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                                *



 夜通し続くかと思われた宴が果てたのは、日付も変わろうかという深夜であった。寝室に引き取って、寝支度を整えようとしていたファイラの元に、控えめなノックと共にサライが顔を見せた。
「ファイラ、まだ起きていられる?」
「起きていられるも何も、まだ眠れそうにありませんわ」
 興奮を抑え切れないように、ファイラは笑った。
「これからこっそり出かけると言ったら、ついてきてくれるかな」
「どこに参りますの?」
 ファイラが尋ねると、サライは悪戯っぽく微笑んだ。
「ゾデボルク。ちょっと下町になるのだけど、私塾が多く集まっている所だよ。法学者のマティアス師に顧問をしてもらっていることもあって、そこの学生たちとは親しいんだ。今夜、彼らが祝いの席を設けてくれているから、今からお忍びで顔を出そうかと思うんだ。君のことを紹介したいし――君さえ良ければ」
「学生たちは、あなたのお友達ですの?」
 サライは頷いた。
「そうだね。学問の友人と言ってもいいかもしれない」
「では参りましょう。あなたのご友人なら、わたくしも挨拶をしたいわ」
 ファイラははしゃいだようにサライの両手を握って、ドアへと引っ張った。サライは抑えきれないといった様子で苦笑した。
「ファイラ、それはいいけれど、お忍びでもその格好ではね。着替えてからにしよう」
「あら」
 自分が夜着にガウンを羽織っただけの、完全な室内着であることに初めて思い至って、ファイラは顔を赤らめた。サライの方はすぐにでも出かけられるような地味な服に装いを改めていたので、すっかり自分も同じような服装のような気になっていたのである。
「すぐに着替えますわ。五テルジンほど、お待ちになっていて」
「ああ。次の部屋で待っているから」
 まもなく、ファイラは一人で着付けられる淡い青の簡素なドレスに着替えてサライの待っている部屋に入ってきた。
「お待たせいたしました」
「じゃあ、行こうか」
 サライの差し出した手を取り、二人はやっと寝静まったレンティア小宮殿を抜け出した。お忍びということもあって、二人は一緒に騎乗した。サライが手綱を取り、その前にファイラが座る。
 二人を乗せた馬はカーティス市内を流れるベルティア川にかかる橋を渡り、学生街として知られるゾデボルク地区に入っていった。そこは様々な学問を教える幾つもの私塾が軒を連ね、クライン国内のみならず国外からも学問の徒たちが集まるので、食堂、下宿屋、印刷屋、筆写屋といった学生相手の商売も盛んな町である。
 学問の町といえば聞こえはいいが、日頃本より重いものなど持たないので力の有り余っている血気盛んな年頃の若者たちが多く集まる町でもある。当然ながら議論が過ぎての暴力沙汰というのも日常的に起こる。要するに市内に分散しては困る問題児たちを一所に集めたようなものなのだ。
 それでもゾデボルクに住む人々はこの町こそが中原の学問の中心地、文化の発信源であるという誇りを持っており、時には面倒を起こすにしても、学生たちを暖かく受け入れて暮らしていた。
 このような町はオルテアにはないものだったので、ファイラは興味深げにフードの下から初めて見るカーティスの下町を眺めていた。真夜中なので人通りはほとんどなく、二人してマントのフードを目深に被って通っていくサライとファイラを見かけたとしても、それが自分たちが昼間に一目見ようと大騒ぎして祝福したカーティス公夫妻であると気づく者とていなかった。
「ここだよ」
 やがて比較的大きな建物の前で、サライは馬を止めた。煉瓦造りの三階建ての建物で、見たところ商家の長屋にも似ている。しかし商家と違うのは、一階部分に店舗があるわけでもなく、玄関らしい大きな扉が正面に一つあるきり、あとは窓が並んでいるだけというところであった。
 そのような作りからすると、何かの宿舎のようにも見える。サライの手を借りて馬から下り、ファイラが建物を見上げてみると、明かりがついている窓は疎らであった。
「ここは、どこですの?」
「学生が自分たちで管理経営している寮だよ。君の国で言うなら、騎士団の宿舎を騎士たちが切り盛りしているみたいなものかな。このヴィズア学寮はゾデボルクでいちばん大きいんだ」
「何となくわかりましたわ」
 観音開きの大きな扉の横に下がっていた鎖を引っ張ると、中で呼び鈴が鳴る仕掛けになっていたらしい。十数秒の間を置いて、扉の向こうから足音が近づいてきた。中で掛け金が外される小さな金属音が聞こえ、細めに扉が開かれた。
「どちらさま……」
 そっと伺うように顔を覗かせたのは、二十歳前後と見えるクライン人の青年であった。彼はそこに並んだ二人の顔を一目見て、目を瞠った。サライは悠然と微笑んだ。
「こんばんは」
「サライ様! それに、奥方様もですか!」
 青年は驚き、ついで頬を紅潮させた。
「まさか、本当に来ていただけるなんて。光栄です」
 青年の差し出した手を軽く握り、サライは微笑んだ。
「せっかくの招待を断るほど、野暮なつもりはないからね。ファイラ、彼はシルデリック。ゾデボルクの学生組合の理事長だ」
