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     誰に恨まれようと 私の愛は あなたのもの
     変わらない どんなに時が流れようと
     他の人に恨まれても 私は平気
     でも 愛しい人 私の胸を引き裂いたのは あなた
                      ――カミラ地方の恋歌




     第一楽章 クオドリベット




 オルテア城の北端にひっそりと建てられている北の塔は、クライン城のドヴュリア塔やベルティア塔と同じく、牢獄として使用されている一角である。その中には牢だけではなく、尋問を行う部屋も設けられている。
 今回、アルドゥインが入っていったのもそういった部屋の一つであった。建てられた約二百年前の当時からほとんど改装されていないらしく、窓はきわめて小さく、壁の隙間といった感じで、ガラスも入っていないので風が吹きぬける。それを防ぐために壁掛けをかけてある窓もあったが、ほとんど役に立っていなかった。いかにも牢獄、拷問所といった雰囲気で昼中なのに室内は薄暗く、すすで黒ずんだ漆喰の壁や石造りの天井の凹凸が揺らめく蝋燭の明かりで不気味な影を作っていた。
 すでに部屋の中では、ギウリアが両手首を枷につながれて立たされていた。年は四十前後、目立たない風貌の小柄な女だった。腕は上げさせられて、枷は縄で天井の鉤にひっかけられている。長さを調整すればそのまま吊るせるようになっているのだ。
 女の事なので素裸にされるようなことはなく、肌着だけは着用を認められている。部屋には一応暖炉とストーブがあるが、それでも寒さがこたえるはずである。唇が紫色になっていた。
「どうだ、何か喋ったか」
 アルドゥインが尋ねると、刑吏は首を振った。彼らはギウリアの本当の罪状を知らされている。
「いいえ何も」
「そうか」
 ギウリアはこのやりとりの間も、じっと貝のように黙りこくって男たちを見ていた。いくら黙っていても、いきなり拷問にはならない。まず質問し、答えなければ拷問具を見せてもう一度質問する。つまりこれで答えなければ拷問する、ということである。それでも答えなければ初めて行われるものなのだ。
 アルドゥインは拷問という手段はあまり好きではなかった。好きではない、というより嫌いであった。暴力と恐怖で人を屈服させるというのが、どうしても野蛮で受け入れがたいのだ。しかし、時と場合によっては彼も手段を選ばなかったし、どんなに野蛮だろうが血なまぐさかろうが、有効な手なら決して厭うものではなかった。
「ギウリア、どうして自分が捕らえられたのか判っているだろう?」
 尋ねてみたが、ギウリアは黙っていた。
「お前が運ぼうとしていたスープの中に毒が入れられていたと、さっき判ったぞ。それに、お前が持っていたあの瓶。中はテイリアの毒だった」
 毒についての調べが済むまで、尋問は待っているようにとアルドゥインは命じて、さっきまで宮廷医師たちのところで検分に立ち会っていたのである。この毒をアルドゥイン自身は盛られたことがなかったが、例の毒見役にした暗殺者から仕入れた知識として知っていた。
 テイリアの樹皮や、特に新芽を覆う包皮に含まれている毒はあまり広く知られているわけではないが、頭痛や関節痛をもたらし、四肢の麻痺を進行させてやがて死に至らしめる毒物である。解毒剤はこれといって無いものの、摂取をやめれば次第に毒が排出されて元の体に戻れるので、宮廷医師たちも、もちろん盛られた本人のイェラインもほっと胸を撫で下ろしていた。
 この毒を入手するのは一般人には難しい。テイリアの原木はロスあたりの熱帯気候でなければ育たないからだ。各国の様々な毒物を網羅しているというユナ皇后ならこそ使える毒だと、アルドゥインは確信していた。それでも一応確かめておこうと、毒の入った瓶をギウリアの目の前にかざして尋ねる。
「これは珍しい毒だ。メビウスでは簡単に手に入るものじゃない。どこでこいつを手に入れた。それに、いつから陛下に毒を盛っていた?」
「……」
 この質問にも、ギウリアは答えなかった。
「あまり、ご婦人を痛めつけるのは好きではないのだがな……」
 はあ、とため息をついてアルドゥインは言った。
「では拷問いたしますか」
 もう一人の刑吏が笞を取った。
「そんな物は使うな。仮にも女性だ。玉の肌に瑕がつくだろうに」
 刑吏たちの顔は何を悠長なこと言うのか、と言いたげであった。それに、玉の肌というには年が行き過ぎている。アルドゥインは彼らを制しておいてからギウリアの正面に立った。二人の間は一バールほど空いている。
「お前が皇后陛下に飼われている毒使いということはすでに判っている。どうせこの毒も皇后陛下から下されたものなのだろう。だからそれに関しては今は措いておこう。さっきの質問もとりあえず忘れろ。今俺が知りたいのは、リュアミル殿下に送り込まれた刺客の名前だ。知っているなら素直に言え。知らないなら知らないと答えればいい」
「……」
 ギウリアは沈黙を通した。
「答える気はないか」
 もう一度アルドゥインが尋ねたが、沈黙は続いた。
 その次の瞬間だった。
「ひっ!」
 ギウリアが短い悲鳴を上げた。さっきまで鞘に収まっていたはずのアルドゥインの剣が抜かれていた。ギウリアの肌着の胸が斬られていたが、肌には一筋の傷もない。間近に見ていた刑吏たちにも一瞬何が起きたのか判らないほどの早業であった。
