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     共にある時の何と短いことか
     それでいながら
     待つ時の何と長いことか
     共にありし一瞬は 永遠にも似て
     時は水に落ちる雪のように
     はかなく過ぎゆくもの
     ひとが皆永遠を生きるものならば
     この瞬間をこそ永遠となせ
           ――作者不詳の頌歌




     第三楽章 炎色のマッティナータ




「――そういうわけで、俺はシロスさんとレクスさんを匿うことになったんだ」
 エノシュの話が終わると、ダンは詰めていた息を吐くような吐息を漏らした。
「知らない間に、大変なことになっていたんだな」
 一般市民が関わるにはあまりにも大きい根が、この事件の闇に隠れている。だが唯一の目撃者となり、事件の一部となってしまった以上、エノシュにはもう関わり続けるより他にない。
「別に、このこと自体は大変だとは思わない。シロスさんたちは俺たちのシャームをエトルリアから取り戻すために力を貸してくれた恩人なんだし、それを助けるのはラトキアの民として当然のことだと思うからな」
「すまねえこって」
 それを聞いて、今まで黙っていたシロスがちょっと頭を下げた。それに対してエノシュは笑顔で小さくかぶりを振っただけだった。
「それで、アインデッド将軍とはその後?」
「さすがに何度もこんな下町においでになれるような立場じゃないからな。それ以来会ってないよ。薬とか金を届けに、使いは来たけど」
 ということは、エノシュに任せきりにして放置するつもりはないということなのだろう。しかしダンは一つの可能性を疑った。
「監視がついてる、なんてことはないのか」
「あの方は、そういう人じゃないよ」
 エノシュはきっぱりと言い切った。
「話をしてみて思った。あの人は俺みたいな下町の住人にも礼儀を尽くしてくれる、立派な方だ。お前がグリュン様から聞いたような人とは全然違う」
「……」
 それでも疑わしげな顔をするダンに、エノシュは言った。
「俺は見たんだぜ、ダン。自分も焼け死ぬかもしれないって状況で、炎の中で必死になって、生きてる部下を探し出そうとしてる将軍の姿を。あんなこと、誰にでもできることじゃない」
「そうだよ。おかしらは本当にいいお人なんだ」
 エノシュに続いて、シロスが熱心に頷いた。
「そりゃあ、ちっと冷たいところやおっかねえところもあるかもしれねえが、俺たちにはいつだって情の深い、いいおかしらだった。俺たちを用済みだからと始末しようとするなんて、おかしらの考えることとは思えねえ」
 ダンは親友の顔を見つめた。とても真剣な表情だった。シロスの顔もまた真剣で、むしろこれ以上ダンがアインデッドを疑うようなことを言えばただではおかないとでも言いたげな色を浮かべている。
 エノシュは信頼の置ける男だし、つまらない嘘はつかない。実際の部下だった人間までが言うのであれば、それは真実なのかもしれない。となると新しい疑問が出てきた。ダンは首を傾げた。
「じゃあ、グリュン様の言ってたことは何なんだろう?」
「ものは見方によってどうとでも取れるもんだ」
 手厳しくシロスが言った。
「あのじいさんは、単におかしらを嫌ってるだけに違いねえ」
「悪いけどな、ダン。俺もシロスさんの意見に賛成だ」
 エノシュも頷いた。ダンはアインデッドについて語っていたグリュンの様子を思い出してみた。そういえば――と彼にも思い当たる節があった。ダンの与り知らぬ宮廷内のことはさておき、いくつかの事実については、そんなことが果たして反逆を企んでいる証拠なのだろうかと首をひねらざるを得ないようなことがあった。
 たとえば、アインデッドの親しい人には武官が多いというようなこと。本人が武官なのだから知人に武官が多いのは当然と言えば当然のことである。或いはラトキア軍をおのれの言うがままに動くようにしようとしているとか。これも、将軍なのだから軍を掌握できていない方が問題である。