「シルデリックです。どうぞお見知り置きを、奥方様」
 緊張を隠せない様子で、シルデリックはややぎこちない礼をした。これほどの高貴な美女を目の前にしたことなど、おそらくこれが初めてだったに違いない。
「私の事はファイラで結構よ。宮殿の者たちにも、そう呼んでもらっているわ」
 ファイラは鷹揚に礼を返した。
「むさ苦しい所ですが、どうぞお入りください」
 シルデリックは丁寧に一礼して、二人を建物の中に差し招いた。入ってすぐの所にはかなり広めの玄関があり、そこから正面奥と、左右に続く廊下が伸びていた。シルデリックが先導して、彼らは正面に続いている廊下を歩いていった。歩みを進めるごとに、奥の喧騒とドアの隙間から漏れる明かりが近づいてきた。
 どうやら向かう先は食堂か広間か、とにかくこの宿舎にいる学生が集まっている場所のようだ。
「おおい、皆! サライ様がいらっしゃったぞ!」
 ドアを開けてシルデリックが叫ぶと、たちまちわあっと歓声が起こった。それだけでも、サライに対する学生たちからの人気がどれほどのものであるかがうかがい知れた。そこに集まっているのは圧倒的に男性が多かったが、中にはちらほらと女性の姿も見受けられた。全体の人数としては百人弱といったところだろう。
 やはり食堂として使われている部屋のようで、十人単位でかけられる長いテーブルとベンチが何列も並べられている。夜遅いというのにテーブルにはまだたっぷりと料理の盛られた皿が並び、それよりも多くの酒瓶、壺、グラスが散らかっていた。宴はいまたけなわのようだ。
「さあ、お入りください。宮殿でお召し上がりになる料理のようにはいきませんが、精一杯におもてなしさせていただきます」
「喜んで」
 二人は心からの笑顔で頷いた。学生たちは拍手喝采しながら上座に当たる場所に急遽二人のためのテーブルを用意し、飲み物とグラスを運んできた。サライが酒にあまり強くないということは彼らも既に承知していることらしく、水差しの中に満たされていたのはアーフェル水であった。
「じゃあ皆、改めて乾杯だ!」
 シルデリックの音頭で、学生たちはそれぞれに酒やアーフェル水、その他の飲み物を注いだカップ、グラスを差し上げた。
「サライ様とファイラ様の、末永い幸せを祈って――乾杯!」
 わっと一斉に乾杯の音が広がり、その中心でサライとファイラも互いのグラスを軽く触れ合わせた。最初の杯を空けてしまうと、給仕役を買って出た学生がまたアーフェル水を注いでくれた。
 サライの隣に座ったシルデリックに、ファイラは少し気になっていたことを尋ねた。
「シルデリック、あなたはいったい何を勉強なさっているの?」
「ロルシュ師の私塾で、化学を学んでいます」
「化学?」
 ファイラは首を傾げた。あまり耳慣れない言葉であった。
「それはどういうものなの」
「もともとは魔道学の一つだったそうですが、百五十年ほど前に独立した学問です。新しい物質を作ったり、物を調べるための薬を作ったりするんです。僕がやっているのは、金属変成を促す薬品の研究で、これは金属を溶解させることと――」
 滔々と語りそうになったシルデリックだったが、ファイラが自分の専攻分野については全くの素人で、『化学』という言葉と彼のやっていることについては簡単な説明を求めただけだということに気づいて口をつぐんだ。
「とにかく、そういうものです」
「そうなの」
 ファイラはシルデリックの狼狽には気付かないふりをした。
「こちらの料理はいかがですか、ファイラ様。あたしが作ったんです」
 その間の悪さを吹き払うように声をかけたのはファイラとそう年の変わらない、若いクライン人の娘であった。手にした皿には暖かな湯気を立てる煮物が載っていた。王侯の豪奢はないが、心のこもったものであるのは判った。
「いただくわ」
 ファイラは笑って頷き、その娘が料理を取り分ける手元を見ていた。その袖にインクのしみがついていたので、ファイラは首を傾げた。
「……あなたも学生なの?」
「はい」
 娘は誇らしげに頷いた。
「ベリルと申します。ホルダ師の塾で、法律を学んでいます」
「まあ、私塾で?」
 ファイラはびっくりした。彼女の常識では、女性というものは家庭教師を自宅に招いて読み書き程度を習得すればそれで足るのであって、それ以上の学問は男のもの、という感覚があったからだ。だが、ベリルがそんなファイラの反応を気に留めた様子もなかった。世間一般の考え方がそんなものであるのは承知していたので。
「でもご両親には反対されなかった?」
「もちろん、反対されました。でも知らないことを学びたい、それだけで家を飛び出してまいりました」
 ますます驚いた顔のファイラに、ベリルは快活に笑った。
「女は学問をしてはならないなどと、誰が決めたことでしょう? 何かを学びたいという思いには、男も女もございませんわ。学問はそれを求めるものにならば、どんな身分のものにも、どちらの性別にも開かれていてしかるべきです」
「まあ……」
 そんな考え方に触れたのはこれが初めてだったので、ファイラはただただ驚くことしかできなかった。

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