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 シャームの大通りの一つ、記念碑通りには様々な商店が軒を連ねている。国内外の商人が集う大市が開かれる中央広場へと通じる中央通の賑わいには較べるべくもないが、シャームの市民たちにはこちらの方が馴染み深く、並ぶ店も生活に密着している。料理屋、仕立て屋、日用品専門の金物屋など、旅行者や商人向けの洒落た高級品を扱う店はないけれども、近所づきあいの延長線上にある温かみに満ちた界隈である。
「おい、エノシュ!」
 工房と店を兼ねた一軒の靴屋の前で、一人の青年が奥に向かって声をかけた。店は通りに面して広く間口を取り、窓代わりの蝶番つきの棚には大小デザインも様々の靴が置かれている。店内にも靴を並べた木製の台を置き、その後ろで声をかけた青年とそう変わりない年頃の青年が作業台に屈み込んでいた。
「やあ、ダン」
 声をかけられると彼はにこやかに顔を上げ、槌で打っていた太い縫い針を台に置いた。今しがた縫い終えたばかりの靴は、青く染めた上物の子羊革の婦人靴だった。それに目をやり、軽い口調でダンは尋ねた。
「おや? お前にも、そんな素敵な靴を贈るような相手ができたのか」
 エノシュは笑い返した。
「そうだと言いたいところだが、残念だ。これは客からの注文品だよ」
 喋っている間にも、蝋引きされた麻の縫い糸をきれいに始末し、靴底の板と革とを留めている鋲を仕上げに軽く叩いて整え、最後に油を染ませた布で擦ると、小花模様の散った青い婦人靴は芸術品のように作業台の上で輝いた。
「で、何か用か? それとも注文か?」
「開店まで暇なんでな。ちょっと話し相手をしてくれないか」
 ダンは軽く肩をすくめた。
 父のマノアが失明してしまい、その世話もあるし母と妻の女二人だけで店をやっていくのは少々無理があるというので、ダンは十年以上も勤めたシャーム城勤めを辞めた。今は《ふるさと》亭の若旦那であった。
 店が開くのは夕方からであるし、料理の仕込みはデリラとミカルの担当であったから、早朝の仕入れが終わり、彼の担当であるミール麦の団子作りが終わってしまうと開店までダンのする仕事はほとんどないのだった。エノシュもその辺りのことはもうすっかり飲み込んでいたから、二つ返事で頷いた。
「そこの椅子が空いてるよ」
 エノシュは言い、ダンは工房となっている店の奥に並んでいる背もたれのない長椅子の一つに腰掛けた。他の椅子には、裁断された革の切れ端だとか、磨り減った靴底だとかいったものが無造作に散らかっていた。
「六日ばかり留守にしてたようだが、どこに行ってたんだ?」
「革の仕入れに行ってた」
「なるほど」
 それでダンは納得した。エノシュの父の代から馴染みにしている猟師はアイスバードとシャームの間をつなぐ森を狩場にしているから、革を仕入れるときはその猟師がシャームに来るか、それともエノシュが出向くかのどちらかなのだ。
 ダンと話している間も、エノシュは次の革を型に合わせて裁断しはじめていた。革を縫い合わせるその手並みはいつ見ても感嘆すべきものがある。四年前の冬に両親が相次いで亡くなって以来、エノシュはこの店を一人で切り盛りしている。彼の腕前はすでに親方級だし、忙しいなら住み込みの徒弟でも雇えばいいとダンは勧めたが、まだ人を教えられるほどではないからと断っているのだった。
 だから、誰もいないはずの二階で足音に似た物音が響いたときは椅子の上で思わず飛び上がりそうになるほど驚いた。その音はすぐに止み、二人が黙ってしまったために店内はしーんと静まり返った。雑踏の賑わいが忍び込んでくるばかりである。
 ダンは天井を見上げたが、もちろんそれで何が判るわけでもなかった。視線を戻すと、エノシュも同じように上を見ていた。
