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                                *



 オルテア市内のカミラ伯爵邸。
 イルゼビルは就寝前のひと時、寝室で本を読んでいた。しかし、心はあまり楽しまなかった。
 結婚式まであと一ヶ月というのに、このところ父も兄もオルテア城での騒ぎで慌ただしく、それに婚約者のサラキュールも暗殺事件に巻き込まれて、それどころではない日々が続いている。
 自分にできることは、彼らを見守り、送り出すことだけである。共に剣を取って戦うことは、女の自分にはできない。それがイルゼビルには歯がゆいのだった。
 こつん、と窓に小石のようなものが当たった。気のせいだと思ったが、その音はもう一度起こった。今度ははっきりと誰かが外から窓を叩いている音と判った。イルゼビルは素早く移動し、愛用の細剣を掴んだ。
 小柄で華奢な外見からはとてもそうとは思えないが、彼女の中には紛れもなく武人の血が流れている。剣も幼い頃から兄と鍛えてきた。大抵の相手からなら、自らの手で身を護れる自信があった。
 用心深く窓辺に寄り、剣を鞘から半ば抜いて、イルゼビルは一息に窓を開いた。だが、窓を開けたところに現れた顔に、剣を取り落としかけた。
「サラキュール! 一体どうなさったの、どうやってここまで……」
 イルゼビルは悲鳴を上げそうになり、慌てて自分で口を押さえた。だが、抑えかねた声はいつもよりトーンが高くなっていた。
「塀を登って、この木を伝ってきた」
 こともなげに言い、サラキュールは自分の立っている木の枝を指差した。確かにイルゼビルの寝室は館の二階にあり、窓の下にはちょうどよい具合に塀の傍から樅の木が枝を伸ばしている。この場合、侵入を許した警備兵を責めるべきか、それとも見事に侵入してきたサラキュールを褒めるべきか、イルゼビルはしばし迷った。迷いつつ、とりあえず思ったことを口にした。
「よく警備の者に見つかりませんでしたのね」
 彼女の困惑をよそに、真面目な顔でサラキュールは下を見た。
「うむ。この頃こういうことばかりしておるので勘が戻ってきたようだ。しかし、こうも簡単に侵入できては君が心配だ。アルフォンソ殿に館の警備体制を見直してもらわねばならぬな」
「ご心配なさらなくても、こんなことをなさるのはあなただけですわ、サラキュール。それに、そんなことを言っている場合ですか」
 イルゼビルは呆れた声を出した。
「場合ではないな。ともあれ、この窓際に移らせてもらっても良いかな。決して部屋の中には入らぬと約束するが、枝の上ではなかなか辛い」
「え、ええ」
 頷くと、サラキュールは猫のような軽い身のこなしで枝を蹴り、窓枠に飛び移った。枝が揺れる音がしただけで、ほとんど物音は立たなかった。サラキュールの身につけている紺色の衣装は、まるでこれから夜会にでも行くか、それとも大切な客と会うかのようなものだった。しかし身軽であることを心がけたのか、寸鉄の一つも身につけていない。全くの丸腰だった。
 いくら結婚を間近に控えた婚約者とはいえ、こんなふうに忍んで来るのはあまりにも常識はずれなことである。しかし、浮ついた理由などではないというのはサラキュールの目の暗い光から判った。
 イルゼビルは掴んでいた剣をきちんと鞘に収め、いつも置いてある寝台横に戻してきた。その間、サラキュールはずっと無言で待っていた。
「このような格好ですまぬが、君にどうしても聞きたいことがある」
 紺色の巨大な鳥のように窓枠に留まったまま、サラキュールはいつになく真剣な面持ちで切り出した。
「私が人を殺しても――君は私を愛してくれるか?」
「何を今さら仰っておいでなの」
 少しの間をおいて、イルゼビルは微笑んだ。
「私は武人の妻になるのですもの。あなたが今まで誰も殺したことがないなどとは思っていません。きれい事を言うつもりもありませんわ。これからだって、戦争があればそのようなことはあるでしょう。それに、考えるのも恐ろしいことだけれど――あなたが誰かに殺されるかもしれないことも、覚悟はしています」
「不名誉な殺しをしても?」
 サラキュールは重ねて訊いた。その口調に不安を感じたのか、イルゼビルは怪訝そうな顔をした。
「サラキュール、あなた、何をなさるおつもり?――誰かを、殺すの?」
 イルゼビルの問いに、サラキュールは悔しげに唇を噛んだ。
「カミーユ伯父を殺す。今日、これから」
「なぜ?」
「私に何者かが刺客を送り込んだことは君の父上、アルフォンソ殿もご承知のことだし、君にも打ち明けたことだな」
「ええ」
「その何者かが、カミーユ伯父だ。彼は私を殺して家督を奪おうとした。だから私は家長として彼を討つ。しかし、これは表向きの理由だ。君には何事も隠したくはないし、嘘もつきたくはない。だから本当の理由も打ち明けるが、このことは他言無用だ。父上にも言わぬと約束してくれるか?」
 サラキュールの目の光が、否とは言わせなかった。イルゼビルは無言で頷いた。それを待って、サラキュールは口を開いた。
「――あの男は、皇后陛下の後押しを得るためにリュアミル殿下と皇帝陛下の暗殺計画に加わった」
「何ですって。それは、本当に?」
「ああ。本来ならば反逆罪で捕らえ、しかるべく裁かねばならぬのだろうが、しかし、反逆者を我が一門から出すわけにはいかぬ――だから公になる前に、アルマンド家の内紛という形で私がこの手で葬る。騎士にふさわしからぬ、だまし討ちのような形だ。だがことが公になる前にかたをつけるには、これしかない」
 それを聞いても、イルゼビルは驚きを露にはしなかった。ややあってから、彼女はつぶやくように尋ねた。
