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                                 *



 ファイラはサライに手を取られ、祭壇の前に二人で進み出た。
 それを待って、助祭が婚姻誓約書を二人の前に示した。
「婚姻誓約書に署名を」
「はい」
 祭壇の手前の台で、サライが先に鵞ペンをとり、流麗な飾り文字で署名した。次にファイラが彼の名前の下に同じように、こちらはメビウス風の装飾文字で署名した。これで書類上は二人の婚姻が成立したことになるが、まだ儀式は完成していない。
 署名の済んだ書類を助祭が取り、祭壇に置いた。式の後、この書類は神殿の保管する台帳に納められることになっている。助祭が下がると、司祭のアントニアが聖別された黄金づくりの薔薇を絡ませた杖でサライの肩に触れ、誓約の確認をした。
「汝サライ・カリフ。ディアナの名の下に、この女を妻とし、病める時も健やかなる時も共に生きることを誓いますか?」
「誓います」
 続いて、アントニアはファイラに向かって同じ質問をした。
「汝ファイラ・ド・ラ・レステ。ディアナの名の下に、この男を夫とし、病める時も健やかなる時も共に生きることを誓いますか?」
 ファイラの、愛らしい珊瑚色に彩られた唇がヴェールの影で小さく動いた。
「はい。誓います」
 右の助祭が列席者たちに向かって問いかける。
「最後に問う。この婚姻に異議のある者、反対する者は、今ここに申し出て、その理由を述べるがよい」
 少しの間、アントニアは待った。だが、もちろんのこと異議を申し立てたり、反対する者はいなかった。
「では、誓いの言葉を」
 サライとファイラは頷き、その定められた誓いを口にした。合図したわけでもなかったのに、二人の声はぴったりと揃っていた。
「晴れたるときは晴れたる日のごとく、嵐の日は嵐の日のごとく、われは君と共に生きん。     共に手を取りかたわらにある時も、遠く万里を隔てたる時も、変わらずわれは君を愛す。こはディアナのさだめなりせば、よし死がわれらを分かつとも――」
 全く同じ言葉を唱えていた二人だったが、やや間を置いて、それぞれの言葉を述べた。
「我は君の夫、君は我が妻」
「われは君の妻、君はわが夫」
 そしてまた、二人で続ける。
「再び黄泉にて巡り会うべし」
 これで、言葉による婚姻の契約は成立したことになる。
「誓いの口づけをもって、これより二人を夫婦とする」
 祭壇に向かってひざまずいていた二人は立ち上がり、初めてお互いに向き合った。サライの腕がそっと伸ばされて、ヴェールに指がかかる。どことなくおずおずとしたように――ゆっくりとヴェールをかき分け、肩の上に払いのける。
 現れた美しい顔は、勝利の女神のような輝きを持っていた。
 夜明けの空色をした紫色の瞳と、黄昏の空の菫色の瞳が互いを映しあう。
 静かに、二人は瞼を伏せた。
 人々の感嘆のため息の中で、二人の唇がほんの数瞬、触れ合った。
「ヤナスのもとに、かつ全ての神々の栄光のうちに愛し合い、栄えなさい。これより汝ら二人を夫婦とする」
 アントニアの晴れやかな声が、儀式の終了を告げた。列席者は立ち上がり、拍手でこれに応えた。その中で、サライとファイラはもう一度顔を見合わせて、微笑みあった。オルテアの幻を、サライは今現実のものとして手に入れたのだった。
 それは、不幸の多かったサライの二十二年の生涯の中で、最も幸福で輝く瞬間の一つであった。
 神殿の外で、また新しい鐘の音が鳴り響いていた。式の終了を告げるものである。屋内にも、神殿の周囲に詰めかけた市民たちの上げる歓呼と祝福の声が届いてくる。拍手の中、二人は手を取り合って神殿の外に向かった。
