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 仮眠を取ったジークフリートが起きてきたのは、市内のヤナス神殿から正午を告げる鐘が響いた少し後、昼食が運ばれてきたときであった。それまで、サラキュールは腕立て伏せだとか船の上で行っている体操だとかをして過ごしていた。あまりにも暇で、時間を持て余したのである。
 この二旬近く、ほとんど運動らしい運動もしていなかったので、これを機会と思いつくだけ体を動かしていたのであった。おかげで、看守が食事を運んできた時には、軽く汗までかいていた。
 冬の牢内で汗をかくなど、一体何をしているのかと尋ねたかっただろうが、看守は好奇心を飲み込んで物問いたそうな目をしながら下がっていった。ジークフリートを起こして食事を終えた後は、またしても退屈な時間との戦いであった。
「暇ですね」
「暇だな。さっき、遊戯盤を持ってきてくれぬかと頼んだのだが」
「サラキュール様、私たちは囚人なんですよ?」
「欲しいものがあったら言えと申したのは向こうだからな。せっかくの好意なのだから、無駄にしてはならんだろう」
 サラキュールは悪びれた風もなく言った。そしてまもなく食器をさげにきた看守は、彼の要望どおり、遊戯盤を差し入れてくれたのだった。そのおかげで、二人の退屈はいくらか紛らわされた。
「……こればかり延々とやっていてもつまらんな」
 一テルほども遊んでから、サラキュールは呟いた。賭ける物もないし、そんなにやっているとさすがに飽きてくる。
「囚人というのはみなこういうものなのかな。だとしたら、囚人の待遇について少々考えねばならんな」
 サラキュールは腕組みしながら考え込んだ。ジークフリートもそれに倣うように考えにふけりだす。
「そうですね。私たちはこんな居心地の良いところに入れていただけましたけれど、普通の牢はもっと狭くて不衛生だそうですからね。そんなところに、何もできずに閉じ込められていては、おかしくなってしまうかもしれませんね」
 刑罰というと体刑がほとんどで、自由刑という概念がまだあまり発達していない時代である。取調べのために拘束する場所と、懲役を科すために収容する場所の区別もない。それらは一緒くたにされており、取調べは事実上刑罰の一部になっていた。
 また、一般の犯罪者が収容される施設は、大概が日の射さない暗くて狭い牢で、ひどいところでは常に床が濡れていたり、汚物で溢れかえっていたり、敷き藁が腐るままに放置されていたりと、非常に不衛生なものであった。さすがに皇帝の宮殿内でそれはないだろうが、待遇の良し悪しは看守への賄賂の額で決まり、それが払えなければ食事も満足に与えられずに地下牢に忘れ去られて死んでいく、というようなこともままあった。
 そういった詳しいことを知っていたわけではないが、ジークフリートはおぼろげに伝え聞く話と今回のこの経験から、囚人の待遇について自分なりに考えた。サラキュールも同じように考えているようだった。
「うむ……。今度アスカリヒ殿に答申してみよう。いや、アスカリヒ殿よりオーラフ殿かな、北の塔のことなら。だいたい、囚人にただ飯を食わせておくのは国庫の無駄遣いだ。働かせたほうがいい。退屈しのぎに精を出して働くぞ、きっと」
 しかし同じ待遇問題でも、サラキュールだとこういう結論になるのであった。別にサラキュールに限った話ではなく、悲惨な実態を知らない支配者側からすれば、誰でも似たような結論に落ち着くのであっただろうが。
 ともあれ、そうして取りとめのない話をしたり、またゲームをしてみたり、二人はどうにかして退屈を紛らわせた。暇を持て余していると、時間の流れまでがゆっくりに感じられる。簡素な――といっても、恐らく通常の囚人たちが与えられている食事から比べたら格段に豪華と思われる――夕食までの時間も長かったが、これから夜を過ごすのかと思うとさらに一日は長かった。
 やることもないので早々に寝てしまおうか、と話し合っていたときである。
「何だ、今の音は」
