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 かくて、カーティス公の休暇と視察旅行とが決定したのであった。しかし内々にあらかじめ告げられていたものでもなく、予想もされなかった全く急の話であったので、決定したといってもすぐに出発できるものではなかった。
 摂政公としては留守中の仕事の分担であるとか、様々に予想される事態に関する指示などを下しておかなければならなかったし、先々の宿の手配や訪問先の選定と連絡などもしなければならない。
 国内・領地視察という形をとる以上、全くの私的な休暇にはなりえなかったが、それでも旅行は旅行である。特にメビウス国内はヴェンド近郊とオルテアだけ、クラインでもカーティスの一部しか知らないファイラは大喜びであった。
 旅行に向けての仕事上の準備は煩雑で面倒であったが、旅先でどんなドレスを着るか、何を持っていくかをはしゃぎながら選ぶ妻を見ているのは、サライにとって心和むものであった。
 そうした準備はどんなに急いでも数日かかってしまうものだったので、サライとファイラがカーティス騎士団を引き連れ、成婚パレードの賑やかさにも負けない人々の歓声に見送られて、テラニアを最終目的地としてカーティスを出発したのはそれから一旬後、ヌファールの月の一日であった。
 テラニアはクライン十六州の中で最も豊かな土地であり、古くから皇帝の直接支配を受けない自治州として認められていた。それはテラニアが、元来は皇家の傍系たるカーティス公の領地だったからである。
 この土地の豊かさは、皇家の者の所領とするにふさわしいものであったが、テラニアはカーティスから最も遠く、また豊かな農耕地であるということは、別の言い方をすれば開けていない、都会の洗練とは程遠い土地だということである。豪奢洗練を旨とし、土臭さなどとは無縁のカーティスの民、その頂点に立つ皇家の者がそのような土地を財産として以外に所有したがるはずもない。
 さらに国内でも特に悪魔が多くはびこり残っている所でもあったので、代々のカーティス公爵たちが自らの領有するテラニアを訪れることは滅多になく、まして居住したことなど一度もなかった。
 そのためテラニアには管理者としてのテラニア候がおかれることになり、皇家に男系の傍系が絶えた現在まで自治州とされてきたのだった。
 サライが摂政・カーティス公爵に任ぜられた際、平民出身の彼がカーティス公になるのも異例なら、テラニアを与えられるのも異例なことであったが、この地位に付随するものとしてテラニアも与えられていた。そこで国内視察の最終目的地にはテラニアが選ばれたのだ。
 ともあれ最初の宿泊地はカーティスの南西、ハデリ州の州都ティールであった。十六全ての州を回ることは、サライが仕事を空けられる期間的に無理があったので、道筋として通過できる州以外は個人的に親しい州候、州伯を訪ねていくという形になる。
 往路はハデリからローレイン、これは全くの観光目的で風光明媚なアーバイエ、ランドバルゴにはアルテアへ向かう途中で州都のラルゴに立ち寄り、アルテアからパヴィア、そしてテラニアという道程が組まれている。
 復路はテラニアからブランベル、エセルを経由してサライの出身地でもあるダネインに向かい、そこから南下してバージェス、アルターを回り、一月半ほどかけてカーティスに戻る予定である。
 ハデリ州都ティールはカーティスに近かったので、朝のアティアの刻にカーティスを出た一行は、その日の夕方にはハデリ候の居城ティール城に到着していた。ハデリ州はクラインで二番目か三番目に小さな州であったので、州都のティールも人口は少なく、小規模な印象のある都市であった。
 もちろん首都に近いこともあって、規模は小さくとも街並みは洗練され、ティール城もいたずらに広大ではなかったが美しい城であった。市内を西から眺めおろす小高い場所に濠を巡らせて建てられた城は、白い壁と濃い青灰色のスレート葺き屋根の対比が目に鮮やかで、上方に張り出した出し狭間に施された飾り彫りが美しい。