「もう一度聞くぞ。リュアミル殿下のもとに送られたのは、どこの誰だ。お前の仲間のセオドリウスとやらはもう全てを喋ったんだ。お前一人が黙っていても無駄だし、得なことは何もないぞ」
 それでも答えなかったのは、ギウリアにも暗殺者としての誇りがあったからなのだろう。でなければアルドゥインほどの戦士の気迫に対して沈黙を貫ける女はそうそういなかったはずである。
 再び、銀色の線が宙を舞った。今度は上げられた腕の辺りをかすめる。その瞬間焼け付くような痛みをギウリアは感じた。今度こそ斬りつけたのか、と刑吏たちはギウリアの腕を見たが、傷は見当たらなかった。アルドゥインは驚くほどの正確さで、皮膚だけを切ったのである。刑吏たちはこの鮮やかな剣技に息を呑んだ。
「言っただろう。ご婦人の肌に傷をつけるのは趣味じゃないからな。この程度なら痕は残らんはずだ。しかし――痛いことは痛いだろう」
 思わず自分の腕を見上げようとしたギウリアに、アルドゥインは薄く笑った。普段の彼を見知っているものならぎょっとするほど冷たい微笑であった。ギウリアとて例外ではない。背中を冷たいものが通り抜けるのを感じた。寒さで青ざめていた顔から、さらに血の気が引いていく。
「こういう傷は、血は出ないがその分腫れてひどいことになるぞ。全身を腫れあがらせたいか?」
 また剣がひらめき、さっき斬られた腕の少し下に痛みが走る。
「それとも、一生残る傷がつくとか、もっと痛いほうがいいか? 人間とは案外強いものでな、手足を全部切り取っても生きていられる。まあ――手当の正確さ次第だが。お前たち、止血くらいはできるな?」
 振り返って告げた最後の一言は刑吏たちに向けられたものであった。彼の迫力に凍りついたようになっていた刑吏たちは、慌てて頷いた。拷問するにも死なせてはならないので被疑者の体力や傷の具合を見る必要から、刑吏には多少の医術の心得が求められているのである。
「止血と応急処置はできますが……医師を呼んだほうがよろしいでしょうか」
「それはどうなるか判らんが、今はいい」
 刑吏たちに一旦目を向けたが、アルドゥインはすぐにまたギウリアに向き直って話しかけた。
「鼻を削ぐのも痛いらしいが、命には何の別状もない。多少、見苦しい顔にはなるだろうがな」
 言いながら、剣先を彼女の鼻の付け根に当てる。もちろん傷などつかないようにだ。最初張っていた虚勢も、喋ってなるものかという強い意思の表れも消え失せて、ギウリアの目はいまや完全に怯えの色を浮かべていた。
「さあ――どこを削いでほしい? 鼻か、耳か。それとも皮一枚だけ切るか」
 アルドゥインは剣を引き、ゆっくりと刃を指先でなぞった。ギウリアを正面から見据えているのは、戦場であっても滅多に見せることのない、冷たさと殺気を奥に隠した闇のような瞳だった。どんな過酷な拷問よりも、その目に見つめられる方が恐ろしいと、見たものなら言うだろう。ギウリアとて例外ではなかった。
 再びアルドゥインは腕を挙げて、刃先をギウリアの耳に当てた。一気に切り落とすことはせず、慎重に刃を下ろしていく。やがてぷつりと小さな音がして、細い血の筋が彼女の頬に滴り落ちた。
「や……やめて……」
 ギウリアは喘いだ。その目は恐怖に見開かれていた。皮と、ほんの少しの肉を切ったところで剣がぴたりと止まる。
「では質問に答えろ。リュアミル殿下に送られた刺客の名を言え」
「モ……モルナという娘です。私と同じく、ユナ様にお仕えしておりました。……今は、皇太子殿下に……」
 もつれた舌をほぐすような口調であった。
「お前とそのモルナ、それ以外に暗殺者はいるのか? 他に狙う者は?」
 耳に剣を当てられたままなので、ギウリアは身振りを示さなかった。
「……いいえ」
 それですっかり観念したように、ギウリアは自らの出自から全てを語った。
「閣下の仰るとおり、私は毒を飼うことをもってユナ様にお仕えするものです」
 ユナ皇后の生家ハークラー侯爵家は、元来宮廷侍医であった家系である。現在も次男以下は医者になるのが慣例となっている。もともと薬と毒は使い方次第でどちらにもなる、表裏一体のものである。自然、ハークラー家の人間が薬物に精通するようになっていったのも無理からぬことであった。
 そして、この知識を使って、彼らにとって都合の悪い人間を始末するための道具を育てることを先祖の誰かが思いついた。以来、侯爵の屋敷で養育される孤児たちの幾人かは、ハークラー家の暗殺者となるために育てられるようになった。ギウリアはユナの輿入れの際に、彼女専属の毒使いとしてついてきた。
 もう一人の毒使いモルナも、サラキュールの元に送られたセオドリウスも、出身はブランベギンで、同じように子供の頃から侯爵家に育てられ、彼らに忠誠を誓うものなのだという。
「とんでもない連中だな」
 誰が、とは言わなかったが、軽蔑したような面持ちで、アルドゥインは剣を軽く拭って鞘に収めた。
「紫晶殿のモルナという女を至急手配して捕らえろ。この女は沙汰があるまで牢に入れておくように。ああ――誰か耳の手当てをしてやれ」
 刑吏たちを振り返り、短く命じる。彼はそれきり、傷ついて震える女には目もくれずに踵を返した。遠く、市内の方から鐘の音が聞こえてきていた。時刻はまだ正午であった。長い一日はまだ始まったばかりと言えた。

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