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     それは誰にしも 平等に訪れる
     富める者にも 貧しき者にも
     王侯にも 卑しき者にも
     されば
     現世の栄華は何になろうか
     人は皆 死に向かい歩いてゆく
               ――死の賛歌




     第三楽章 アルメニーの狂想曲




 海軍大元帥倒れる、の報が水晶殿に入ったのは、エストレラ伯の襲撃から二日後のことであった。これが仮病であることを知っていたのはイェラインとアルドゥイン、他には舞踏会の日の関係者数名だけであった。
 ヴェンド、ヴェルザーに並ぶ厳寒地帯アラマンダの領主なのに風邪一つひいたことがなく、長い航海でも体調を崩したこともないサラキュールが寝込んでしまったというので、一部の人々の間では天変地異の前触れではないかといった失礼なことが囁かれていたらしいが、それはまた別の話である。
 アリアガの容態も伝えられる所が少なく、昏睡状態であるとか、危篤に近いらしい――といった噂ばかりが流れていた。面会謝絶が申し渡されていたので、全ては憶測でしかなかった。スカイナ夫人は夫の負傷以来宮廷にも舞踏会にも顔を見せず、光ヶ丘の屋敷に篭もって夫の看病に明け暮れているようであった。しかしエストレラに残っている長男が呼び寄せられていないということは、まだ本当に危ないところまではいっていないのだろう、というのがもっぱらの噂であった。
 サラキュールが倒れる前後からジークフリートはいつにも増して忙しい様子で、別邸とオルテア城を行き来するだけでなく、何の用事があるのか、郊外まで出かけていったりすることもあった。深夜まで起きているようであるし、忙しすぎてこちらまで倒れはしないかと、さすがにリアザンも心配したようだった。
「ジークフリート、そなたはこの頃働きすぎなのではないか? サラキュールの分まで働こうなどと思わなくてもよいのだぞ。そなたは真面目すぎる。そなたにしかできぬ仕事ならばともかく、多少は手を抜くことも覚えたほうが良いぞ」
 と、珍しくも労う言葉をかけさえしたのである。それに対してジークフリートはいつもどおりの真面目な表情で首を横に振っただけだった。ちょうど、サラキュールの部屋に向かう途中の廊下であった。
「いいえ、大旦那様。特に忙しいということはございません」
「だが、サラキュールはそなたと二人でなければ食事をしたくないとか、そなたに甘えてわがままばかり言っておるだろう。まったく」
「わがままなどとは――。私を頼ってくださっているのだと、嬉しく思っております」
 大仰なため息をつくリアザンに、ジークフリートは年よりもずっと落ち着いて見える穏やかさで微笑んだ。それを聞いたリアザンは、意外なことを聞いたような顔をした。それが不思議で、ジークフリートは問いかけるような目でリアザンを見た。
「どうなさいました?」
「いや……。レッドモント――そなたの父も、昔同じようなことを言ったことがあったと思い出してな」
 今度はジークフリートが驚いたように瞬きした。彼の父も、先代のヴァルトゥールとはサラキュールと彼のように幼い時から一緒に育ってきた親友であったと聞かされていた。何しろ互いの子供の名付け親になったくらいである。そして二十六年前の事故では従者としてサラキュールの父母に付き添い、死んでいる。
 リアザンは孫と同様に父親を喪ってしまったジークフリートをことさら不憫に思ったらしく、ジークフリートは単なる臣下の子供というより、同等の家格の家から預けられた子のように育てられてきた。
「どちらも血は譲れぬものなのだな。ヴァルトゥールも、サラキュールほどではないがレッドモントによく相談事をしたり、ずいぶんと頼りにしておった。それであんなことになってしまったのだろうが……」
「大旦那様」
 控えめなジークフリートの声で、リアザンははっとしたようだった。
「これは、このような所で言うことではなかったな。すまぬ。ともあれ大事無いならよいのだ。だが、くれぐれもそなたまで倒れるようなことはないようにな」
