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     エウリアの花が咲くよ
     マリニアの花が咲くよ
     風が吹けばそよそよと
     花びらが散るよ
     風そよけき我が故郷
     ラトキアに花が咲くよ
       ――ラトキア民謡
       「花を摘む娘たち」




     第四楽章 花と嵐




 翌日、フリードリヒは朝から、シェハラザードとラトキアの通商担当者を交えての再度の協議を行った。昨日のうちに概要はまとまっていたが、細かい打ち合わせや取り決めなどの作業が残っていたのである。アティアの刻から始まったその協議は、ナカーリアの四点鐘を過ぎた頃にようやく決着し、ここにラトキアとティフィリスの間に通商条約が締結された。
 旧知の仲であるアインデッドがいるのだから、さしも老獪なティフィリス大公もそれなりに譲歩してくれるだろうというラトキア側の読みを裏切って、フリードリヒはティフィリスに有利な条件を可能な限り譲らなかったので、予想よりも長引いたのである。
 それでも何とか、双方に譲歩しあう形で折り合いが付き、シェハラザードとフリードリヒの署名捺印がなされた二通の書類が作成され、協議は終了した。終わった時刻は既に昼近かったので、シェハラザードはフリードリヒに昼食を一緒にどうかと声をかけた。
「そうですな……」
 昨夜の長々しく退屈な宴会を思い出して、フリードリヒは即答を避けた。別段この大公宮で食事をしなくても、宿泊している迎賓館で部下たちと共に食事を供してもらえるので、事の次第によっては断るつもりでいた。無駄に長引く宴会やつまらない世間話など、できれば二日続けてしたいとは思わなかったので。
 そんな、乗り気ではないフリードリヒの心情を読み取ったのか、シェハラザードは不意に大公らしからぬ縋るような目をして彼を見上げた。
「フリードリヒ殿下を見込んでのご相談があるのです」
「は……」
 娘ほどの年齢の、しかも美しい女性に困り顔でそんなことを言われては、フリードリヒも言下に断れなかった。
「どのようなご相談でしょうか、シェハラザード閣下? むろん、たってのご相談とあれば私とてお断りすることはございませんが、それならばついでのこと、ここで仰っていただいても結構ですよ」
「いえ、それは……」
 シェハラザードはもじもじとして周囲にちらりと目を走らせた。頬をかすかに赤らめ、囁くような声で言う。
「ごく個人的なことなので、このような場所では、少し……」
 その妙に恥らう様子と、自分を見込んでという先程の言葉から、フリードリヒは大体の相談内容を察した。理解めいたものがそのおもてに浮かび、彼は安心させるように微笑んで頷いた。
「判りました。ではお言葉に甘えて、昼食をご一緒させていただきましょう」
「まあ、ありがとうございます」
 シェハラザードはぱっと顔を輝かせた。異性としての彼女には何ら興味のないフリードリヒでも、つい見とれてしまうほど明るく美しい笑顔だった。
(女性としては可愛いものだな)
 素の感情を見せてしまうのが支配者として立つべき人間としてふさわしいかどうかはさておいて、フリードリヒはそう思った。
 シェハラザードは最初から、フリードリヒをこの個人的な相談に昼食がてら乗ってもらうつもりだったらしい。シェハラザードが女官に何事か告げて、一旦控えの間に戻ってからさほど待たされることもなく、侍従が昼食の支度が整ったと告げに来た。
 食堂に選ばれたのは、大公の公的な居室の一つで、立ったまま使う書見台などがあるところから、普段は個人謁見などに使われている部屋らしかった。そこに四人がけ程度の大きさのテーブルが運び込まれ、食卓らしく布と花とで飾られていた。
