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                                 *



 やっと全ての縄を解き終わって、ジークフリートは手を貸してセオドリウスを立たせてやった。血行が滞っていた所もあったようで、ふらついていたのである。地下通路や地下室の位置を覚えられては困るので、セオドリウスには目隠しをかけた。
「私たちも戻るぞ、ジーク」
「はい」
 セオドリウスを間に挟んで、二人は秘密の地下室を出た。空井戸を縄梯子を頼りに上がると、外は真夜中になっていた。屋敷の手前まで連れていってから目隠しを外して、戻るように告げると、セオドリウスは叩頭しかねない勢いでサラキュールを拝み、一目散に走っていった。
「本当によろしかったのですか?」
「もし屋敷の外に監視者がいたら、あやつがいなくなったら私が感づいたと知られる。そうなれば欺くことができなくなるだろう」
 そこまでは考えていなかったジークフリートは、納得して頷いた。屋敷に戻るのに、二人はまた空井戸の地下通路に降りていった。そこからサラキュールの部屋までは秘密の通路でつながっているのである。
 部屋に戻ると、サラキュールは慎重に棚を元の位置に戻して入口を隠した。出る時に部屋には鍵をかけておいたので、誰も彼がいなくなっていたことには気づいていないようだった。
 ベッドに腰を下ろしたサラキュールに、ジークフリートは命じられる前にアーフェル水を差し出した。生まれたときから共に暮らしているのだ。主人が何を求めているか、何をしてほしいか、その程度のことは言葉がなくても判る。礼を言いながら受け取って一口飲んだ後、サラキュールは苦いため息とともに言葉を吐き出した。
「あの、馬鹿者めが」
 限りなく静かな口調であった。
 それが誰に向けられた言葉であるかは、尋ねなくとも判った。
 アリアガは刺された時、たくらみはサラキュールだけでなく、リュアミルとイェラインにも及んでいると告げた。セオドリウスもそう言った。彼の仲間は今リュアミルとイェラインのもとに送り込まれて、暗殺の機会を窺っているのだと。
 カミーユに手を貸し、彼がアルマンド公の地位を奪ったあかつきにはその後ろ盾を得てパリスを皇太子にし、さらには帝位につかせたい人物――もはや推測でも何でもない。首謀者はユナ皇后であった。
 カミーユが一人で自分を狙っているのなら、話はそう難しくもなかった。それなら一門の内紛としてイェラインに調査と仲裁を願い出て、処分を決めてもらえばいい。だが、それが皇家に対する反逆にも関わってくるとなると、途端に微妙な問題になる。
 表沙汰にしてしまうと、カミーユ一人だけの罪ではなく、その累は一門全体に及ぶ。それだけは、サラキュールとしてはどうしても避けたかった。アルマンドの家長として、彼は一族を守らねばならないからだ。
「いかがなさいますか、サラキュール様」
「決まっておろう。生かしてはおけぬ」
 きっぱりと彼は答えた。
「カミーユ伯父は殺す。むろん、方法は考えねばならぬが」
 グラスを両手で包むように握り、サラキュールはかすかに微笑んだ。
「明日、もう一度屋敷を抜け出して陛下にお会いする。この事をご報告申し上げねばならぬし、カミーユ伯父を処分する方法についてもお伺いを立てねばならぬからな。手筈を整えておいてくれ、ジーク」
「かしこまりました」
 ジークフリートの面持ちはかたいままだった。そんな彼へ、サラキュールは微笑みかけた。先ほどまでの怒りを隠すためのものとは違い、やわらかな表情だった。
「あまり心配するな。アルマンドの名は守る――絶対にだ」
「それは当主の務めでございましょうから、私には何も申し上げることはございません。ただ、あなたが無茶をなさらないか心配です」
 サラキュールが飲み干してしまった空のグラスを差し出すと、それを受け取りながらジークフリートは素直に答えた。