 窓枠に、何かがぶつかったような物音がした。軍人であるサラキュールとジークフリートには、どことなく覚えのある音だった。それは木材に鋭い金属が突き刺さる音に似ていた。そしてかすかに、矢羽が空気を震わすのに似た音がまだ響いていた。
「矢の音に、似ているようでしたが」
 二人は首を傾げて、互いの目を見交わした。サラキュールが立ち上がろうとするのを制して、ジークフリートが窓際に寄った。
「危険なものかもしれませんから、私が見ます。どうぞそのままで」
 サラキュールは浮かせた腰を再び椅子に下ろして、ジークフリートの動作を目で追った。窓の掛け金を外して、開けようとした所でジークフリートは音の正体を知った。窓枠に、本当に矢が刺さっていたのである。
「……矢ですよ、サラキュール様」
「誰がそんなものを」
 サラキュールも、確かめるためにジークフリートの傍らに寄り、窓の外を覗き込んだ。その間にジークフリートは手を伸ばして矢を抜き取っていた。飛距離を伸ばすために矢自体は短く、羽を加工してある。そこに細い紙と紐が結わえ付けられている。
 ジークフリートが紙を取り、サラキュールに渡した。読んでみて、サラキュールは呆れるとも訝しむともつかない、何ともいえない表情を浮かべた。
「その紐を引っ張りあげてくれ、と書いてある」
 指し示された紐を、言われたとおりジークフリートはせっせと引っ張った。やがてこつんと硬い感触があり、今度は綱を結びつけた鉤が上がってきた。
「……何ですか、これは」
「どこかに引っ掛けろとでも言いたいのかな。……ああ、これにも紙がついている」
 サラキュールは言いながら、紙を広げた。そこには予想通りの指示が書かれていたので、彼は鉤を窓枠に掛けて固定した。どうやら下では綱が固定されたかどうかを確認しているらしく、綱が引っ張られてぴんと伸びた。ジークフリートがものすごく不審な顔で鉤と綱を見やる。
「これで脱走しろというのでしょうか」
「そんなことをしたら、それこそ一族の恥だ。誰がするか。それに、そんなことをしなくてもいずれ出られるのだぞ」
 サラキュールは憤然と言い返した。
「でしたら、誰が何のためにこんなものを?」
「字はアルドゥインのものだったが……。私に脱走しろというのでなければ、逆のことしか考えられないな。しかし――」
 言いかけて、サラキュールはまさかな、と否定した。二人は窓を開け放ち、鉤と綱をそのままにして、とりあえず何か起こるか待つことにした。そして数分後。
「よう」
 その「まさか」が、明るい声とともに窓の外から顔を出してきた。
「アルドゥイン!」
 サラキュールは思わず大声を出して立ち上がっていた。ジークフリートはというと、声も出ないくらい驚いたようだった。そんな主従の驚きをよそに、アルドゥインは腕の力だけで軽々と窓枠を乗り越え、室内に入ってきた。
「おぬし、壁を登ってきたのか!」
「当たり前だろう。それ以外にどうやってここまで来るんだよ。まさか空が飛べるわけでもないんだし」
 綱を引き上げながら、アルドゥインは何でもないかのように言った。しかし、ここは北の塔の最上階である。天井の高い階もあることを考えれば、ここまでの高さは二十バール以上あるだろう。それを綱一本を頼りに登ってきた、というのである。普通の人間ならとうてい考えられないような荒業だった。
「おぬし一人でか?」
「ああ」
 アルドゥインは頷き、綱をぐるぐると巻いて束ねると窓を閉めた。
「さっきの矢も、おぬしが?」
「そりゃ、一人で来たからな。当然だろう。でもなかなかうまく当たってくれなくて、三度目でやっと命中だ。紐なんかつけてたから、余計にぶれてな」
 的までの距離が二十バールというのは、初心者でなければさして難しいと言うほどのことでもないが、夜闇の中を上に向かって、しかも窓枠という小さな的を正確に射当てるのは確かに容易なことではない。
 それでも、たった二回の失敗だけで済んだというのはかなりの腕前である。サラキュールはこっそりと心の中で舌を巻いた。
(弓の勝負は負けるな……)