 手ひどく略奪を受けた上に、再独立からまだ四ヶ月しか経っていないことを思えば、そこに並べられた食器類の柄やデザインがまちまちであったり、ナイフやフォークが明らかに安物の錫製であったりするのは致し方ないことであった。フリードリヒは昨晩のパーティーの時と同様、気づいてはいたが何一つ言及しなかった。
 最初のスープに半分ほど手をつけたところで、シェハラザードはようやく話を切り出した。
「フリードリヒ殿下は、アイン……いえ、イミル将軍のことを、どれほど昔からご存じなのですか?」
「私に遠慮なさることはありませんよ。普段呼んでおられるのと同じように、あれを呼んで下さればいい。ともあれ、そうですね……アインデッドのことは、それこそ生まれる前から知っていますよ」
「殿下がご存じであったということは、彼の母上は、それなりの地位にある方だったのですか」
 何となくほっとしたように言うシェハラザードの言葉に、フリードリヒは曖昧な笑みを返した。
「ええ。アインデッドからは想像もつかないとは思いますが、月のように気高く、美しく、優しい女性でした。……彼女については、いずれ詳しくお話しできる日も来ると思いますが……。今はアインデッドのことでしたね」
 フリードリヒはさりげなく、話を元に戻した。シェハラザードも慌てたように何度か頷いた。
「え、ええ。そうなのです。殿下にご相談したかったのは、その……」
 給仕がスープ皿を下げに来て、次のサラダと肉料理が運ばれてくるまで、シェハラザードはしばらく口を閉ざした。
「その……もうご存じとは思いますけれど、わたくし、アインデッドとは……世間で言うところの、恋仲なのです。でも、自信が持てなくなるときがあるのです。どうすればあの人をつなぎとめておけるでしょう?」
 このような話題ですら、歯に衣着せぬラトキア人らしく、シェハラザードはずばりと尋ねた。予想はしていたが、フリードリヒはその率直さに少々驚いて目をぱちくりさせた。シェハラザードは言ってしまってから、顔を真っ赤にして伏せてしまった。
「すみません、フリードリヒ殿下。このようなことをお尋ねするのは、確かに礼儀知らずですし、たいへん失礼だとは思うのですが……」
「いや、いや」
 フリードリヒは首を振った。こちらもつられて赤くなりつつ弁解する。
「閣下にそのような心痛をおかけしているとは存じませんで、こちらこそ申し訳ない。先にお話しいただけていれば、あの馬鹿に説教の一つもしてやったのですが……」
(まさかと思ったが、本当に恋愛相談か)
 内心でフリードリヒは肩を落としたが、ここは一つ、アインデッドの幸せのためにもきちんとアドバイスをすべきと考えて背筋を伸ばした。
「あれは昔から自信過剰というか自意識過剰というか、女性というのは自分に惚れて当然とでも思っているところがありまして」
 これに対して、言葉はなかったが同意をこめてシェハラザードが強く頷いたので、フリードリヒは複雑な気分を味わった。
「ですから惚れられたり、追いかけられたりするのには慣れていますし、正直、おそらく女性のそうした態度には飽きていると思います。いっそ、あれに追わせてみる――そちらから冷たくするというのも一つの手ではないでしょうかね」
「仰ることはよく分かりますわ。でも、お互いの立場もございますし、それで『なら別れよう』と言われたら、わたくし……」
 シェハラザードは不安げに眉を寄せた。
 何で自分は、こんな所でこんなことを、息子の恋人相手に喋っているのだろう――とフリードリヒは心の中で盛大にため息をついた。ついでに、こんな相談事を女の側になりふり構わずさせてしまうアインデッドを恨んだ。
(絶対、これは俺とリューンのせいじゃないぞ。生育環境のせいだ)
「それなら、アインデッドの好みに閣下が合わせるほかありませんね」
「と仰いますと、どのような?」
「私も、あれがどんな女性と付き合っていたか詳しくは知らないのですが……概して年上が多かったかと思います」
 その言葉に、シェハラザードは落胆したような表情を浮かべた。彼女がどんなに努力した所で、アインデッドより年上になることなどできなかったので。慰めではないが、フリードリヒは続けた。
