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 セオドリウスが意識を取り戻した時、周りの風景は一変していた。
 見回してみると、あまり広くない部屋のようだった。窓のない、重苦しく天井の低い石造りの部屋だ。何となく湿っぽく、冷えた空気の感じからすると、地下のようである。床も煉瓦を敷き詰めたもので、とにかく寒い。
 明かりとしてランプが天井から二つ吊り下げられ、小さな台にもう一つ、手提げランプが置かれていた。その台と自分が座らされている椅子の他には、壁際に粗末な椅子が二つ並んでいるほかに家具らしいものは何ひとつ見当たらなかった。
 セオドリウスはこの部屋の真ん中辺りに据えた椅子に座らされ、身動き一つできないように厳重に縛り上げられていた。燃料倉で気絶させられてから運び込まれ、拘束されたらしいということが飲み込めた。座った格好でずっと動かずにいたせいか、首の筋がこわばっていた。
 彼を拉致して監禁した犯人らしい男が、暖炉に火をつけている最中だった。ここからではその濃い栗色の髪しか特徴は判らない。彼が身じろぎしたのを気配で感じたらしく、顔を上げて立ち上がる。
「――やっと気がつきましたか」
 その顔にはセオドリウスも見覚えがあった。名前までは覚えていなかったが、アラマンダ公といつも一緒にいる従者である。セオドリウスの顔を見て、彼が何を言いたいかを察したらしい。ジークフリートは口元に笑みを乗せた。そしてセオドリウスの口をずっと塞いでいたさるぐつわを外してやった。
「色々聞きたいこともあるんでしょうが、この状況を見れば大体判るでしょう」
「……」
 長い間口を塞がれていたので、口中が乾いて仕方がなかったし、唇も痺れたようでうまく動かない。それでもセオドリウスは何とか唾を飲み込み、口を動かせるだけの湿り気を取り戻そうとした。
「あ、あなたはたしか……アルマンド公の……」
 捕まったら喋るな、自決しろというように教えられているのだが、自決しようにも身動きできない状況では何もできない。大抵の仲間がそうするように、奥歯に毒を仕込んでおけばよかったと後悔したが、後の祭りであった。
「ああ、私の名前を知らないんですか」
 ジークフリートはびっくり顔の刺客を見下ろした。
「知らなくても別にいいと思うんですが、まあ一応教えてあげます。私は……」
「ジークフリート・デ・レユニ。私の乳兄弟で、ゆくゆくは家令になる男だ」
 ふいに別の声がした。セオドリウスはびくっとしたが、ジークフリートは落ち着き払っていた。彼の待っていた人物だったようだ。彼はさっと身を返して、訪れた人物を迎えに戸口に近づいた。
「標的の周囲の人間の名前と行動くらい、把握しておいたほうがいいぞ。次はもう無いであろうがな」
 人目を忍ぶように黒のフード付きマントで体を包んで、静かに入ってきた青年に、セオドリウスは目を丸くした。彼が毒を盛り、床に伏せっているはずの人――そろそろ死も間近のはずの人物――サラキュールである。
「な、何で……」
 驚きのあまり、それ以上の言葉が出なかった。
「サラキュール様、ここに来たことは誰にも見られておりませんね」
「ああ。邸内を歩くと誰ぞに見られると思ったので、抜け道を通ってきた」
「さようですか」
 この会話を聞いて、セオドリウスが更に信じられないものを見るような顔をしたのは言うまでもない。公爵の部屋は三階にある。そこから抜け出すなど、毒で体力が落ちているはずの人間にできる芸当ではない。考えられることは一つ、毒が効かなかったということ――つまりは失敗していた、ということである。
「幽霊でも見たような顔だな」
 かすかに皮肉っぽい笑みを浮かべて暗殺者の青年を見ながら、サラキュールはジークフリートに脱いだマントを手渡した。ジークフリートはマントをていねいに畳み、壁の鉤にかけた。
「無理もございませんよ。何も気づいていなかったようですから」