 ハデリ候ブライセ・ビュサンは参勤のためカーティスにいたので、領主の代理として出迎えてくれたのは侯爵夫人イリアであった。
 クラインの宮廷を彩る貴婦人たちの中でもハデリ候夫人イリア、ランドバルゴ候夫人エウラリア、アルター候夫人イレイラはその夫たちにも劣らぬ発言力や影響力をもって三大重鎮として名を知られている。そのイリアが取り仕切った歓迎の宴は、その豪華さ、洗練された優雅さといい、カーティス城のそれと比べても引けをとらないものだった。
 ティールに二泊し、続いてハデリ州を抜けてローレイン州へと向かう。そこはクライン一のアーフェル果の産地で、今の時期はアーフェルの花が満開である。街道の左右に広がる畑一面に植えられたアーフェルは近づけば甘い香りを放つ白い花をびっしり付け、まるで雪景色のようだった。
 ファイラは馬車の窓からこのような風景を飽くことなく眺めていた。彼女の生まれ育ったヴェンドは極北に近く、その寒さのためにアーフェルもカディスも育たぬ土地であったから、一面花盛りのアーフェルを見たのはこれが生まれて初めてだったのである。
「まるで雪のようだわ。きれいね、サライ」
「そうだね。ああ――ほら、ごらんよファイラ。あれは蜜吸い鳥だ」
「まあ、可愛い」
 花の合間を蜜蜂のようにせわしなく飛びまわる小鳥の姿に、ファイラは目を細めた。あれは何かしら、これを見て、と五分おきにサライの腕を引き、午前中はずっと喋り通しであった。おかげで疲れきってしまったのか、その日の午後の移動ではクッションにもたれて眠っていた。
 この日は移動だけで一日が過ぎ、ハデリとローレインの州境にある町で一泊し、翌日に州都ナーエに入った。二人を迎えたのはローレイン伯ワルターと、去年伯夫人となったばかりのアデリシアだった。
 ナーエ市はフェルン山の麓に広がる都市で、ローレイン伯の居城フェルン城は山頂に築かれていた。
「ようこそおいでくださった、サライ殿、ファイラ夫人。我がフェルン城には是非とも秋に来ていただきたかったものだが、この初夏の眺めも悪からぬものと自負している。どうか滞在を楽しんでいただきたい」
 そうワルターが言ったのは、このフェルン城の壁が明るい黄土色で塗られていて、秋にはフェルン山を覆う木々の黄葉とあいまって、夕刻には山も城も黄金でできているかのように見えるからであった。そのことはバーネットから聞き知っていたので、サライは笑って頷いた。
「時間が許せば、是非ともお伺いしたいものです。むろん、今の眺めも素晴らしいものですが」
 午前中はナーエ市内でカーティス公を歓迎する歌と踊りの催しがあり、夜にはフェルン城で晩餐のテーブルを囲みながらワルターやアデリシアと語らった。ルデュラン家はクラインでも並ぶもののない大伯爵であったが、その城もそこに住まう人々もみな優雅を気取って取り澄ますことはなく、家庭的、人間的な温かさに満ちていた。それは客人にも惜しみなく分け与えられるものであった。
 そのような温かい家庭に育った友人を、サライは心から羨ましく思った。そして同時に、この温かさがいつまでも続くことを願った。
 ローレインからアーバイエまでは両州にゆかりの深いアデリシア夫人が一行に同道し、風物の説明や案内の役を務めた。アーバイエ候夫妻はカーティスにいたので、そのまま彼女がエクタバース城でも女主人として彼らをもてなした。
 エクタバース城はこれまで巡ったティール城、フェルン城とは違い、全くの平地に建てられた城であった。十二選帝侯の筆頭侯爵の居城にふさわしく、皇族の宮殿と並べても見劣りのしない敷地面積と建物の優美さを誇る。
 その白亜の城の中は粋を凝らした装飾が床から天井までを覆い、さりげなく飾られた調度品や彫刻、絵画だけでもちょっとした美術館の様相を呈していた。中に農園をも擁する広大な庭園にはバス湖から水を引いた人工池があり、橋のたもとにしだれ柳が優美な影を落としている。
