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 サラキュールの祖母が入ってくると同時にアルドゥインは立ち上がり、貴婦人に対する礼を取った。
「初めまして、アルマンドの大奥様。アルドゥイン・ヴィラモントと申します」
「紅玉将軍閣下ですね。お話はカーラからかねがね聞いております。わたくしはカーラの祖母、マティディアでございます」
(カーラ?)
 聞きなれないその呼び名に、アルドゥインはわずかに首をかしげた。サラキュールが不機嫌そうな声を出す。
「お祖母様、その名前で呼ぶのはやめてくださいと何度も申し上げておりますでしょう」
「あら、すまなかったわね」
 とはいったものの、マティディア夫人が悪びれた様子などみじんもなかった。彼女は手にしていた瓶を、アルドゥインの座っているテーブルにことりと置いた。中身は濃い金色の蜂蜜のようである。
「ともあれ元気そうで良かったわ。顔色はずいぶん良いようだし、思ったほど悪くはないのね。エクァンの蜂蜜がいちばん滋養に良いと言うので、取り寄せたのよ。飲み物にでも入れて飲んでちょうだい」
「お気遣いありがとうございます、お祖母様」
 まだ何となく不機嫌そうな調子で、サラキュールは枕に頭を埋めていた。つとそのそばに寄り、マティディアは孫息子の髪を撫で付けてやった。いかにも彼を子供扱いした行動であったが、サラキュールは不機嫌そうではあったものの、おとなしくされるままになっていた。
「もうすぐ結婚式だと言うのに、体調を崩してしまうなんて。風邪もひかぬのが自慢のお前なのにねえ」
「私を体力馬鹿のように仰らないでください。私とて疲れを発することもあるのです」
 のんびりと言う祖母に、サラキュールはむっとしたように言い返した。何となく、祖母の扱いに応じて言動が子供っぽくなっているような気がした。
「とまれ自己管理が甘かったのです。軍人、騎士たるもの、おのれの管理ができねば一人前とは申せませんのに。こんなことになって、いちばん恥じておるのは私自身です。むろん式までには快癒させますとも」
「それは頼もしい言葉だわ」
 マティディアは微笑んだ。
「じゃあね、カーラ。くれぐれもおとなしくしているのですよ」
「ご覧の通りおとなしくしています。だから、カーラと呼ぶのはやめてください。何度申せばきいてくださるのです?」
 サラキュールの声は不機嫌を通り越して無感動なものであった。が、マティディアが気にした様子はなかった。どのみちこの人もサラキュールの祖母である。一筋縄ではいかない人物なのは間違いなかった。
「気をつけようとは思うのだけれど、年を取るとどうも忘れっぽくなってしまうようだわ。ごめんなさいね、サラ」
「略すのもやめてくださいと申し上げておりますのに。それではまるで女子の名ではありませんか」
「カーラもサラも可愛らしくて、わたくしは好きだけれどもねえ」
「私は嫌です。この年で可愛らしくてどうするのですか」
 サラキュールはきっぱりと言った。
 マティディア夫人が去ってから、アルドゥインはようやく尋ねたかったことを口にした。それまでずっと我慢していたのである。
「カーラって、お前のことか?」
「……」
「名前はサラキュールだろう」
「……」
「なあ」
「……あれは私の幼名だ」
 耳まで真っ赤にして、サラキュールはようやく答えた。アルドゥインは思わず吹き出していた。それがメビウス語で「愛すべきもの」とか「可愛い人」という意味の名前であることは彼も知っていた。可愛らしい町娘なら似合いそうな名前だが、男でカーラ、である。サラキュールは起き上がって、笑い続けているアルドゥインの頭をかなり手加減抜きで殴った。もちろん、拳で。ごつんと派手な音がした。
「笑うな!」
「いてえっ!」
 サラキュールはいつになく真剣に腹を立てているようだった。これ以上殴られたくなかったので、アルドゥインはやっと笑いを引っ込めた。
「でもまた何で?」
「男児の幼名に女子の名前をつけるというのが、アルマンド一族の慣わしなのだ」