 考えているうちに、ダンの顔には深い苦悩の表情があらわれはじめた。長年仕えた身としては、もとの主人がそんな疑心暗鬼に駆られて針小棒大に物事を――というよりはないことないことを――語っているとか、個人的な好き嫌いから相手の悪い噂を言いふらしているとはあまり信じたくなかったのである。
 しかし、よく考えてみればおかしな事が幾つもあった。
「たしかに……グリュン様の言ってることだけが真実とは限らないな」
 アインデッドの抱く野心についてはともかく、グリュンが言っていることを鵜呑みにするわけにもいかない、とようやくダンも結論付けた。だがそうは思いながらも、疑いの目を向けておくに越したことはないとも思っていた。
 一方のアインデッドは自分がそんな疑いの中心になっていることなど知らず、相変わらずの忙しい毎日を過ごしていた。
 大切な部下たちを目の前で惨殺されたというできごとは彼にしろ衝撃的なことであったし、気分はものすごく沈んでいたが、それにいつまでも拘泥していられるほど暇ではなかったのである。
 また、傍目に落ち込んだ様子を見せては何かがあったのだと悟らせてしまう。黒幕が誰であるのか見当はついているといっても、それが単独犯であるかどうかも定かではない。宮廷内の誰にも異変を知られてはならなかった。
 あの日は出かけていたことはほとんど誰にも知られていないし、知っている者には遠乗りで郊外まで行っていたと説明してある。夜半の遠乗り自体はよくあることなので、それには誰も疑いを抱いていないようだった。
 出かけた日の夜に郊外の森で大規模な火事が起き、身元不明の死体がそれこそ山のように見つかった事件とアインデッドの遠乗りとの関連性は今のところ誰にも疑われているようではなかった。同様に、城からいつのまにか消えていた傭兵部隊の者たちの消息を気にする者もおらず、彼らの失踪と山火事の犠牲者たちを結び付けて考えるほどの推理力を持つものもいなかった。
 この事件に関してシェハラザードは死者の多さもあるので充分に調査を尽くすように命じたが、市内警備隊の管轄外であるし、かといって黄騎士団の管轄と言いきることもできない微妙な場所で起きたできごとであったため、その調査が本当に尽くされるかどうかは定かでなかった。恐らく襲撃を命じた者も、捜査が尽くされないことを狙ってあの場所で盗賊たちを襲わせたのだろう。
 レクスの容態は気になったが、長身や赤い髪といったアインデッドの特徴はラトキアでは特に目立つ。直接出向くことはできなかった。エノシュには二人を匿うための金や、レクスのための薬を届けさせたが、それらは探られても容易に相手に行き着けないような、申し分のない経路を辿って渡るように手配した。
 そうして一旬以上が過ぎ、その間に新生ラトキアとしては初めての国外使節の派遣となった、メビウス海軍大元帥の結婚式に大使として出席していたマギードが使節と共に無事帰国した。
 そしてまた――これは単にアインデッドには忘れようと努めていた名前を思い出させ、ついでに慶事ということで余計に苛立たせたに過ぎなかったが――カーティス公の結婚だとかいったニュースが宮廷を駆け抜けていった。
 まもなくヌファールの月になるその日も、代わり映えのない日常の中の一部となるはずであった。アインデッドにとって意外で、そしていつかはと夢見ていた再会を果たすまでは。
「アルン、今日の予定を」
 着替えの合間に小姓が今日の予定を読み上げて聞かせるのが、アインデッドの習慣となっている。予定管理係の小姓アルンは遠くからでは目を開けていても閉じて見えるほど目の細い少年で、アインデッドは名前が出てこないときには「おい、そこの糸目」などと呼んでいた。本人は尊敬する将軍にあだ名をつけてもらったと思っているらしく、そう呼ばれると妙に嬉しそうであった。
