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 結局、予告していたとおりアインデッドは晩餐会には出席できなかった。一応シェハラザードの席の近くにアインデッドの席が設けられていたのだが、皿の上に花の形に折られて立てられたナプキンは晩餐会が終わるまでそのままであった。
 フリードリヒはアインデッドの予定を聞いたり、空席を眺めたりというような不躾な真似は決してしなかったし、話しかけてくる者には愛想よく答えた。が、内心ものすごく残念がっていたのは言うまでもない。
 ルクリーシスの刻から始まった宴が果てたのは、ナカーリアの刻になんなんとする頃であった。それもフリードリヒには驚きであった。彼の常識では晩餐会というのは長くてもコース料理が終わるまでの二時間程度で終わるものであり、全ての料理が出尽くしてから半テル以上も会場に居残り続けるなど考えられなかった。
 ラトキア宮廷の晩餐会ときては、料理の出るスピードは普通ながら、それが終わってからの要らないお喋りが長すぎた。シェハラザードから終わりを告げる挨拶があった後でも大半の人々は席にとどまり、酒は出続け、人々はひっきりなしに飲み、料理を追加注文し、ぺちゃくちゃと喋り続けた。それでも下座の人々は三時間ほどで席を立っていったが、主賓のテーブルに座っているフリードリヒには社交というものがあるので、そうもいかなかった。
 シェハラザードやマギードとの会話はそれなりに重要な話がなきにしもあらずといったものであったが、グリュンとの会話は退屈以外の何ものでもなかった。グリュンときてはフリードリヒがアインデッドの関係者だと知っているのかいないのか、彼に対する悪意を隠そうともしないのである。
 しかもさっき聞いたはずのことを何度も訊ねたり、喋ったばかりの話――しかもそれはほとんどが彼の若い頃、ツェペシュ大公とともに独立を勝ち取った時の手柄話であった――を飽きもせず繰り返したりと、口にするのはアインデッドの悪口か思い出話か、そのどちらかでしかなかった。
 宰相ともあろう者が、こう言っては何だが恍惚老人の域に入りかけている、というのはフリードリヒにはすぐに悟られた。それを肝心のラトキア首脳部が知っているのかどうか、はなはだ疑問であったが。
(これはなかなか、あいつも大変なようだな……)
 しかしそれほど長い間会場に拘束されていたにもかかわらず、アインデッドがちらりとも顔を見せられなかったことがフリードリヒには驚きだった。
 そうして退屈で時に苦痛な宴会をどうにかやり過ごし、ようやくアインデッドと再び会うことができた時には、もう時刻はヤナスの刻に近かった。今から会えるだろうか、という連絡を受けたフリードリヒは、一も二もなく承諾した。
 軍装も解かぬまま現れたアインデッドは、申し訳なさそうに入ってきた。
「遅くなっちまってすまねえな、フリードリヒ」
「いや、お前が忙しいのは判ってるよ」
 フリードリヒは暖かい微笑みを返した。
「それより、夕飯は済ませたのか?」
「いや、ま……」
 アインデッドは言葉を濁して胃の辺りを押さえた。言葉を先取りして、フリードリヒは呼び鈴を手に取った。
「何か頼むか」
「悪いな」
 アインデッドは気まずそうに頭を掻きながら軍服の上着を脱ぎ、ソファの背もたれに投げ出して座った。その向かいにフリードリヒも腰掛けた。呼んだ女官に、夜食を一人前と酒とアーフェル水の支度を頼んで、しばらく待つ時間が過ぎた。酒がなくても話はできるので、アインデッドは早速口を開いた。
「何時くらいまで話してられる? 出立は明日の午後だって言ってたから、そんなにゆっくりはできねえよな」
「ああ。お前のためならいつまででもと言いたいところだが、三テルくらい寝る時間を取らせてくれよ、アイン。さすがにもう、徹夜に耐えられるほど若くはないからな」
 フリードリヒは苦笑いした。
「年寄りぶるなよ、フリードリヒ」
「ぶってるわけじゃない。お前も四十を過ぎれば判るぞ。気ばかり若いつもりでも無理がきかなくなるってのがな」
「そういうもんなのか」
 思案顔でアインデッドは首を傾げた。そこに女官が夜食と酒を運んできた。厨房では、普段は大食いだが夜遅くの食事は軽めにしているアインデッドの食習慣をすでに熟知していたので、夜食はあっさりした塩漬け豚肉と根菜の煮込みと、香ばしくトーストした丸パンが一つという質素なものであった。
「それだけでいいのか?」
「ああ。どうせ後は寝るだけだから、そんなに食っても仕方ねえ。無駄に食うと太るだけだしな」
 さっそくフォークとスプーンを取り上げて食べ始めながらアインデッドは答えた。
