前へ  次へ

     君は美しい、私の愛、私の宝
     君の瞳は、小鳩のように愛らしい
     君の髪は、草原のように輝く
     さあ目を覚まして
     我が妻、我が喜び、清らかな人よ
     私を愛で満たしておくれ
           ――カーティスの流行歌
                 「君は美しい」




     第四楽章 愛の賛歌




 学生たちとの宴は明け方まで続いた。完全に日が昇ってからでは宮殿を抜け出したことが傍仕えの者たちに知られて大騒ぎになってしまうので、サライとファイラは名残を惜しみながら空が白み始めた頃になってやっとヴィズア学寮を辞した。
 それは全く初めての、そして心ときめく経験であったから、こっそりとレンティアに戻って寝室に引き取ったときも興奮が続いて眠れるものではないとファイラは思ったが、やはり昼間からの疲れがあったらしい。再び夜着に着替えて寝台に潜り込むと、枕が頭についたかつかないかのうちに彼女は眠り込んでしまっていた。
 だからファイラは、隣で眠ったサライが間もなく起床を告げに来た使用人に起こされ、彼女を好きなだけ寝かせてやるように言いつけて、そっと出ていったことには気づかなかった。
 結局サライが眠れたのは二時間かそこらであったが、彼は眠気の片鱗もそのおもてに浮かべることなくカーティス城に登城した。今日の朝見前に個人的な話があると、呼び出しを受けていたのである。
 即位以来レウカディアはあれほどまで大切に思い、呼び戻すために熱心になり、執着していたはずのサライに対し冷淡であった。サライ自身も、心からレウカディアに仕えたくてというよりも、半ば以上アインデッドに心が傾いていた所を、そうまでして呼び戻そうとしているのだから仕方ない、という義理に近い気持ちで戻ってきていた。
 そのため、以前ほどレウカディアに絶対的な忠誠心を抱いているというわけではなくなっていたのだが、それを薄々察してというにしてもこの変化は大きかった。
 サライのみならずほとんど全ての者に対して彼女はよそよそしく、精神的にも肉体的にも距離を置くようになっていたが、その理由は誰にも判らなかった。理由を探ろうにも、レウカディア自身がその手がかりとなるようなものを一切見せず、また人を近づけさせなかった。
 父のアレクサンデルに謀反を疑われるまでに気にかけ、摂政にまで抜擢したのだから、サライにはもう少し心を許していてもいいはずだったが、逆に最も近しい存在にこそ頑なになり、胸襟を開くまいとしているようでもあった。
 サライ自身にも、どうして自分が急に冷遇されるようになったのか、全く理由は思いつかなかった。理由が判らないからこそ、これ以上レウカディアの怒りや不興を買わないようにおとなしくしているしかなかった。
 しかし今年に入ってから、レウカディアはことのほか落ち着いているように見え、穏やかな表情を浮かべていることのほうが多くなった。これは人々にも、何となく理由が判ることであった。
 ファイラを宮廷で出迎えたその時のことである。レウカディアが珍しく口にした冗談に廷臣たちが笑ったという、あの出来事。
 それは、彼女にとって思いもかけない出来事だった。それまでレウカディアは、皇帝となったからにはいつも重々しい顔つきをし、軽々しく雑談をしたり、笑顔など見せたりしてはいけないと一人合点している節があった。
 彼女はもともと朗らかで口数も多い性格であったから、そのようにしていることは彼女にとって多大なストレスとなっていて、そのせいでますます不機嫌になり――と、悪循環になって余計に事態を悪化させていた。
 だが、あの時つい言ってしまった自分の冗談で人々が笑ったことで、自分が冗談を言っても侮られることはない――むしろ好意的に受け取られるのだと知って、レウカディアは目の覚めるような思いを味わったのである。そして一年間張り詰めてきた気負いが、いくらか軽くなったのだ。
 レウカディアにはもちろん、ことさらにおどけてみせたり、馴れ馴れしい振る舞いを臣下に許すつもりは全然なかったけれども、自分の態度一つで宮廷の雰囲気がずいぶん変わるのだということに気づいた。
 皇帝の威厳は絶対的なもので、これを冒させてはいけないとレウカディアは今も考えていたが、そのために取っている態度のせいで自分が宮廷からしだいに浮き始めていること、廷臣たちが自分を腫れ物に触るように扱うようになったことは不快だったし、密かに悩んでもいた。
 かつて皇女であった頃は、誰もがというわけではなかったが、気さくに話しかけてくる友達のような女官もいれば、廷臣たちからの惜しみない敬意と愛情を感じてもいたので、悩みはなおさらであった。
 だからこのことをきっかけに、少し今までの態度を改めてみようと自分なりに決意したのである。
 皇帝の発言ともなれば、それがたとえ全然気の利かない冗談であったとしても人々は笑ってくれる。人々の笑いをとることができ、それに対する言葉なども返るようになると、もとは明るい性格だったので次第に無理なく面白いことの一つも言えるようになり、これは追従しているだけではないか――自分は廷臣たちに疎ましく思われているのではないか――といった疑いも自然に晴れていく。
 そのように、物事はゆっくりとではあったが確実に良い方へと動き出していきつつあった。レウカディアは完全に昔のようにとはいかなかったけれども、今ではたびたび冗談も言うようになり、すっかり影を潜めていた愛らしい笑顔さえ見せるようになっていた。おかげで、カーティス城の雰囲気は目に見えて明るいものに変わっていた。
 今もサライはほとんどカーティス城に出仕せずにレンティアで仕事をしていたけれども、そのような事情があったので、レウカディアに呼び出されて城に向かう間も、ほんの半年前にはそうだったように気が重いということはなかった。
