前へ  次へ






 朝見では辛うじて自分を抑え、フリードリヒの述べる長い挨拶と口上、シェハラザードの世間話にも我慢したアインデッドだったが、その我慢もナカーリアの刻までが限界だった。個人謁見のために用意された将軍用の小広間にフリードリヒが通され、小姓や女官たちを人払いして下がらせるなり、彼はフリードリヒに飛びついた。
 といっても、実のところアインデッドは完全に小姓たちが出て行くまで待ちきれなかったので、彼がフリードリヒに飛びつくところは数人の小姓たちに目撃されてしまっていた。だが彼らはこのところ沈みがちだった主人の無邪気な喜び方を微笑ましく思っただけで、見て見ぬふりをして去っていってくれた。
「フリードリヒ、フリードリヒ! 会いたかったぜ!」
 アインデッドの行動は予想していたところだったらしく、フリードリヒは一歩よろめいたもののちゃんと受け止めた。
「こらこら、アイン。落ち着け。もう大人だろ」
 フリードリヒの口調はあきれ果てたと言わんばかりであったが、顔は再会の喜びに輝くような笑みを浮かべていた。アインデッドはとりあえず体を離したが、両手はまだフリードリヒの肩にかけたままだった。
「懐かしいな。あんたにこんな所でもう一度会えるなんて、思いもしてなかった」
「何年ぶりになる? お前が十六になる年だったから……もう八年か」
 指折り数えて、フリードリヒは流れた月日に感じ入ったような声を上げた。
「お前、今年で二十四になるのか!」
「そうだぜ。ルクリーシスの月の九日で。あんたと同じ、狼の年生まれだからな」
 アインデッドは笑顔で頷いた。
「しかし、どうしてラトキアにあんたが? 使節だったら――自分で言うのは何だが、ラトキア程度の国なら、王太子がじきじきに来るまでもないじゃないか」
「うむ、普段ならば来なかっただろうな。だが今月は忙しくてな」
 フリードリヒは快活に笑った。少し老けたけれども、記憶にあるとおりの明るい笑顔であった。
「メビウスでアルマンド公爵の結婚式、ほとんど間をおかずにクラインでサライ摂政公の結婚式に出席してた関係だ。もう一月もティフィリスを離れている。クラインから南下して陸路でティフィリスに戻るのが一番早いが、どうせなら遠出のついでにラトキアに挨拶していこうかと思ったわけだ。ラトキアなら、ゼア川から船で戻れるからな。ブリュンヒルデが迎えに来てくれることになっている」
「それで……」
 納得しかけたアインデッドに、フリードリヒは続けた。
「それに、アイン。お前と同じ名前の将軍がいるというのに、どうして確認もせず放っておけると思う?」
「え?」
 フリードリヒはわざとらしく、責めるようにきつい眼差しを向けた。アインデッドはきょとんと目を見開いた。
「独立戦争の話に聞いたときから、まさかまさかとは思っていたが。噂の将軍が本当にお前だったと判って、俺がどれほど嬉しく思ったことか。さっきの会見では、抑えるのに必死だったんだぞ」
 言い終わるなり、フリードリヒはアインデッドをしっかりと腕に捕らえた。アインデッドが飛びついたときとは比べ物にならないほど熱烈な抱擁だったので、しまいに彼は苦しがって抗議した。
「痛、痛えよフリードリヒ! そんなにぎゅうぎゅうやるなよ、苦しいっ!」
 しかしフリードリヒはアインデッドの抗議など意に介さなかった。容赦なく腕に力を込めて抱きしめ、せっかくきれいに梳いて束ねていた髪をぐしゃぐしゃにかき回した。アインデッドはフリードリヒが長い航海から帰ってきた時、よくそうやって頭を荒っぽく撫でられたことを思い出した。力強い手で撫でられていると、まるで自分が十五歳の子供に戻ったような気がした。
「国をおん出たきり、八年も便りひとつ寄越さずにいやがって。ばかやろう。俺がどれだけ心配してたと思ってるんだ。この馬鹿息子が」
 フリードリヒの顔はアインデッドからは見えなかった。けれども、その声にいくばくかの湿っぽさがあるのに彼は気づいた。会いたいと思っていたのは自分だけではなかったのだと気づいたら、それ以上何も言えなかった。呼びかけた声は、喉に絡まるようにして途切れてしまった。