「……誰か雇ったのか?」
「ああ……まあ……」
「だったら紹介しろよ。お前の初弟子じゃないか」
 ダンは弾む声で言ったが、対するエノシュは困り顔になった。
「それは、ちょっと……」
「勿体つけるなよ、エノシュ」
「いや……そういうわけじゃないんだが……」
 妙に言葉を濁すエノシュに、ダンは首を傾げた。数秒ダンから目をそらして俯き、迷うように唇を噛んでいたエノシュは、唐突に顔を上げた。その口から出てきた言葉はダンの全く予想もしていなかった、意外な言葉だった。
「お前、アインデッド将軍のことをどう思う?」
 ダンはたじろいだ。エノシュの顔がいやに真剣だったせいもある。
「何だよ、薮から棒に」
「いいから答えろ。前に言っていたよな、ダン。アインデッド将軍にはもしかしたら、シェハラザード様とラトキアに対して何か企みでもあるんじゃないかって。今もそう思っているのか?」
「それは俺というより、グリュン様の仰ってたことだから……」
 気おされたまま、ダンはぼそぼそと言った。ダン自身がアインデッドを見たのは、グリュンを凱旋軍のもとに連れて行ったシェハラザードの凱旋の時の一度きりである。その時には、この人がシェハラザードを救い出してラトキア奪還のために力を尽くしてくれた新たな英雄かと思って遠目に眺めたばかりで、あとは滅多にないほど美しい青年だと思っただけであった。
 ところがグリュンは初対面の印象も頑なに、アインデッドを信用ならない男と頭から決めてかかっていた。その後シェハラザードと恋愛関係にあることが周知の事実になって以来、その敵意はますます強いものとなっていた。
 もっとも、アインデッドにしても全く下心を持たずにシェハラザードに近づいたわけではなかったので、グリュンの疑いにも正当性が全くないというわけではなかった。だが、実際のところシェハラザードの方が彼に惚れこみ、入れあげているのであり、事実とはかなり食い違う認識であった。
 こうなればもはや政敵だからどうのというよりも個人の好き嫌いである。グリュンにしてみればアインデッドは自ら大切に養育してきた《ちい姫様》を戦争のごたごたの間にたぶらかし、まんまと手に入れてしまった間男そのものであった。彼の実際の手柄や実力、その後の努力などもはや目に入らない。
 アインデッドの軍制改革はシェハラザードへの反逆の第一歩、警備隊の創設もその一つであるとグリュンは見なした。彼がティフィリス人であるために起こるちょっとした文化衝突、日常で口にした一言、その他の些細な出来事すべてがグリュンにはアインデッドを信用ならない腹黒い人間だと決め付ける材料となる。
 彼が美青年であるという単なる客観的事実にすぎないことすら、シェハラザードを惑わす悪人という証拠に他ならないのであった。ちなみに、二十歳そこそこの若い世間知らずな娘なら、ちょっと顔のいい男に口説かれたら簡単に騙されてしまうはずだという自分の思い込みが、その身を案じているはずのシェハラザードへの侮辱になっているということにグリュンは気づいていなかった。
 武官の間ではアインデッドはとても人気があったから、それもグリュンの勘繰りと敵意を増大させる原因になっていたかもしれない。そのようにしてラトキア宮廷では次第にアインデッドを軸にした権力の対立構造らしきものが出来上がりつつあった。
 ともあれグリュンのアインデッドへの敵意は収まるところを知らず、ことあるごとにグリュンはアインデッドのやることなすことにけちをつけ、横槍を入れて彼をうんざりさせていた。
 それでもアインデッドはまだ我慢して、どうにかしてグリュンの敵意を和らげようと努力していた。実権はシェハラザードとマギードにあるとはいえグリュンは摂政であったから、嫌われて得をすることなど何もなかったのだ。