 バス湖と十二神殿群の美しさで知られるアーバイエ州都エクタバースには四泊して、クライン一と称される神殿群を回り、その造形の人工美と湖の風物の自然美とを愛でた。もちろん全くの観光目的ではなかったので、行く先々の州でちょっとした農場視察の時間を取ったり、皇帝に上申あるいはその判断を仰ぐべき民事・刑事の事件報告を受け取ったりといった公務も行われた。
 そのような公務を含め、全ての行程は問題なく順調にこなされていった。バス湖に水源を発し、クラインを横断して流れる国内最大のベラ川のほとりに位置するランドバルゴの州都ラルゴ、ベラ川を渡ってアルテア州都メイエへ、ベラ川とその支流エルト川の二つを渡りパヴィア州都セレインへ。目的地であるテラニア州に入ったのはカーティスを出て半月後、州都テラニア市に到着したのはさらにその二日後であった。
 サライがテラニア州を訪れるのは二年ぶり、これが二度目のことである。二年前には訪れたというより、地位も何もかも失い、放浪の身で流れていったという方が正しかった。あの時はこの先自分がどうなるのか、どうしていけばいいのかも全く判らなかった。もちろん、このような形で再びテラニアの地を踏むことがあるなどとは、夢想だにしていなかった。
 セレイン市からテラニア市へと続くルーディア街道を進みながら、サライは瞑想的なまなざしを車外の景色へと投げた。あの時とは違って人目を避ける必要はなかったことと、馬車を用い、騎馬隊を引き連れての行程なので通るのは表街道であったが、目にする暗い森の景色はほとんど変わることがない。
(この地で私は、彼と出会った)
 あれが、全ての始まりだった。
 そんなふうに、サライは思った。今に続き、そしてこれからも続いていく果ての見えない運命の始まりが、ここだった。
(彼らに出会うために、私はこの道を歩んだんだ。きっと)
 今は別れ、違う道を歩む三人であったけれども。そして一人とは、もう二度と会うことは――以前のように親しく言葉を取り交わすような関係としては――できないだろうけれども。
 それでも、出会うことに意味があったのだ。互いの運命に関わり、影響しあい、そして別れるために。
(いつかは私に還る運命のために――)
「どうなさったの、サライ?」
 気遣わしげなファイラの声で、サライはふと現実に返った。窓を向いていた顔を巡らすと、不安げに首を傾げた妻と目が合った。
「具合でも悪くなったのかしら? あまり顔色が良くないように見えるけれど」
「いや、大丈夫だよ」
 サライは微笑んだ。
「ちょっと、昔のことを思い出していたんだ」
「昔のこと?」
「ああ。クラインを追われたときのことだ。沿海州に出るために、ここを通ったんだよ。それを思い出していた」
「ごめんなさい。言いたくないことだったかしら」
 ちょっと口許を押さえるようにしながら、ファイラは言った。だがサライはゆっくりと首を横に振った。
「いいや。過ぎたことだよ。君が聞きたいと言うのなら、今夜にでも話してあげる。……あまり、心楽しい話というわけにはいかないけれども」
 サライの顔をちょっと見つめて、ファイラはかぶりを振った。それからにっこりと微笑んで彼の手を取り、明るい口調で言った。
「過ぎたことだなんて言うのに辛そうよ、サライ。話さなくたっていいわ。私たちは過去ではなくて今を生きているのですもの。新しい思い出を作りましょうよ。もっと、いつでも思い出したくなるような、楽しい思い出を。ね?」
 ファイラの笑顔につられたように、サライも笑った。
「そうだね。せっかくの休暇なのだし、この先、こんな長期の旅行が何度できるかわからない。残るものは楽しい思い出だけにしたいね」
「そうよ」
 晴れやかなファイラの笑顔は、暗くなりかけていたサライの物思いを明るい方向へと戻してくれた。そのことに静かな喜びを感じながら、サライは馬車の揺れに身を預け、再び車窓の景色を眺めた。だが、もう思いが過去に馳せられることはなかった。

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