 サラキュールは心底恥ずかしそうである。言う所によれば、何百年か前、続けざまに男児が亡くなったことがあり、縁起かつぎで女子の名をつけて育てたところ、病にも罹らず無事に成長できたという話から、このしきたりが生まれたのだそうだった。
「おぬしは私の名前で笑うがな、お祖父様兄弟など、上からハルディス、グラディス、エディスだぞ。韻を踏むなどとは、人の名前で遊んでおるとしか思えぬ」
 聞いただけなら、可憐な美人姉妹を連想したくなるような名前である。あのリアザンがグラディスと呼ばれていた時期を想像してみて、アルドゥインはまた吹き出しかけた。しかし笑ってしまったらさすがに失礼だと思って何とかこらえた。
「お祖父様たちの時代には十五まで女装させられていたそうだ。私にはそれがなかっただけ、まだましというものだが」
「話に聞いたことはあったが、本当にそんなしきたりを持ってる家があるとは知らなかったぜ」
「ひとの家のしきたりを文化遺産か何かのように申すな」
 そう言ったサラキュールは地獄のような仏頂面であった。
 冗談の言い合いはそこまでで、二人はまたしばらく互いの情報交換と推理とに時間を費やした。アルドゥインをはじめとして関係者たちはみな、女の方の身元には何となく予想がついていたのだが、それは確たる証拠もなく言えるような話ではなかったので慎重に話題から外された。
 そこで問題となるのは、誰が女の協力者であるか、ということである。それはいみじくもサラキュールとジークフリートが先日話し合ったとおり、彼の所に送り込まれた刺客を捕らえてみなければ判らないことであった。
「おぬしの情報では、毒で死ぬまで二旬ということだったな」
 別れ際に、サラキュールはぽつりと言った。
「あと九日だが――二日三日の幅は取っても怪しまれないはずだ。それまでに刺客を捕らえることはできるだろう?」
「ああ」
 その問いかけに、サラキュールは確信に満ちた頷きを返した。
 そしてその言葉どおり、この訪問から三日後、ジークフリートは待っていた報告を携えて外出先から戻ってきたのだった。その表情が妙に明るく、それでいて不機嫌そうでもある、うかがい知れないものになっていたので、部屋に彼が入ってきて口を開く前に、サラキュールは彼の持ってきた情報が何であるか判ったのだった。
「やっと割れたか」
「はい」
 頬を少し紅潮させながら、ジークフリートは頷いた。
「刺客は一人だけです。燃料倉の使用人で、名前はセオドリウス。今年のユーリースの月から勤めはじめた者です。紹介状に書かれた仲介人は存在していましたが、出身の住所には別人が住んでいました」
「セオドリウス……クライン系の名前だな」
 サラキュールは物思うように呟いた。燃料倉づとめなら、厨房で使う薪を運んだり灰を回収したりするので、頻繁に厨房に出入りする。毒を盛る機会も比較的簡単に得られるはずである。
「偽名の可能性もございますし、クライン風の名前をつけるメビウス人もおりますから、そこは判りませんが、多分メビウス人です。さっき顔を確認してきましたが、髪は茶色でしたから。来歴を調べてみましたら、面白いことが判りましたよ。この男、アルメニー館に来る前はオルテア城に勤めていました。紫晶殿の庭師として」
「紫晶殿か」
 かすかに面白がるような光がサラキュールの目に浮かんだ。
「まあいい。さっそくそやつを捕まえよう。それも任されてくれるか?」
「当然です。今からでよろしいでしょうか」
 早速とばかり立ち上がるジークフリートを、サラキュールはやんわりと止めた。
「そう急くな。日が暮れてからにしたほうがいい」
 サラキュールの浮かべた笑みは明るさとは正反対のところにあった。
「まずはアルドゥインたちにこの事を知らせてくれ。それと連れ込む部屋の手配もせねばならぬから、時間が欲しい。それは私がやっておく。おぬし、地下の隠し部屋がどこにあるか知っておるか」
「当主以外は知らないものを、どうして私が知っているんですか」