 それに、今はまだ個人的悪意から発する嫌がらせ程度にとどまっていたが、自分を快く思わない閣僚や貴族たちが結託して失脚させようとするのではないかと心配していたのである。しかし、彼の努力は毎回空回りに終わっているようであった。
 グリュンは、自分は心底からシェハラザードを心配しており、そのために身辺から危険な男を追い払おうとしているのだと信じ込んでいたから、それが覆ろうはずもなかったのである。そして閣僚仲間や貴族たち相手にアインデッドの悪口、中傷などを言うだけにとどまらず、辞職の手続きのためシャーム城に赴いて挨拶に訪れたダンにも同様の愚痴をさんざん聞かせたのであった。
 聞かされたダンは実際のことなど何も知らないから、聞いたままを親友のエノシュにも話して聞かせ、はたしてこれは本当なのだろうか、そうだとしたら大変だなどと喋っていたのである。
「だって、俺はアインデッド将軍の実際を知ってるわけじゃないからさ。グリュン様の言うままを信じるほかないじゃないか」
 そのことを、ダンは素直に認めた。
「なら、俺が言うことも信じてくれるか?」
「それはもちろん」
 この答えを聞き、親友の真面目な表情を見てエノシュは覚悟を決めたようにちょっと息をつき、立ち上がった。何をするのかと見ているダンの前で彼は棚の扉を閉め、よろい戸を下ろした。それから店の奥、居住スペースにつながる階段を顎でしゃくった。
「二階の客人を紹介するよ。そこで全部話す。ついてきてくれ」
 言われるまま階段を上がっていくと、エノシュは上がってすぐの所にある部屋の扉をノックした。そこは昔エノシュの父親が健在で彼らがまだ子供だった頃、徒弟を住まわせていた部屋で今は空き部屋のはずだった。だがノックに応えてくぐもった返事があり、誰かが扉に近づく足音さえ聞こえた。そして、扉が開いた。
 現れたのは、ひげ面でちょっと気の抜けた風貌の男だった。だがエノシュの隣にダンの姿を確認したとたん、その雰囲気を裏切る鋭い光が男の目に表れた。
「……!」
 慌てて扉を閉めようとするところへ、エノシュが言った。
「こいつは俺の親友だ。口は堅いし、信頼できるやつだよ。安心してくれ」
 それからダンを振り向いて、そうだよな、と確かめた。しかしダンは驚きのあまり言葉も出ないといった様子であった。男は疑わしいものを見るようにダンを見つめていたが、エノシュの真剣な視線に説得されたのか、二人を招き入れるように扉を大きく開けた。部屋にはもう一人の男がいた。ただし、寝台の上に。
 布団の上に投げ出された両腕には厳重に包帯が巻かれ、右腕は二の腕から下が完全に無くなっていた。顔にも湿布が貼られていて、隙間からのぞいた皮膚が火傷しているのを見ることができた。布団に隠れた体にもおそらく怪我や火傷をしているのだろう。
「一体、この人たちは……」
 エノシュを振り返ると、彼はかたい表情で尋ねた。
「この前、フェリス街道沿いの森で山火事があったのは知ってるな?」
「あ、ああ。確か何十人も人死にが出たとか……」
「その生き残りだよ。おれたち二人とも」
 男が唐突に口を挟んだ。寝台の男は意識がないらしく、呼吸で胸が上下している以外にはぴくりとも動かない。
「だったら警備隊か黄騎士団の管轄じゃないのか? それがどうしてお前の家に?」
「ダン。これは他ならぬお前だから打ち明けるんだ。絶対に誰にも――シャーム城に伝わりそうな所には特に、絶対に喋るんじゃないぞ」
 エノシュはもう一度念を押した。ダンが無言で頷くと、彼はあたりをはばかるような低い声でことの顛末を語り始めた。
「この前、仕入れに行った時のことだ。俺はアインデッド将軍に会ったんだ。そして、このシロスさんたちにも」

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