「といって、年上が良いというわけではないでしょう。同年代とも付き合っていたようですから。閣下もご存じかと思いますが、あれは三歳で母を喪っておりますからね。母親のような女性に安らぎを感じるのでしょう。だから必然的に年上を選ぶ傾向があるというだけのことで、つまるところ子供のままなんですよ」
「子供、ですか」
 ずいぶん真面目な顔をして、シェハラザードは繰り返した。フリードリヒはもっともらしく頷きかけてみせた。
「一般的に申しまして、男というのは共にいて安らげる女性を好みます。居心地が良いというのか――その、男としての面子を保たせてくれて、なおかつ飾らない自分自身を受け入れてくれる女性を。アインデッドには、それはきっと母を思い出させてくれる女性なのでしょう」
「はあ」
「ですから、アインデッドには母のように接してみてはいかがでしょう。そうすれば男というのは単純なものですから、居心地が良いのは愛しているからだ――と、そう思いこんで、すとんと収まるところに収まるようになりますよ」
 シェハラザードは一言一句忘れまいとするかのように、ものすごく真剣に彼の言葉を聞いていた。そして決然と頷いた。
「判りました。頑張ってみますわ」
 というわけで、フリードリヒにとっては気疲れとなった昼食は終わり、ディアナの刻になってようようティフィリス使節はシャームを発った。目的地はラトキアの海への窓口の一つとなっている、ゼア河畔の港町アーラウである。
 出立の時になって、練兵と半日分の仕事を大急ぎで終わらせたアインデッドが見送りに来た。すでに城内での歓送は終わっていたので、アインデッドは使節一行を市門で待っていた。
「すまねえな、送別会にも出られなかったし、送っていけなくて」
 取るものもとりあえず馬で飛ばしてきたらしいアインデッドは、すまなそうに馬車内のフリードリヒを見上げた。
「判っているさ。お前が忙しい立場だってことは」
 フリードリヒは安心させるように微笑んだ。
「頼まれた件は、なるべく早く――そうだな、夏までには何とかしてみせよう。待っていてくれ、アイン」
「ありがとう」
 アインデッドはにこりと笑った。
「お前の助けになるような奴を寄越してやるからな」
「あんたが選んでくれる奴に、使えない奴なんかないと思うけど」
 それに対してフリードリヒは含みのある笑顔を見せた。
「ああ。楽しみにしていろ」
「うん」
 何も気づかず、アインデッドは頷いた。
「それからお前……」
 昼にシェハラザードから恋愛相談されたことについて、仮にも恋人ならあまり困らせるなと説教してやろうと口を開いたフリードリヒだったが、それをしては逆効果になると気づいて途中で言葉を途切れさせた。
「何だよ?」
「体を壊さんようにな。これからすぐ戻るんだろう?」
「ああ、大丈夫だよ。あんたこそ、健康には気をつけろよ。年なんだからな」
「……人から言われると腹が立つから、年のことは言うな」
「そうか」
 フリードリヒは眉をしかめた。アインデッドは悪戯っ子のように笑いながら、そろそろ出発したそうな視線を御者が送ってきたので馬車から身を引いた。フリードリヒも気づいて、急いで握手を交わした。
「また会える日を楽しみにしている」
「俺もだ。元気でな、父上」
 昨晩、ついに二度は言ってもらえなかった言葉を聞いて、フリードリヒは驚いたような表情の次に、満面の笑みを浮かべた。
「ああ、もちろん息災で長生きするぞ。――お前に話しておかなければならないことが、まだたくさんあるからな」
「今度は、俺がそっちに行きたいよ。じゃあな」
 馬車が動き始めた。アインデッドはまた会える確信を持った笑顔で手を振った。二人は互いの姿が確認できなくなるまで手を振り、名残を惜しむように一方は見送り、一方は後ろをずっと見つめていた。

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