「……それを間違ったことだとお思いになる?」
「間違いだとは思わぬ」
 ほとんど間をおかず、意外なほどきっぱりとサラキュールは答えた。
「さりとて正しいことでもないかもしれぬが、一門を守るためにはそうするしか方法がないから」
「それなら、私も間違いだとは思わないわ。私はあなたの信じるものを信じる。あなたが信じるようになさって、サラキュール」
 決然とした面持ちでイルゼビルは宣言した。サラキュールはほんの数秒、呆気に取られたように年若い婚約者を見つめた。沈黙のうちに、思いつめたようだった表情がしだいに緩み、サラキュールはかすかな笑みを浮かべた。
「これほど心強い言葉はないな」
 同じように、イルゼビルは微笑みを返した。ややあって、サラキュールは微笑みを消して呟いた。
「しかし、アルフォンソ殿やルアカール殿は、このような振る舞いをお怒りになるやもしれぬ。あるいは、君との結婚を取り消すと仰られるかもしれぬ」
 それに対し、イルゼビルはまたきっぱりと告げた。
「私は父や兄に言われてあなたと結婚するのではありませんわ。私が、私の意思で決めたことです。あなたに初めて会った、七つのときから決めていましたのよ。両親や兄が何と言おうと、私はあなたと結婚いたします。どうしても反対するのなら、そのままアラマンダへ愛の逃避行と洒落込もうではありませんか。あなたさえその気なら、私はどこまででもついてまいりますわ」
 勢いに任せたような言葉に、サラキュールはまた声を立てず笑った。
「嬉しい言葉だ。――しかし、駆け落ちの必要はないよ。私は、君には誰からも祝福された花嫁になってもらいたい。だから何年かかろうと、必ずお父上を説得する。待っていてくれるね?」
「もちろんですわ」
 頬をかすかに染めて、イルゼビルは頷いた。
「行ってらっしゃいませ。あなたの信じる道を」
「では――」
 言い置いてサラキュールが身を返そうとしたとき、イルゼビルは何かを思い出したように声をかけた。
「少し、お待ちになって」
「?」
 それまで一バールほどあった二人の間を、イルゼビルはつと詰めた。そしてサラキュールの肩に手をかけて、背伸びをした。金色の髪がサラキュールの目の前でかすかに揺れ、吐息がかすめた。小鳥がついばむように、イルゼビルはサラキュールの唇に口づけを落とした。
 イルゼビルが顔を離すと、サラキュールはまるで少年のように驚きに目を見開いて、言葉を失っているようだった。そんな彼に優しく微笑み、彼女は告げた。
「私の決意――お判りいただけたかしら?」
 言葉を失っていたのは数瞬のことだった。サラキュールは恥ずかしげに視線を床に落としたが、再び目を婚約者に向けた。
「ありがとう」
「ご武運をお祈りいたします」
「では――」
 サラキュールは窓枠を掴んで、軽く足場にしていた枠を蹴った。するとその姿は闇に溶けたように飲み込まれ、枝がかすかなざわめきを立て――そしてそれきり、気配は感じられなかった。
 イルゼビルは祈るように両手を胸で組み、しばらくそうして立ち尽くしていた。
 カミラ伯爵邸の傍の路地では、ジークフリートが主人の馬を押さえて待っていた。素早く駆け寄ると、サラキュールは無言のまま騎乗した。すかさずジークフリートは預かっていた剣を手渡した。
「姫は、何と」
「信じる道を行けと、快く送り出してくれた。――私にはもったいないほどの女性だ」
 照れもせず、彼は言った。これほどはっきりとイルゼビルを他人の前で褒めるのは、彼にしろ滅多にあることではなかった。
 そのまましばらく無言で、二人は馬を駆った。目指すはカミーユが滞在している、フリアウル候の別邸である。これはアラマンダ公の別邸と同じように、オルテアの郊外にある。馬を急がせても、二十分はかかる。
「すまなかったな、ジーク」
 サラキュールはぽつりと呟くように言った。ジークフリートは不思議そうな顔をしてサラキュールを見た。
「何を謝られることが?」
「父を殺されながら、その事実を伏せさせていた、そのことだ。おぬしの父がアルマンド家に仕えていなければ――そうでなければ、しかるべき報いをもっと早く受けさせることもできたのに」
「そのようなこと」
 ジークフリートは笑った。
「サラキュール様も同じではございませんか。それに、十一年前にこの事をお知りになられたとき、黙っておられればよかったのに、私にも事実を教えてくださいました。そのことには感謝しております。私には何の辛いこともございませんでしたよ。父はおのれの務めを最期まで果たしたのでしょうから」
「そうだろうか?」
 サラキュールの言葉は心なしか頼りなさげだった。
「アルマンドの当主のためならば命も捧げる。それがレユニ家の誇りです。私が同じ状況にあっても、自分一人生き延びようとは思いません。サラキュール様をお守りするために命を捧げることでしょう。ですから、そんなふうにサラキュール様にお辛い思いをさせてしまうことの方が、私には心苦しく思われます」
「そうか。ならば、そう思うのはやめにしよう」
「それに、耐える日々も今日で終わりなのでございましょう?」
 サラキュールは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私が返り討ちになど遭わなければな」
「ご冗談を。そうしたら、私が主人の仇を討たせていただきますよ」
「それこそ冗談を申すな」
 二人は低く笑った。
 フリアウル候の別邸が見えてきた。馬の速度を落とし、彼らは再びおもてを引き締めて向かっていった。

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