 個人謁見のために通された小広間に姿を見せたレウカディアは、やつれて見えていた頬に肉が戻り、白さを通り越してどことなく病人めいていた顔色もずいぶん良くなっていた。身につけたドレスや皇帝の地位を示すあれこれの宝飾品は常と同じであったけれども、レウカディア自身のまとう空気が変わったために、それらの重々しく、しかつめらしく見えていた付属物もどことなく雰囲気が明るく変わって見えた。
「おはようございます、我が陛下」
 跪いたままサライが頭を下げると、レウカディアは薄く微笑んだ。
「おはよう、カーティス公」
 それからレウカディアは、思いついたように付け加えた。
「婚礼は昨日のこと、ファイラ殿とはひと時も離れがたきところをこのように朝早く呼び立てたこと、悪く思うな」
「決してさような。妻とはこれから毎日共に過ごせますゆえ、ことさら今日にこだわる謂われはございませんので」
 レウカディアのからかいに、サライも同じような言葉で返した。互いに表情は真面目なものであったけれども、周囲に控えていた侍従や女官たちが二人の背後や横で笑いをかみ殺していた。一年前では考えられないような会話であった。
「それは重畳」
 レウカディアは言いながら玉座に腰掛けた。サライが彼女の言葉を待って黙っていると、数秒おいてからレウカディアは再び口を開いた。
「カーティス公、そなたは我が即位のみぎりより、実によく働いてくれている。あらためて礼を言わねばと思っていた」
 それにはサライは黙って頭を下げた。意外な言葉でもあったので、何と答えていいのか判らなかったのだ。レウカディアは王笏を持つ手を替えながら続けた。
「わらわも国を治めるにあたり未熟であったゆえ、去年一年間、公には休みらしい休みも与えてやることができなかった。そこでだ。これよりしばらく、務めのことは忘れてゆるりと休んではいかがか」
「は……。よろしいのでございますか?」
「むろん。二言はない」
 サライが尋ね返すと、レウカディアは微笑みのかけらのようなものを口許に乗せて大きく頷いた。
「今年に入ってより考えていたことだが、良い機会であろう」
 この唐突な提案はどうやら、蜜月を仕事に煩わされることなく過ごせるように――というレウカディアの心遣いであるらしい。そのような発言も態度も今まで一度もなかっただけに、サライは嬉しく思いながらも驚きを隠せなかった。
「それは……大変ありがたく存じますが、しかし全ての仕事を休むというのも、陛下にご負担をかけてしまうのではございませんでしょうか」
「気にせずとも良い。公がいなくば何もかも動かぬようなものではない。今まで公には色色と任せきりにしていたものもあるが、わらわとて、いつまでも摂政頼みではならぬことでもあるし」
(ああ……)
 それを聞いたとき、サライの中でわだかまっていた疑問が解け、すとんと納得が下りてきた。何故レウカディアが自分を疎ましがるような態度を取っていたのか、今回急にこのような心遣いを見せたのか。
 つまるところレウカディアは、自分一人でクラインを治めたいと思っていたけれども、今はまだ未熟で、それは不可能であることも充分判っていた。だからサライを摂政として置いた。しかしそれは同時に一人では国を治めきれないと自ら認めることでもあった。その事実は彼女に焦りと苛立ちをもたらし、苛立ちは自分自身とサライへと向けられていたのだと。
 そもそものはじめは信頼していたからこそレウカディアはサライを摂政にしたが、その事でいつしかサライはレウカディアにとって、存在自体が彼女の能力不足を象徴するものとなってしまっていたのだ。だからレウカディアはサライを見るだけでおのれの未熟さ、力不足を思い知らされるような気がしていた。
 更にはサライがレウカディア自身も予想していなかったほど有能であったことも、余計に彼女の苛立ちを増す原因となっていた。自分の能力を示そうと、彼女が一人で処理しようとしてどうにもならなくなってしまったようなものでも、サライが手伝ったり、引き取ってうまく処理してしまうので、能力を示すどころか逆に至らなさを実感させられることになってしまっていたのだ。
 そして苛立ちをぶつけて冷遇すると、サライはひたすらおとなしく耐えるばかりで、それがまたレウカディアには自分の人格の至らなさ、幼稚さをまざまざと見せ付けているような気にさせるものとなった。
 サライとの関係も、彼女が陥っていた悪循環の一つだったのである。
 けれども自らを追い込んでいた精神的な悪循環が少しずつ改善されて、そのような苛立ちの原因となっていた気負いも軽くなったことで、レウカディアには周囲に目をやる余裕もできてきたのだろう。
 これは自分への彼女なりの詫びであると同時に、一人でやっていけるかどうかを試す機会でもあるのだ、とサライは理解した。
「それにまた、公はまだ一度もテラニアを訪れたことがなかったはず。休むというのが心苦しければ、わらわに代わり国内を巡察し、領地の視察に行くと考えればよかろう」
 考え込んでいたサライの沈黙を戸惑いと受け取ったのか、レウカディアはなだめるような口調で言った。はっとして、サライは深く頭を下げた。
「陛下のお心遣い、数ならぬこの身にはまことに勿体無く存じます。わたくしの全ては陛下のために捧げるべきものにございますが、そのように仰っていただいたものを固辞するも、君命に反する罪と存じます。それゆえお言葉に甘えまして、これよりしばらく国内の視察のため、お暇をいただきたく存じます」
 この返事を聞いて、レウカディアは満足そうに頷いた。
「よい。何日、何旬――いや、一月以上になろうともかまわぬ。どうか存分に疲れを癒し、また我がために働いておくれ、サライ」
「……」
 久々にサライはレウカディアが自分を名前で呼ぶのを聞いた。だがレウカディアの表情を確かめる前に、彼女は立ち上がり、天鵞絨のカーテンの向こうに去っていってしまっていた。

前へ  次へ
inserted by FC2 system