 突然捕まえられて、気がついたら縛り上げられて場所も判らない一室に監禁されており、ただでさえ訳が判らないところに、彼の認識では死も間近のはずの人間が健康そのものの姿で現れたのだから、彼の混乱も推して知るべしであった。本人としては一所懸命、状況を把握しようとしてはいたのだが。
「ふうん。案外若いではないか。私たちよりも年下なのではないかな」
 サラキュールはセオドリウスの顔をしげしげと観察した。その視線が何か肌に刺さりでもするかのように、セオドリウスは身を引こうとした。
「おぬしが私に聞きたいことは大体判るぞ。何でそんなに元気なのだ、とか、ここはどこだ、とか、そういうことであろう?」
 図星であることをずばずばと言われて、セオドリウスは顔をこわばらせた。若きアラマンダ公爵は彼の表情の変化を楽しんでいるようだった。
「こちらもおぬしに質問するのだ、答えてやろう。私とて、もとから気づいていたわけではないのだ。たまたま、アルドゥインが毒に気づいてくれただけでな。それで刺客を捕まえるのに一芝居打ってやろうと相成ったわけだ。それから、ここは屋敷の地下、当主しか知らぬ隠し部屋の一つだ。他に入ってこられるのはお祖父様だけだが、あのご老人がいくら元気でも、もうここまで来るのは無理であろうな。つまり邪魔は入らぬ。ゆっくり付き合ってもらおう」
「……」
 呆れてものも言えないとはこの事であった。それはべらべらと事情を話すサラキュールに対してでもあり、彼の病の演技に騙され、うかうかと捕まってしまった自分に対してでもあった。
「さて、ではさっそく尋問と参ろうか。おぬしには聞きたいことが山ほどある」
 軽い調子で言い、サラキュールは壁際から椅子を引きずってきてセオドリウスの正面に置き、そこに座った。ジークフリートはセオドリウスの斜め前に立った。
「私を殺せと、誰に命じられた?」
 質問に、セオドリウスは沈黙で応じた。驚いたあまりさっきはつい声を出してしまったが、こうなったら黙っているより他ない。サラキュールは呆れたような表情を浮かべて肩をすくめた。
「口を割らせるには少々手荒な手段も必要かな、これは」
「血を流させるようなことはしたくありませんが」
 ジークフリートは抑揚のない声で言った。
「君も、自分の血を見たいとは思わないでしょう?」
 問いかけられたが、セオドリウスは口をつぐんだままでいた。何か喋りだすかと、二人はそのまま三分ほど待った。だが、一言も言葉は出なかった。ジークフリートはため息をついた。
「強情も程々にしたほうが良いですよ、セオドリウス。私は決して気の短いほうではありませんが、我慢にも限界があります」
「喋ったほうが身のためだと思うぞ。こと私の敵に関しては、ジークは手加減を知らぬ男だからな。痛い死に方は嫌だろう。だが私は、お前を殺してしまうつもりはないのだ。できれば五体満足でいてもらいたいのだが……」
 少し離れたところに座っていたサラキュールが口を出したが、ジークフリートが振り返ったので言葉を切った。
「それはこの男次第でございますよ、サラキュール様」
 彼の茶色の瞳がセオドリウスをじっと見つめた。近くで見ると、わずかに若草色の星のような斑が散っている瞳だった。しかし、そんな観察をしている余裕がセオドリウスにあったわけではない。それが向けられた本人ではないのに、サラキュールが口をつぐんでしまったほどの殺気が篭もった目であったのだ。向けられているセオドリウスには直視すらできなかった。
「私が血を見る勇気もないと誤解しているみたいですが、それは違いますよ。別に君に少々どころでなく痛い目を見せるのは構わないんです。ただ単に、服とか床が汚れるのが嫌なだけで」
「床など掃除すればいいではないか」
「掃除する側の身にもなってくださいませ。サラキュール様が掃除をしてくださるなら結構ですが、ここまで水をお運びになる気力はございますか? それに、こんな閉め切った水はけの悪い所では臭いが残ります。更に申し上げれば、血が服についたら何と言い訳なさるつもりですか。いい年をして鼻血でも出されますか? 時間が経つと、血は落としにくくなるんですよ。湯では落とせないから水でしか洗えませんし。この寒い中洗濯する者の苦労も考えてください」