「はい。自重いたします。どうぞご心配召されぬよう」
 リアザンと別れてから、ジークフリートはまっすぐにサラキュールの部屋に向かった。もともと彼に用事があったのである。
「サラキュール様」
 ジークフリートが顔を出すと、サラキュールはやっと来てくれた、といった感じであからさまにほっとした顔を見せた。体調を悪くすることなど滅多にない主人が寝付いたというので、過保護なまでにあれこれと世話されるのにうんざりきていたのである。
「みな、しばらく二人にしてくれ」
 何の話か聞くこともなく、サラキュールは一言命じて手をちょっと挙げた。使用人たちはすみやかに退出した。海軍のことであれ家内のことであれ、ジークフリートはアルマンド公の第一の側近であるので、こうした二人だけの内密の話はよくあることだった。
 足音も遠ざかり、完全に他人の気配がなくなったのを確認したが、ジークフリートは廊下に通ずる一間のドアを開け放っておいた。閉めておいては立ち聞きの恐れがあったからである。
 それを待って、サラキュールは口を開いた。ジークフリートが来た理由は判っていた。刺客についての情報が手に入ったのだろう。すでに毒が盛られはじめたとおぼしい日から一旬が経っている。
「何か判ったか」
「はい。毒はやはり、厨房で入れられているようです」
 ジークフリートは声を落とした。
「根拠は何だ?」
「今朝私が厨房からお運びしたものにも毒が入っていたので、運んでいる途中に召使が入れたものではない、と判断いたしました」
 サラキュールは無言で続けるように合図した。
「それともう一つ。今まで毒が入れられていたものは虹鱒のパイ、兎の煮込み、鹿肉のポワレ……まあ、種類は色々ございますが、共通点が幾つかございます。飲み物には一度も入っていないこと、三度三度律儀に入れられていること、入れられる料理はサラキュール様しか召し上がらないもの、など。この中で私が一番気になりますのは、どれも下ごしらえやソース作りに時間がかかるものばかりだということです」
「つまり厨房に置かれている時間が長い、ということだな」
「ええ。長ければ長いほど、接触できる人数も増えますし、機会も多くなります」
「となると、絞り込むのはまだ難しいか……?」
「それほどでもございません」
 難しげな顔をしたサラキュールに、ジークフリートは首を振ってみせた。
「もともと、アルメニーの屋敷にサラキュール様が滞在なさるのは冬だけです。これはサラキュール様もご存じのことだと思いますが、常時この屋敷に勤めているのは管理に必要な人数だけ――あとは期間限定で臨時雇いの使用人が入ります。常にこの屋敷を管理維持している使用人は代々アルマンド家に仕えている、身元もはっきりした者ですから、ここに刺客がいるとは考えられません。一応調べはしましたが怪しいものはおりませんでした。ですから、刺客は臨時雇いの者に紛れているのでしょう」
「なるほどな。して、そこからどれだけ絞り込めた?」
 感心したように、サラキュールは頷いた。
「臨時雇いの者は五十四名。そのうち厨房勤めは十名。厨房に入る機会を持つ者は二十一名です。厨房勤めの者は全員調べ終わりましたが、いずれも無関係でした。ですから、残る二十一名の中に刺客がいるものと」
「ふむ……」
 二十一名と言うと多そうだが、たった四日でそこまで絞り込めたのだから、まずは上々というところだろう。こやつは何をやらせてもやはり有能だな――と、サラキュールは密かに感心した。
「肉料理に混ぜられていることが多いので、ついでに狩猟番の者と肉屋も調べてみましたが、これも怪しいところは全くございません」
 しかも、憎らしいくらいそつがない。そんなのだから、つい無茶をしたり言ったりしたくもなるのだが、今回は全面的にジークフリート一人に調査を任せきりにしているので、素直にこの有能さに感謝することにした。毎日三度の食事で毒見をしてもらっているし、面倒をかけている自覚はあったのだ。
「では、もうすぐ目星もつく、ということだな」
「あと三日ほどいただければ、必ずそれをご報告できると思います」
 自信ありげにジークフリートは言った。こうまできっぱり言い切ったからには必ずやり遂げるだろうとサラキュールは確信した。