「それよか話の続きをしようぜ。さっき聞きそびれたけど、ルイゼはどうしてる? 元気でいるか?」
「ああ、もちろん元気だ。俺も時々ヤムの説教を喰らうぞ。もう年なんだからあんまり酒を飲むなってな」
 こちらは手酌で酒を注ぎながらの返答であった。
「まだあれをやってんのか、ルイゼは」
 アインデッドは苦笑めいた笑みを浮かべた。教育係だった彼女の、何かとヤムの教義に結び付ける説教も今になっては懐かしい。――もちろん、もう一度されたいとは思わなかったが。
「じゃあノインは? まだブリュンヒルデに乗ってるのか?」
「乗ってるとも。今は俺の下で、船長をしてるんだぜ」
 アインデッドは目を丸くした。
「本当に? すげえ出世じゃねえか」
「真面目だし、能力もあるからな。少々早すぎるかとは思ったが抜擢したんだ。期待通りよくやってくれているよ。お前のことを何かにつけ気にしていたから、無事でラトキアにいると教えたらきっと喜ぶと思うぞ」
「あの頃が懐かしいな」
 ブリュンヒルデの乗組員のその後をあれこれと尋ねた後、アインデッドはそう呟いて、子供のように無邪気に、それでいて少し寂しげに微笑んだ。その頃には夜食を食べ終えて人心地つき、それぞれ勝手に酒をつぎながらとりとめなく会話を続けていた。
「懐かしいついでに聞くが、豚野郎も相変わらずなのか?」
 フリードリヒは肩をすくめて頷いてみせた。
「腹の立つことに、相変わらずだ。去年には伯爵家の息子に懸想して、屋敷に忍び込もうとしたところを番兵に捕らえられるなんて愚行をやらかしてくれた。さすがに兄上もお怒りになってな、二ヶ月ほど謹慎を命じられた。それで反省するかと思いきや、思いが通じないのがどうのと、悲恋物語の主人公にでもなったつもりか、泣き暮らして屋敷に引きこもる始末だ。とても改まるとは思えん」
「俺に蹴飛ばされても改まらねえなら、そうだろうな……」
 それを聞いてアインデッドがついてみせた重いため息は、どんな言葉よりも雄弁に彼の心中を語っていた。
「ああそうだ、ルートヴィヒで思い出した。お前には嫌なことを聞くかもしれないが、あのルカディウス卿というのは何なんだ?」
「何って」
 アインデッドはフリードリヒに負けないくらい眉をしかめた。フリードリヒの言い方が不快感を露にしたものだったので、何かフリードリヒが無礼を働かれたのかとアインデッドはいぶかった。
「俺がいない間に、あいつがあんたに何かしやがったか?」
 フリードリヒは首を横に振った。
「……具体的には何もされていないが、昔のお前の話を根掘り葉掘り聞いてきてな。いつ出会ったのかとか、どういう関係で知り合ったかとか……。どうも、俺とお前の関係を妙なふうに誤解しているらしい」
「妙って……」
 フリードリヒがこの話題を思い出した発端を考え合わせて、心底嫌そうにアインデッドは顔を歪めた。
「もしかしてそれ、あんたとルートヴィヒを間違えてやしないか?」
「それに近いようなことだと思うな。直接にそういったことを言われたわけではないが」
 フリードリヒも不快げな表情を浮かべた。
「あんな男とどういう経緯で知り合ったんだ?」
「経緯ってほどのものは何もねえ。メビウスの街道で、俺の軍師になりたいっつって、いきなり呼び止められたんだ。それまで一度だって会った覚えはないし、共通の知り合いもいねえ。本当に、どうして俺のことを待ち構えてたみたいにあそこにいたのか……聞いても答えやがらねえから判らないんだ」
 質問に答えながら、アインデッドは考え込むように首を傾げた。フリードリヒは重々しく頷いてから、辺りを憚って慎重に声を低めた。
「そうか……。他の国家の廷臣に対してこういうことはあまり言いたくないが、あの男には何か悪いものを感じる。早く手を切ったほうがいい。それができないなら、なるべく近づけさせないことだ」
「そうしたいとは、常日頃思ってるんだがな……」
 再び重苦しいため息をついて、アインデッドは言った。
「フリードリヒ、一つ頼みごとをしてもいいかな」
「何だ? 俺にできることなら一つと言わず、幾つでも聞いてやるぞ」
 フリードリヒは父親らしい寛大さで頷いた。
「あんたのつてで、魔道師を何人かこっちに寄越してくれないか?」
「魔道師を?」
 意外な言葉にフリードリヒは目を見開いた。アインデッドは将軍なのであるし、流れとしては武器の輸入――ティフィリスの金属加工技術は世界一とも言われ、金属産業も貿易と並ぶ主要な産業の一つであった――に便宜を図るとか、軍船を購入したいといった話ではないかと思っていたので。
 アインデッドはフリードリヒの疑問を解くように説明した。
