で手を下すならいい。だが、そうでないなら……)
 ルカディウスの陰謀を黙認しておくことなどできない。部下たちを守りきれず、ほとんどを死なせてしまったように、何かが起こってからでは遅いのだ。まして相手がナーディルともなれば、国を巻き込む動乱になりかねない。
(あいつが何か企んでるのなら、絶対に止める。止められるのは、俺しかいない)
 そのような思いに心を占められていたので、アインデッドは自分が呼ばれていることにしばらく気づかずにいた。
「イミル将軍?」
 シェハラザードの訝るような声で、アインデッドははっとした。見れば、シェハラザードはともかく、上座の人々の目が自分に集中していた。グリュンなどは刺すような目で見上げている。これは、後でまたさんざんに陰口を叩かれるに違いない。
(やっちまった……)
 アインデッドは思い切り申し訳なさそうな顔を作って頭を下げた。
「申し訳ございません、大公閣下。何事でございましょうか」
 グリュンの舌打ちと、何かぼそぼそ文句らしいのを言っているのがかすかに聞こえた。それはもう、彼が何か謁見の間で発言するたびにされることだったので、誰もほとんど気にしなかった。
「ナーディルの出迎え、市内警備ならびに閲兵式などの次第についてはそなたに一任してもよいか?」
 相手が全然聞いていなかったことは様子で判ったので、シェハラザードは繰り返した。ちなみに、このような公式の場では滅多にあることではないが、アインデッドが話を全然聞いていないことは、二人きりのときにはよくあることだったので、腹を立てやすい彼女としては珍しく、気を悪くもしなかった。
 たいていアインデッドが考え込んでいるのは仕事のことで、大公としてそれを責めるわけにもいかなかったし、いいかげんそんなものだと諦めていたのである。
「かしこまりました。謹んで承ります」
 右手を胸に当てて軽く頭を下げ、アインデッドは承る仕種をした。
「では……」
 この話題は一段落ついて、次に予定されていた陳情が始まった。どうやら自分には関係なさそうだと判るまでアインデッドは様子を見て、それからまた自分の考えに戻った。今度は気をつけて、時折思考を中断して広間の様子を窺うのを忘れなかった。
(ええと……出迎えは俺がやるってことで決まりなのかな。てことは、行進の訓練を重点的にするとして、あとは……)
 市内警備については警備隊長がいるのでそちらに命じるのが筋だが、恐らくそうしたところでどのみち、人員配備や通行規制の詳細はアインデッドが全て考えなければならないだろう。シェハラザードがそこまで読んでアインデッドに直接命じたわけではなかっただろうが。
(また仕事が増えるな……)
 始まる前からうんざりしたくなったアインデッドであった。

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