「フリードリヒ……」
 横目に見たフリードリヒの表情はやはり見えない。昔は飛びついたら見上げなければならなかった顔が、今は自分の視線よりも少し下にあった。いつのまにか、アインデッドはフリードリヒの身長を追い抜いていたのだ。
(あ……)
 髪の鮮やかな紅に幾筋かの銀さえ混じっているのを見て、アインデッドの胸は締め付けられるような切なさにとらわれた。やっと腕を離して彼を見つめ、暖かな微笑みを浮かべているその目じりにも、隠しようもない老いの兆しが見え始めていた。アインデッドの心は今度こそ痛んだ。
 八年の歳月は、確実に二人の間を流れていた。何も変わっていないつもりでいたけれども、時に見逃されるものなど、この世には存在しないのだ。自分はこの八年で肉体的にも精神的にも変わった。それは自覚していたが、フリードリヒにもまた八年は、アインデッドほどの変化はなかったにしても変わらざるをえない年月だったのだ。
「……あんたは相変わらずかっこいいな。男っぷりが上がったんじゃねえのか? 広間にあんたが入ってきた時、そう思ったよ」
 胸に迫ってきた名状しがたい切なさを振りやるように、アインデッドは笑った。フリードリヒが苦笑する。
「馬鹿を言うな。あと二年で五十なんだぞ?」
「そうは見えねえよ。ほんとに」
「お前は背が伸びたな。もう俺よりも高いじゃないか。それに相変わらず……」
 相変わらずリューンにそっくりだ。そう言いそうになって、フリードリヒは言葉を飲み込んだ。父親の自分に似ず、母親に似た――生き写しと言っても過言ではないほど面差しの似通った息子。愛する女性の面影をフリードリヒはそこに見いだした。リューンが彼の前から姿を消した時の年齢よりも、ずっと上であったけれど。
 少しでも自分に似ていてくれたら、或いは親子だとアインデッドが気づく日も来ただろう。だがアインデッドは途切れた言葉だけでは何も気づけず、フリードリヒの顔を覗きこんだ。その瞳は母親と全く同じ、深く澄んだ緑色をしている。しかし母の瞳は柔らかな森の輝きだったが、どちらかといえばアインデッドのそれは宝石の硬い煌きだろうか。
「相変わらず、何だよ?」
 無邪気に顔を覗きこんでくるアインデッドに、フリードリヒは苦笑した。
「相変わらず髪は伸ばしてるんだな。そんなに長いと女みたいだぞ、お前」
 とたんにアインデッドは表情を曇らせた。頬に手を当てつつ呟く。
「……髪のせいというより顔のせいだろ、それは。あんまり言うなよ。これでも俺、顔のことは気にしてんだからさ」
「いつも自慢していたくせに? 気にしていたようには到底思えなかったがな」
「それとこれとは別問題なんだよ。……母さんを思い出せる分には感謝してるけど」
 アインデッドは拗ねたようにちょっと唇をとがらせた。さっき撫でられたせいでくしゃくしゃになってしまった髪を束ねていた紐を解き、手でさっと撫で付けて縛りなおす。それがかつて自分が贈った革紐だとフリードリヒは気づいた。
「それ、まだ使ってくれてるのか」
「当たり前だろ。大事にしてるよ。ペンダントも、ほら」
 アインデッドは大きく頷いて、上着の下に隠れている金の鎖を引っ張って、緑玉を取り出してみせた。この世にたった一つの、両親とのつながりである。どんなに金に困ったときでも、売って金に替えようなどと思ったことは一度もない。
「結局、これを知ってる人――母さんや親父のことを知っているって人にはまだ会えないけどさ」
「そうか」
 フリードリヒは曖昧な頷きを返した。アインデッドが父親のことを、生まれる前の自分ごと母を捨てたと思っていること――そのためまだ見ぬ父に憧れ、慕う心の中に憎しみも同時に抱いていることを、彼も知っていたので。
「それとはちょっと話が変わるけどさ、友達に面白いことを言われたぜ。母さんはジャニュア人だったんじゃないかって」
「何でまた、そんなことを?」