「ラトキアは新興国だ。一応再独立は果たしたし停戦協定も結んだが、いつまたエトルリアが攻めてくるか判らない。他の国や国内だってどう出てくるか分からない。広く、早く情報を集めるには魔道師を使うのが一番手っ取り早いと思うんだ。それに……」
 そこまで言いかけてアインデッドがふと言葉を濁したので、フリードリヒは首を傾げて彼の顔を覗きこんだ。
「それに、何だ」
 しばらく下唇を噛んで考えるふうであったが、アインデッドは覚悟を決めたように顔を上げてフリードリヒの目を見つめた。
「エトルリアが魔道師をラトキアの中枢部に送り込んで陰謀を働くかもしれない、と俺は疑ってる。エトルリアはそれなりに古い国だし、ラトキアよりずっと魔道師の存在に慣れていて、その使い方も心得てる。二年前、セルシャで起こった王妃誘拐未遂事件はあんたも知ってるよな?」
「あ、ああ」
 フリードリヒは慌てて頷いた。
「今だから打ち明けるが、俺はあの時当事者としてそこにいた」
 囁くような声で、アインデッドは言った。むろんのことフリードリヒは驚いたが、声も出ないほどだったので、そのままアインデッドの言葉の続きを待った。
「だからあれをやったのがエトルリアに送り込まれた魔道師だったことも知ってる。あんたは知ってたかな? ツェペシュ大公の急死も、病気なんかじゃなかったかもしれない。だから……もしかしたら、また同じようなことがラトキアで起こるかもしれない。魔道師の攻撃を防げるのは魔道師だけだ。だがラトキア宮廷には宮廷魔道師が一人いるだけで、それも単なる国家間の連絡係くらいにしか思われてない。それ以上魔道師を雇おうなんて頭もない」
「だからお前の個人的な部下として使える魔道師を送ってくれと、そういうことか」
 全てを読み取ったようにフリードリヒは引き取った。アインデッドは真剣な顔のまま無言で頷いた。
「だがティフィリス人と一目で分かる者を何人も送り込むとなると、お前に対する要らん勘繰りを呼びかねないし、人種の判りづらい者を選んでとなると……」
「やっぱり無理か?」
 数秒ほど考え込むふうだったフリードリヒは、やがて両の膝を叩いてきっぱりと顔を上げた。
「いや、任せろ。その件についてはできるだけ早く何とかしてやる。トーラスに命じて、お前にだけ判る形で送ろう。……それの礼代わりというわけではないが、一つ俺からの頼みも聞いてくれないか、アイン」
「何を?」
 アインデッドはちょっと微笑みを浮かべて首を傾げた。
「俺のことを、これからは父と呼んでくれないか」
 少々照れたように、フリードリヒは言った。
「ティフィリスにいたときには、結局一度もそう呼んでもらう機会がなかった。……俺はな、アインデッド。いつかお前を息子と呼び、お前に父と呼ばれる日が来るのを楽しみにしてたんだ」
「おい、フリードリヒ……」
「お前は信じていなかったかもしれないが、養子にするという話は本気だったんだぞ。だから今、ここで俺の夢を叶えてくれないか?」
 アインデッドは急に真顔になった。しだいに不安げな面持ちになりながら、彼は小さく唇を動かした。
「だけど……人前で呼んだら、色々問題があるんじゃないか? 俺は貴族でもないし、まして正式にあんたの養子になってたわけでもないし、これからなるわけでもないし。別に嫌だと言ってるわけじゃないんだ。だけどラトキアの連中に誤解されると、後で騙しただの何だの騒がれるし……ティフィリスでのあんたの立場だってあるだろう」
 フリードリヒは溜め息と共に言った。
「……ああ、そういえば、そうだな」
 公然と親子の名乗りを上げられないもどかしさに、フリードリヒは渋面を作った。そんなフリードリヒに、アインデッドはもう一度微笑みかけた。
「だから、二人でいるときだけそう呼ぶよ。俺だって、あんたをそう呼びたかったんだ……父さん」
 そっと付け加えるように囁かれた言葉に、フリードリヒは一瞬目を丸くした。だが次の瞬間、彼は相好を崩した。
「今の、もう一度言ってくれないか、アイン」
「よせよ、照れるじゃねえか」
「言ってくれ、ほら」
 照れて嫌がるアインデッドの肩を抱くように捕まえて、フリードリヒは頼んだ。それでますます照れてしまい、アインデッドは頑なに首を左右に振った。
「やーだーよっ」
「いいだろう、減るもんじゃなし」
「そんなに何回も言ったら価値がねえよ!」
「何回でもいい気分だぞ、俺は」
「嫌だ! 恥ずかしいじゃねえか!」
 真っ赤な顔で言い返すアインデッドの表情から、それが本心からの言葉であるというのは判ったが、フリードリヒはなかなか彼を放さなかった。

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