「ところで、今夜抜け出せぬかな」
「どこに参られますので?」
 ジークフリートは大して驚きもしなかった。
「……ちょっと耳を貸せ」
 言われるままジークフリートは身をかがめて、サラキュールの口許に耳を寄せた。ぼそぼそと告げられた行き先に、彼はちょっと考えるようだったがすぐに頷いた。
「わかりました。ではその間は私が誰も入らぬようにと命じて、お部屋におりましょう。馬は用意していつもの場所につないでおきますから。先方にもお伝えしておいた方がよろしいでしょうか」
「すまぬが頼む」
「抜け道はいかがいたします? 梯子でも用意いたしますか」
「それには及ばぬ。この部屋の、そこの棚から外に出られるようになっている」
 そう言ってサラキュールは、壁に作りつけられている本棚を指した。それが隠し扉になっていて、いざというときの脱出路になっていることを知っているのは代々の当主だけである。各地に点在する別邸には全てこのような秘密の抜け穴や隠し部屋があるのだが、サラキュールはお忍びで出かける時によく利用していた。
 こんなところにも抜け道があったのか、とジークフリートは内心で呆れていた。
「念のため申し上げておきますが、夜のうちにお戻りください」
「わかっておる。三テルほどで戻るつもりだ」
 サラキュールは珍しく殊勝なことを言った。
 翌日、アルドゥインが見舞いと称して屋敷を訪れた。もちろん本当の理由はイェラインとリュアミルに差し向けられた刺客の調査報告のためである。しかし、こちらはほとんど進展がなかった。イェラインは相変わらず調子が悪かったし、リュアミルには何の異常もなかったが、怪しい人物など浮かびもしていなかった。
 それを告げると、サラキュールは何となく重い息をついた。
「こちらの刺客を捕らえて、吐かせた方が早いのかもしれぬな。雇い主は同じだと判ったのだし。何か調べはついたか?」
 アルドゥインは頷いた。
「アリアガ殿を刺したナイフは調べようがなかったが、あのブローチを作った所を探してるところだ。あれほどの細工品を作れるのはオルテアでも限られてるからな。もうあと三軒かそれくらいで特定できるだろう。そっちの調子はどうだ?」
「相変わらず同じ毒が盛られ続けておる。こちらが食べていないことには気づかれてはおらぬようだ。にしても――病気のふりというのはなかなか辛いものだな。じっとしていると体が腐りそうだ」
 サラキュールはため息をついた。一日中体をほとんど動かさない生活などというものは、基本的に武人である彼には耐え難いものだったのである。ここには事情を知っているアルドゥインしかいなかったので、彼はベッドから出てきて椅子に座っていた。
「刺客を捕らえるまでの辛抱だろう」
 苦笑をかみ殺し、アルドゥインはなだめた。
「そろそろ、目星はついているんじゃないのか」
「ああ。ジークが調べてくれている。どうも、厨房がやはり怪しいらしい。まったく――自分で動けぬのが口惜しいな」
 昨夜は屋敷を抜け出して訪ねてきたくせに――と、アルドゥインがそれに対して何か言おうと口を開いた所で、ドアが叩かれた。慌ててサラキュールはベッドにもぐりこむ。それは、夜中まで起きている所を見つかった子供に似ていた。
「何だ、来客中だぞ」
 サラキュールの声は演技する必要もなく不機嫌であった。
「失礼いたします。ですが、大奥様がお見舞いをと」
「お祖母様がか」
 気の抜けたようにサラキュールは言った。同席しても良いか、というようにアルドゥインに視線を向けたので、彼は頷いて同意を示した。
「お入りくださるように」
「かしこまりました」
 数分おいて、違う足音が近づいてきた。入ってきたのは、小柄だが背をきちんと伸ばした上品な老婦人だった。羊歯模様を織り込んだ黒に近い茶色のドレスを地味にならぬように、さりとて派手にもならぬように着こなしている。容貌こそ年相応に老け込んではいるが、老醜といったものは全く感じさせない。見るからに身分高い貴族の夫人であった。

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