 主人と、突然の意外すぎる来客のために、ジークフリートは最初の驚きが去ると同時にてきぱきとアーフェル水を作ってテーブルに並べていた。
「どうぞお座りになってください、アルドゥイン閣下。牢中ですのでたいしたおもてなしはできませんが」
「ああ、これはすまん」
 礼を言いながらアルドゥインは席に着き、サラキュールもまたさっきまで座っていた椅子に戻った。
「こんな危険なことをしなくても、面会を申し込めばよかったのに」
「最初はそう思ったんだが、それは駄目だと陛下が仰せになるんでな。だが、あの後どうなったか知らせてやりたいし、お前も知りたいだろうと思ってさ」
「その心遣いはありがたいが……見つかったらどうする気だったのだ」
「だから日が暮れるまで待ったんじゃないか。それに、こっち側は城壁だけだから、案外警備が手薄でな。割に簡単だったぞ。姿が見えてしまうほどの大きな窓もなかったし」
「簡単って……おぬし……」
 サラキュールは呆れて、今度こそ言う言葉を失った。
 アルドゥインは彼らが投獄されてからのおおよその顛末を語った。サラキュールにはこれ以上のとりなしは無用と言われたものの、アルフォンソはやはり婿が心配で、あの後イェラインの所に直談判をするため押しかけたそうだった。
 そこで全ての事情を知らされて、アルフォンソは今度はなぜ自分をのけ者にしたのか、とイェラインやアルドゥインに食って掛かった。宮廷中を欺くには、ごく親しいものであっても知らせずにいたほうがより真実味が増す、ということはアルフォンソも理解したものの、納得できない感情があったのである。
「……アルフォンソ殿に会うのが怖いな」
 サラキュールはため息をついた。祖父母の小言と乳母のお説教に加えて、覚悟しなければならないものが増えてしまった。
「とりあえず、陛下のお怒りは深く、なかなかお前を出す気にはならない。数日後にラルホーン伯の叛心の証拠が明らかになり、俺たちのとりなしもあって、ようやっとお怒りを解く――と、そんな筋書きだ」
「しばらく北の塔暮らしか。覚悟はしていたのだが、案外これが退屈でな」
 彼の嘆息を聞いて、アルドゥインは何気なく言った。
「それなら、また来た時に何か差し入れようか」
「そうしてもらいたいところだが、やめておけ。何度も見つからずにできることではないぞ。おぬしの図体は人一倍目立つからな」
 呆れられたのは言うまでもない。
「ところで、皇后陛下の方はどうなっておる?」
 つと居住まいを正して、サラキュールは尋ねた。彼がいちばん聞きたかったのは、自分のことよりもそちらであった。
「ああ」
 アルドゥインもおもてを引き締める。
「この後、アティアの刻から水晶の間で極秘裏に尋問を行うことになった」
「そうか……」
 恐らくそのまま、ユナの処遇が決まるのだろう。皇后といえども皇帝と皇太子への暗殺を企てたとなれば、罪は免れない。城の一室か離宮か、そのようなところに一生幽閉されることになるだろう。
「それでは今日中に全ての決着がつくということだな」
「恐らくな」
 アルドゥインは頷いた。
「ラルホーン伯のこともあるから私も立ち会いたかったが……ジークが私に付き合うと言わなければ、ジークに証言させたのだがな」
 サラキュールはちらりと恨みがましそうな目をジークフリートに向けた。ジークフリートもやや拗ねたような顔つきで応える。
「私が出られる場ではございませんでしょう」
「暗殺者は捕らえているし、証言者は他にもいる。そこは心配ない」
 主従の不毛なやりとりが始まらないうちに、アルドゥインは言った。
「知らせてくれてありがとう、アルドゥイン」
「それじゃあ」
 アルドゥインは再び綱を外に垂らすと、それを頼りに降りていった。しばらくして、地上に降り立った彼が手を振って合図したので、鉤を外して落とす。最後まで、北の塔に侵入者があったことは誰にも気づかれなかったようだった。

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