 フリードリヒは何でもないように尋ねたが、内心ではひやりとしていた。誰かは知らないが、妙に勘の働く人間もいるものだと思いながら。アインデッドは面白そうに自分の目を指さした。
「俺の目の色が緑だから。髪の色を変えたら、確かにまあ、ジャニュア人に見えなくもなかったよ。ジャニュアでしばらく働いてたんだけど、そこでも死んだ王女様に似てるだとか何とか言われたし」
「働いてたって……お前、ジャニュアにまで行ったのか」
 アインデッドがかなり出生の秘密に近いところまで近づいていたのだと知って、内心の緊張は高まるばかりであった。だがフリードリヒには、そのことも驚きであったが、アインデッドがジャニュアに行ったという事実も驚きだった。話をごまかすつもりではなかったのだが、それを尋ねたところ結果としてそうなってしまった。
「うん……まあ、成り行きで。そこでも色々あって大変だったけど」
 アインデッドは苦笑いのような表情を浮かべた。
「そこで『も』? そんなに言うほど色々あるのか。お前の行く先々では」
「まあな。でも、別に俺が好きでやってるんじゃないんだ。相手が勝手に俺に妙なちょっかい出してきたりとか、一方的にごたごたに巻き込んでくるだけで。なのに、勝つのも生き残るのも俺の方だからって、ついたあだ名が《災いを呼ぶ男》で、あげくが《悪魔の申し子》だぜ? ひでえ話だと思わねえか?」
 同意を求めたアインデッドであったが、フリードリヒは真面目な顔をして小さく首をひねった。
「……ひどく思えんのはどうしてだろうな」
「あ、ひでえ」
 アインデッドはいかにも傷ついた、というような顔を作った。次の瞬間、二人は顔を見合わせて笑った。
 そうして、ナカーリアの刻が過ぎてしまうのはあっという間だった。ヤナスの刻を告げる神殿の鐘が響き、予定されていた会見の時間が終わってしまったことを二人に悟らせた。それぞれの八年間や懐かしさを語る言葉だけでほとんどの時間がとられてしまい、本当に喋りたいことは半分どころか全く話せないままだった。
 しかしこれからフリードリヒは使節団の面々と共に、シェハラザードとマギードの二人との昼食会が控えている。アインデッドはアインデッドで、昼からは通常通り軍務がある。小姓が時間を告げに来たのをしおに、二人はそれぞれ小広間を出た。練兵場と昼食会の会場は反対方向にあったから、扉の前で別れることになった。
「晩餐会で、また会おう」
 それに対して、アインデッドは肩をすくめて困ったような笑みを浮かべた。
「行けたらな」
「そんなに忙しいのか?」
 暇がなくて大変だということはさっきアインデッドが話していたのだが、そこまで時間が取れないものなのかとフリードリヒは驚いた。一軍の長とはいえ、使節を迎えての晩餐会にまで出られないほど忙しいとは、普通なら考えられないことだった。というよりも、将軍ともあろうものをそこまで働かせる国があろうとは信じられなかった。
(俺の息子を過労死させる気か、この国は?)
 フリードリヒがかすかな憤慨と共にそう思ったのも無理はない。
「何とか時間を作ってみるよ。晩餐会は無理でも、その後なら何とかなるかもしれない。ちょっと遅くなるけど。待っててくれるか?」
「もちろん。一晩中だって待つさ」
「ありがとう」
 大きく頷いてやると、アインデッドは少年のようにあどけない笑顔で応えた。そして迎えに来た騎士と共に練兵場へと歩いていった。それから晩餐会までの数テルは、アインデッドにとってもフリードリヒにとっても、もどかしい待ち時間であった。
 フリードリヒには色々と会わねばならない人だとか、しておかねばならない交渉事というのがあったし、アインデッドには騎士団の仕事と余計な雑事がそれこそ山のようにあった。おかげで暇な時間をやきもきと過ごさねばならないということはなかったが、仕事など放り出して語り合いたいという衝動に幾度となく駆られたのであった。


前へ  次へ
inserted by FC2 system