 ジークフリートはぴしゃりと言った。サラキュールは叱られた子供のような顔をして、渋々引き下がることにした。一方、セオドリウスはそんな場合ではないのに、この主従のやりとりに軽く目眩を感じた。どう考えても、暗殺者を尋問する態度ではない。少なくともこのアラマンダ公爵には世間話程度のつもりしかないのではないか。そう思えてきたのである。
「判った。では血が出るような方法はやめておこう。喋る気になるまで逆さに吊るしておくか?」
「それでは舌が腫れて、ろくに話せなくなりますよ。大体、人を吊るせるほどの鉤は台所にしかございませんし」
 事務的な口調でジークフリートは答えた。経験があるかのような口ぶりである。
「そこの棒で殴るか」
 と、サラキュールは扉の脇に立てかけてあるかんぬきらしき棒を指した。しかしジークフリートは首を振った。
「そんなものを振り回したら、天井に当たります」
「爪を剥がす」
「だから、血が飛ぶのはよしましょう。せめて爪の間に針を刺すくらいですね。でも、針も串も持ってきていませんので、今は無理です。持ってきますか?」
「いや、時間が惜しい。別の方法を考えよう」
 サラキュールは難しい顔をした。
「血があまり出ぬようにと言うと、かなり限られてくるな……。拷問に穏便も何もないからな。ううむ……。前に海賊を捕らえたとき、隠れ家を吐かせるのに髪の毛を一本ずつ抜いてやったが」
「ああ、あの時の……。薄くなったところを綺麗に無くしてやりましたね」
 ジークフリートはにべもなく切り捨てた。
「あれは効いたが、こやつも髪を惜しがるかな」
「若いから、何とも申せませんけれど」
 もしセオドリウスの両手が自由になっていたら、彼は自分の頭を覆って隠していたことだろう。
「ふむ――とろ火で足をあぶるのはどうだろう」
「それなら大丈夫です。ちょうど暖炉に火も入れましたし、大声ならいくら出されてもかまいませんから」
 サラキュールは縛られたセオドリウスの足をちらりと見ながら言った。ジークフリートも今度は頷いた。
「そうだ、サラキュール様。質問に黙るごとに骨を一本ずつ折っていくというのはどうでしょう?」
 にっこりと笑いながら、両手で何かを折る仕草をして実に楽しげにそんなことを言う。血を見たくないと言ったのは、彼が小心者であったり、人を傷つけるのを好まない優しい性格だからなのではなくて、本当に掃除や洗濯が面倒になると思っただけなのだ、とセオドリウスは納得した。そんな納得などしたくなかったが。
「ああ、それなら血は出ないし、痛いことこの上ないな。で――手足の指で二十本、腕と脚で八回はいけるか。関節を外すのもいいな」
 頭の中で折る箇所を勘定してから、サラキュールが言った。方法に関する異論はなかったらしい。
「うまくやればもっと小刻みにできます。鼻の骨だって折れますし、肋骨も殺さないように折れます」
「しかし、そうなると治すのが大変だな。それに、あまり折りすぎると内出血やらで死ぬかもしれぬぞ。こんな細い、鍛えてもいないような体では。こやつは生かしておきたいのだが」
 まだ暗殺者を毒見役にしたアルドゥインの話を忘れかねているようで、サラキュールは残念そうだった。
「私といたしましては、こんな不届き者は死のうが不具になろうが一向に構わないのですが――サラキュール様がそう仰るなら仕方ございませんね」
 ジークフリートはちょっと肩をすくめた。
「まあとにかく、生きていれば良いのでしょう。首と背骨さえ折らなければ、何とでもなります。加減はお任せください。――多少医学の心得はあるから、砕けたのは無理でも折れたくらいは治せますからね、安心しなさい」
 最後の一言は、笑顔でセオドリウスに向けられたものであった。そんなことを言われて安心できたか、と言われたらこれは疑問であったが。

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