 ジークフリートの答えは単純明快だった。どうもサラキュールは、自分が知っていることなら当然ジークフリートも知っているはずだ、知っていなければならない、という根拠のない考えを持っているらしい。
「幾つかあるが、なるだけ人目につかず入れる所がよいだろう。場所と行き方を今から教えてやるから、そこに連れ込め。多少荒っぽくなってもかまわぬ」
「かしこまりました」
 優雅な一礼と共にジークフリートは退出した。その後彼がしたことはと言うと、実に地味なことであった。夕方を待って燃料倉に行って薪の山に隠れ、狙う相手が来るのをじっと待ち伏せたのである。
 石造りの倉庫の中に、薪だけが山と積まれている場所である。建物の中であるはずなのに、気温は外気とほとんど変わらない。それでもくしゃみ一つせずに薪の上に座ってジークフリートは待った。
(風がないからそれほど寒くはないな)
 と、身じろぎもせず目だけを扉に向けて、じっと待ち続けていた。何人かの使用人が倉に入ってきたが、一人としてジークフリートの存在に気づいたものはいなかった。
 待ち構えていた相手は、彼が身を隠してから一テルほども経ったころにやっと現れた。扉が開いてわずかな明かりが射し、人影を黒く切り抜く。ランプが灯されて、入ってきた男の顔を照らし出した。瞳の色はわからないが、髪は淡い茶色。まだ若い。少年といってもいい年の男である。
 暗闇に慣れたジークフリートの目は、そのわずかな明かりだけで相手の顔が誰なのかを確かめることができた。セオドリウスに間違いなかった。
 そうとなれば動きに迷いも無駄もない。背負子に薪を移しているセオドリウスの背後に音もなく忍び寄る。暗殺者のくせに、彼は最後の瞬間までジークフリートの気配に気づかなかった。腕を振り上げたところでやっと異常に気づいて振り向こうとしたが、それよりも先にジークフリートの手刀が盆の窪を一撃していた。
 セオドリウスが白目をむき、ばたりと足元に崩れ落ちた。こんなにあっけなくていいのだろうか、とジークフリートはしばし自問してしまった。これなら自分が暗殺者になったほうがよほど簡単に標的を殺せるのではあるまいか。
 倒れている男の体はどちらかというとほっそりしていて、明らかに鍛えている様子はない。気絶させた時の動きからすると体術を会得している様子もない。毒殺を専門にしている暗殺者なのだろうか、と彼はその短い数瞬で考えた。だが騒がれずに済んだし、気づかれて乱闘にもならずに済んだことには感謝しなければならなかった。
「さて……と」
 気絶した人間を運ぶのはかなり重労働だが、ジークフリートは意に介した様子もなく、同じように薪の山の中に隠しておいた特大の小麦用の麻袋と縄を取り出した。それでセオドリウスをぐるぐると縛り、万一目を覚ましても声を立てられないように布を噛ませ、ついで麻袋をかぶせて中に詰め込んでしまった。
 肩に担ぐとずしりと重かったが、彼にとっては大した荷物ではなかった。燃料倉を出て庭を突っ切っていく途中、顔見知りの侍女とすれ違った。菜園で取ってきたらしい雪菜や泥だらけのにんじんが籠の中に納まっている。彼女はジークフリートが担いでいる荷物の大きさに目を丸くした。
「ジークフリート様、大荷物ですのね。お手伝いは要りませんか?」
 よもやこの中に人間が入っているなどとは疑いもしていない。ジークフリートは笑顔で首を横に振った。
「ありがとう、イネス。でも一人で運べますよ、これくらい」
「そうですか。そうですわね、ジークフリート様は軍人でいらっしゃいますものね。これはお節介を申しました」
 すぐに納得して、イネスはにこやかに立ち去っていった。ジークフリートも麻袋の位置をちょっと直して、また歩き出した。すでに夕闇が辺りを覆いはじめている。少し離れてしまうと、互いの姿はもう見えなかった。
 ジークフリートは屋敷には戻らなかった。イネスの気配も完全に消えるまで待ってから、彼は踵を返して広大な庭の一隅を占めている森に向かって歩き出した。

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