 神殿の前では四頭立ての天蓋なしの馬車が二人のために用意されていた。白と金銀に彩られた馬車には花綱が掛けられ、馬具には動くたびに軽やかな響きを振りまく金の鈴が飾り付けられている。馬のたてがみにも花が編みこまれていた。
 馬車に向かう道の左右にも人々がずらりと並び、花びらや紙吹雪を絶え間なく投げかけたので、地面はたちまち雪が積もったようになった。一応綱で入ってはならない区域が決められ、警備の兵士たちもいたはずなのだが、押し合いへしあいしているこの人ごみではどこに彼らが並んでいるのかも定かでない。
 馬車の扉をアトが開けて、サライが先に乗り込む。その手を借りてファイラが乗り、彼の隣に座ったのを待って、アトも素早く馬車の左に留め置いていた自分の馬にまたがり、出発の合図を告げた。
「カーティス公、おめでとう!」
「ご成婚おめでとう!」
「ディアナの祝福があらんことを!」
 市民たちの歓呼の声。
 その中で、カーティス騎士団に守られて二人の乗った馬車がすべるように動き出した。正午近い太陽の陽射しを浴びて、新郎と新婦の金銀の髪が目映く輝き、人々の目を奪う。まるで、光が内から輝き出るような美しい一組の夫婦に、彼らはため息をつき、それから思い出したように祝福の声をかけた。
 遅れて出てきた列席者たちも、レンティアに向かうためにそれぞれの身分に応じた馬車や馬などで続々と動き出す。規模といい華やかさといい、それはさながらレウカディアの戴冠式のパレードを髣髴とさせるような眺めであった。
 サライとファイラの馬車の前で馬を並べて先触れを務めるアトとフェンドリックの顔にも、もちろん立場上大っぴらにはしゃいだりはしなかったけれども、隠しきれない喜びと晴れがましさがあった。
 ファイファからレンティアまでは直線距離にして約二十バル。しかし市内をぐるりと回る形でパレードが行われたので、一行がレンティア小宮殿に入っていったのは正午を少し回った頃であった。
 宮殿の入口にも花綱が掛けめぐらされ、華々しく飾り立てられていた。室内にも、温室育ちの花々が惜しげもなく飾られている。新郎新婦の親族とごく親しい招待客だけでの多少私的な雰囲気を持った昼餐会の後、午後からは他の招待客も加わって、広間に移って披露宴という運びであった。
 その宴はクラインの摂政公とメビウス屈指の大貴族の縁組というだけあって、非常に盛大なものであった。だが先にも述べたように同じ三月の上旬にメビウスではアルマンド公の結婚式があったので、メビウス貴族はそれで二分されてしまった感がある。
 どちらもメビウスで一、二を争う大公爵家である。両家の結婚式が重ならないようにアルマンド家の方では日程を組んでいたのだが、クラインではそんなことはお構いなしに神殿の占いで日が決められていたもので、余裕はあまりなかったのである。そのためメビウスから訪れた客はヴェンド公の縁者が多かったが、それでもクライン側の出席者と比べても勝り劣り無い顔ぶれが揃っていた。
 その中に、サライはかつて見慣れた姿を見つけた。というより、見つけようと特に思わなくても、すぐに視界に入ってきた。
「――アルドゥイン!」
 思わず、挨拶や祝辞を受けるのも飛ばしてサライは声を上げてしまった。紅玉将軍の礼装に身を包んだアルドゥインには、若き将軍の威厳と貫禄とがすでに充分であった。それは見慣れていたはずの彼を、見慣れない人のように見せていた。
「ご無沙汰をしております、カーティス公。まずはご成婚おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。また、このような佳き日に公と再会できたことは、俺にとって更なる喜びです」
 すらりと一礼して堅苦しい挨拶の言葉を口にしながら、アルドゥインは懐かしさと親しみを込めた笑みを浮かべていた。どことなく悪戯っぽいその表情に、身構えかけていたものが一気にサライの中でほぐれていった。