 アルンはさっと上着の内ポケットから予定表を取り出して読み上げ始めた。
「朝見後、ナカーリアの刻より個人会見のご予定が入っております」
「沿海州の使節だったよな、たしか」
 あまり興味のない様子でアインデッドは確認した。仕事だから予定を組んではいるが、外交や社交は実のところあまり気乗りのしないものであった。
「はい。ティフィリスでございます」
「……」
 アインデッドは声こそ出さなかったものの、思い切り「しまった」という顔をした。小姓たちは首を傾げるばかりである。
(頼むから、俺の過去を知らない奴でいてくれよ……! 少なくとも、探ろうなんて気を起こさない奴でいてくれ)
 さすがに国外にまでその無能と不品行が知れ渡っているルートヴィヒが国際社会の最前線に出てくることはないだろうが、そう祈らずにはいられなかった。マギードたちに会った最初にルカディウスがついた嘘は自分で訂正を入れておいたが、その後宮廷内ではアインデッドがどんなに訂正してまわっても、彼がティフィリスの貴族であるとか、お家争いに巻き込まれて国を出たとかいった、喋った覚えのない噂がひんぴんと流れていたからである。
 たとえ本人が言いふらしたものでないとしても、それが真実ではないと知られたら、アインデッドに信頼の喪失という形で跳ね返ってくる。グリュンなどがそれ見たことかと攻撃してくるのは目に見えていた。
 そんなわけで、この日の朝見は初っ端からアインデッドには気の重いものだった。まずはお決まりの各大臣や武将からの報告から始まり、黄騎士団からの報告、改正・制定された法律の発布などがそれに続く。
 使節はそれらが終わった後、別室から広間に通される手筈となっていた。
「ティフィリス使節のご到着にございます」
 触れ係が声を張り上げた。
 代わり映えのない報告の間中、ずっとぼんやりしていたアインデッドは、はっとして背もたれに預けていた背を起こして真っ直ぐに伸ばした。
 広間の大扉が開かれ、下座にかたまっている人々の列を通って出てきた数人に、アインデッドの目は引き寄せられた。詳しく言えば、アインデッドが見ていたのはその中のたった一人だけであった。集団の先頭に立ってこちらに近づいてくる、その身につけているものがたとえ同じであっても態度物腰から明らかに周りの者と身分がかけ離れて高いのだということが伺われる男に。
 年の頃は四十後半かと思われるが、それよりも若く見える。それは鍛えられた長身の無駄がなく切れの良い動きのためであろう。身につけた礼装はあまりごちゃごちゃと装飾の多いものではなく、金糸の飾り刺繍がほどこされた肩章くらいしかないが、それでいながら質素には感じさせない。
 アインデッドはまじろぎもせずに彼を見つめた。同じ色彩を持つ人々の中でもひときわ鮮やかに見える炎色の髪、紅玉のような瞳。目が合った瞬間、そこに笑みが浮かんだように見えたのはアインデッドの気のせいだけではあるまい。
(嘘だろ、まさか……こんな所で)
 思わず立ち上がり、駆け寄りたい気持ちがあった。子供のように飛びついて、どれだけ自分がこの再会に驚き、また喜んでいるかを示したかった。だがアインデッドは多大な努力の結果、辛うじて衝動を抑え、表情もほとんど動かさずにいることに成功した。といって、この広間に集った廷臣たちの中でアインデッドの挙措に注視していたのはルカディウスただ一人であったが。
 使節団を従えて玉座前に立ったティフィリス使節は、この上もなく優雅で、威厳にあふれた一礼をした。
「お初にお目にかかります。遅ればせながらティフィリスを代表し、ラトキアの再独立とシャームご帰還のお祝いを申し述べさせていただきます、シェハラザード大公閣下。それがしはティフィリス王太子、ティフィリス大公フリードリヒ・フェレンサスでございます。以後お見知り置きを願わしく存じます」



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