「だから、心配するなと言うに。無茶はせぬ。保身も当主の務めだからな」
 このやりとりで、サラキュールの気分はいくらかほぐれたようだった。
「明日はまた、忙しくなる。用事が済んだらおぬしももう休め」
「はい」
 机の上のグラスや水差しをちょっと片付けてから、ジークフリートは部屋を後にした。残されたサラキュールはなおも考え込むような顔をしていたが、やがて顔を上げ、明かりを消した。
 翌日。
 まだ屋敷中の者が寝静まっている夜明け頃、アルメニーの屋敷から出て行く人影があった。フードつきのマントに身を包み、顔を隠して、オルテア方面へと馬を矢のような速さで駆ってゆく。その人は紅玉将軍の公邸にたどり着くと覆面を外し、門番に開門を求めた。早朝であったが、即座に門が開けられた。
「どうした、こんな朝早く」
 叩き起こされたらしいアルドゥインは、客間に入ってきた時にはすでに頭もはっきり目覚めているようだった。相変わらず動物みたいに寝起きのいい奴だな、とサラキュールはつくづく感心した。
 一応着替えはしたがはだけたままのシャツだとか、明らかに寝巻きの上に羽織るらしいガウンをそのまま着ている姿はお世辞にもきちんとしているとは言い難かったが、その点については叩き起こさせた側である手前、何も言わなかった。
「昨日知らせてもらった件か」
 サラキュールは頷いた。
「ああ。刺客の雇い主が判った。そやつの同業者の名前も」
 また苦々しい気分と怒りを思い出してサラキュールは険悪な目つきになったが、しかし考える時間はあったのでだいぶ落ち着いており、そこで黙ってしまうことはしなかった。
「この前カミーユ伯父の話をしただろう」
「ラルホーン伯だな」
 何でそこでその名前が、というようにアルドゥインは首を傾げた。
「雇い主の一人は彼だ。もう一人は皇后陛下」
「何だと」
 今度こそ本当に驚いて、アルドゥインは思わず立ち上がりかけた。サラキュールは落ち着くように言い、昨日セオドリウスから聞きだした話をもう一度繰り返した。最初驚いたアルドゥインは、次には目に怒りの色を浮かべ、最後には青ざめた。といって、もともとの顔色のおかげで劇的な変化があったわけではなかったが。
「それで、お前……どうするんだ。こんなことが公になったら……」
 事が事だけに、被害者であっても、同時にラルホーン伯を一族に数える当主のサラキュールにも累が及ぶ可能性がある。
「それで私も困っておる」
 サラキュールは素直に認めた。
「我が身内ながら、愚かな男だ。狙うなら私一人を狙えばいいものを、何ゆえそんな大それたことにまで手を出すか……」
「では表沙汰になる前に殺すしかないな」
 恐ろしいまでにきっぱりと、しかもあっさりとアルドゥインが提案した。サラキュールも頷いただけだった。
「私もそれしかないと思う。こうなると、伯父の同盟者が皇后陛下で逆に助かったのかもしれぬ。皇后陛下ならば、その罪を明らかにせずに逼塞させるなり幽閉するなりできるからな。伯父の罪を伏せるにも比較的簡単に手が回せる」
 この苦境を楽しむかのような笑みが、サラキュールの唇に浮かぶ。だが、決して楽しんでなどいないことが、その身を包む空気から判った。
「どちらから先に処理するかが問題になるな」
「それは今日、このことを陛下にご報告ついでに相談申し上げようと思っている。おぬしも付き合ってくれ、アルドゥイン」
「ああ、むろんだ」
 アルドゥインはにこりと笑い、頷いた。着替えてくるからと言い残して部屋を出ようとした彼は、ふと思いついたように付け足した。
「出仕までまだあるから、少し眠っておけ。どうせあまり寝てないだろう。それから一緒に飯を食おう。もちろん、毒が入ってないのをな」
「お言葉に甘えさせてもらおう」
 サラキュールも笑って返した。