「ありがとう。私も、将軍にこうして再び相見えることができたことを喜ばしく思う。――ところで、ずっとこんな喋り方をしなくては駄目なの?」
「いや、一応の礼儀かと思ったから。お前がいいなら普通に喋らせてもらいたいけど」
 アルドゥインは目立たないようにちょっと肩をすくめた。
「せっかく君とは旧知の仲なのに、そんな他人行儀な言葉を使われるのは寂しいよ。昔のように喋ってくれないか」
「一応お互いの立場ってものがあるだろ。最初から打ち解けすぎてもどうかと思ったんでな。でもお前がかまわねえって言うなら、喜んでそうさせてもらうよ。じゃあ、サライ。改めておめでとう」
「ありがとう」
 二人は笑みを交わしあった。
 サライから少し離れた場所では、ファイラが同様に客人たちからの祝福を受け、挨拶を交わしていた。祝いの場とは言いつつも、身分高い貴族ともなればそれ自体が重要な社交・外交の場となる。
「それにしても、大した出世ぶりだな」
 広間の様子を見回しながら、アルドゥインは言った。
「君こそ。まさかたった一年かそこらで紅玉将軍にまでなるなんてね。最初から、一介の傭兵では終わらないだろうとは思っていたけれど」
「そりゃあ、ずいぶんと俺を買いかぶってるぜ」
 アルドゥインは少々照れたような顔をした。
「しかし運命ってのはわからねえもんだな。二年前の冬、俺は傭兵から騎士になったに過ぎなかったんだし、お前も……」
 言いさして、ふとアルドゥインは言葉を途切れさせた。彼が続けようとした、そこに続くはずだった一つの名を、サライもすぐに悟った。二人が出会ってしまったら、かつてそこにいた三人目の人物を思い出さないわけにはいかなかった。
「……」
 再会の喜びに輝いていた互いの表情がふと曇り、短い沈黙がその間に落ちた。だがアルドゥインは逃げなかった。
「アインデッドとは、どうなったんだ?」
 サライもまた逃げずにその質問を受け止めた。
「……メビウスで別れたよ。君と別れた次の日に。私がクラインに呼び戻されて」
「じゃあ、それからあいつがどこに行って、どうしたのかはお前も知らないんだな」
「ああ。……噂には、聞かないこともなかったけれど」
 その「噂」の内容は二人とも口にしなかった。サライにとっては、それは全て自分が彼を捨てたせいだという思いがあったし、アルドゥインにも決して心楽しいものではなく、口にするのは辛いことであったから。
「それはともかく……。ラトキアのアインデッド将軍っての……あいつだと思うか?」
 代わりにアルドゥインは、また別の疑問を発した。サライは尋ね返すように首を横に振り、彼を見上げた。
「判らない。肖像なんかはまだ出回っていないから……。でもかなり珍しい名だし、まず間違いなく、彼は私たちの知っているアインなのだと思う」
「だろう、な」
 アルドゥインも頷いた。
「まあ、メビウスもクラインも、ラトキアとはそんなに国交があるって訳じゃないから、今すぐ確かめるわけにもいかないが……。ゼーアとしてなら、メビウスの方がまだつながりがあるってもんだけど。例の将軍がアイン本人なのかどうか確かめられるまでにはまだ時間がかかるだろうな」
「そうだね」
 サライはどことなく悲しげに言った。
「もし判ったら、連絡するよ。俺も気になることだから」
「ありがとう。どちらが先になるか判らないことだ、私も約束するよ」
「ああ」
 アルドゥインは力づけるように微笑んで、サライの手を取った。
「じゃあこの話は終わりにしよう。そんな暗い顔をするなよ、サライ。まるで俺が悪いことでも言ったみたいじゃないか。今日はめでたい日なんだぜ? 結婚が人生の墓場だなんて言い出すにはまだ早いってもんだろ」
 サライは思わず、陥りかけた悲哀も忘れて吹き出してしまった。

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