 それから数時間後、アルドゥインは珍しくも馬車でオルテア城に向かった。サラキュールがそこに隠れていたのは言うまでもない。顔をよく知られている彼が誰にも見咎められずに城に入るためには、色々と手立てを講じなければならなかった。
「こそこそ隠れて、何だか悪いことでもしておるみたいだな」
 馬車に揺られながら、サラキュールはぼやいた。彼はジークフリートから借りた目立たない地味な服に身を包み、これはあまり似合っているとは言いがたかったがカラマンから拝借した片眼鏡まで着用に及んでいた。
 しかし身についてしまった物腰はそうそう簡単に抜け切るものではなく、そうして座っているだけなのに何となく目をやらずにはいられない存在感がある。それには彼の美貌も大いに関係していただろうが。
(サライとかアインもそうだったけど、悪い意味でもいい意味でも目立つよな、サラキュールは)
 アルドゥインは感心するでもなく、そんな友人の姿を眺めた。他人事のように考える自分もまた、少しばかりでは済まないくらい目立つ人間だということを彼は自覚していなかった。
「城に入るまではいいけど、そこからどうする?」
「細作用の通路を使わせてもらう。そこからなら誰にも見られずに城内を移動できる」
「へえー……」
 知らなかった、とアルドゥインは呟いた。一定規模以上の城になれば隠し部屋や、そういった秘密の通路が設けられているのは当たり前といってもいいが、城の主以外には知られてはならないはずのものである。
「そんな場所まで知ってるなんて、さすがだな」
 感心しながら言うと、サラキュールはこともなげに首を横に振った。
「いや、いくら私でもそんな秘密を教えていただいたわけではない。子供のころ、リュアミル殿下とパリス殿下のお二人と一緒に、宮殿内を探検していたときにたまたま見つけたものだ。陛下だって多分、私が知っているとはご存じあるまい」
 アルドゥインが呆れたのは言うまでもない。
「……だったら、そこから入るのはまずいんじゃないのか?」
「緊急事態ゆえ、どこから現れてもお咎めなきようにとお願いしておいた。おぬしからも申し上げておいてくれぬかな?」
 サラキュールの返事に、アルドゥインの呆れ顔はしばらくそのままになっていた。
 そんなわけだったので、水晶殿についてからアルドゥインとサラキュールは別れ、一方はいわゆる「たまたま見つけた」隠し通路から、一方は正面玄関から宮殿内に入っていったのであった。
 アルドゥインはすぐに皇帝への謁見を求めたが、朝見前であるのにその許可はすぐに下りた。朝一番にサラキュールがジークフリートをやって、手筈を整えておいてくれたのである。
「どうぞ、こちらへ」
 侍従に案内され、まだ入ったことがなかった部屋に案内された。どういう基準で選ばれたのか知らないが、個人的な謁見用に使うらしい、広間にしては少々狭い、かといって部屋というのもちょっと広すぎるような一角であった。
 しばらく一人で待たされていると、イェラインが入ってきた。
「お早うございます、陛下」
「おはよう、アルドゥイン。サラキュールはどこだ? 従者の話ではそなたと共に参るとのことであったが。この場所もあやつがどうしてもここでと申したのだが、まだ来ておらぬのか」
 きょろきょろと辺りを見回すイェラインに、アルドゥインは少々背中に冷や汗をかきつつ答えた。
「それが……人目につきたくないと言うので、別に参りまして。どこから現れても、どうかお咎めのないようにと申しておりました」
「は?」
 イェラインは当然のように首を傾げて、では天井からでも出てくるのかと言いたげに天井を見上げ、ついで部屋中を見回した。その時である。
 一見すると何の変哲もない壁に見えるはずの一角がかすかに動いた。よく見ると人が一人屈んでやっと通れるくらいの大きさに、壁に切れ目が入っている。それがドアのように開いた。そして、姿を現したのはサラキュールであった。

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