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 舞踏会はその後何事もなかったかのようにお開きになったが、エストレラ伯アリアガが何者かに襲われて重傷を負った、という話は翌日にはすでにオルテア城中に広まっていた。意識不明の重体に陥ったエストレラ伯はその夜のうちに光ヶ丘の別邸に移され、そこで治療が続けられているということであった。
 もちろん、アリアガが刺された本当の理由はあの後イェラインに報告されたが、宮廷には伏せられ、表向きには全く犯人の手がかりも、理由も見当たらない、ということになっていた。
「エストレラ伯が負傷なさった件はお聞きになりましたか? 恐ろしいことですわね、リュアミル姉様」
「ええ、本当に」
 その日の朝、リュアミルとルクリーシアが交わした会話はそれが最初だった。皇子夫妻とリュアミルが朝食を共にすることは、皇族全員での朝餐会以外ではほとんどない。同じ紫晶殿内に住んでいるといっても、かれらの生活の場は完全に分かれているからだ。この会話は朝見に出席した後、控えの間でのほんの短いひと時で交わされたものだった。
 リュアミルもルクリーシアもそれぞれ別個に出席しなければならないレセプションや会わねばならない人物というのがあるので、ゆっくり話をしている暇も実のところあまりないのだった。
「いったい誰が、皇帝陛下のお膝元でこのようなことを。早く犯人が見つかればいいのですが」
「そうですね。何の事情があってのことかも判らぬようですし――この次また、誰かが襲われないとも限りませんものね。ああ、そうだわ。エストレラ伯にお見舞いを送ろうと思うのだけれど、何が良いか後で一緒に考えてくれませんか、ルクリーシア?」
 周囲は色々なことで二人を比較したがるが、滅多に話し合うこともない義妹との間に、軋轢があるわけではない。できることならじっくりと女同士の友情や、家族としての情愛を育みたいとリュアミル自身は考えている。ルクリーシアにしてもそうだったので、彼女の提案に微笑んで頷いた。
「ええ、喜んで。リュアミル姉様はいつ紫晶殿にお戻りになられます?」
「今日はこの後、遠乗りに出かけて、それからエルボスの大使と面談がありますから……そうですね、リナイスの刻には戻れると思います。あなたは?」
「わたくしは……」
「何を話しているのですか、ルクリーシア」
 答えようとしたルクリーシアの声を、冷たい声が遮った。二人はほとんど同時に振り向いた。そこにはユナが立っていた。それほど派手派手しく着飾っているわけではないが、ダイヤモンドのきらめく略式の皇后冠に合うように、青色のドレスは光沢のある素材で作られ、宝石と刺繍が散りばめられている。それは確かに一国の皇后として恥じない装いであったが、年相応に落ち着いたものであるかと問われると、これには首を傾げざるをえなかった。
「お義母様」
 リュアミルは丁寧に頭を下げ、ルクリーシアもドレスの裾を少し持ち上げて礼をした。ユナはリュアミルを無視してルクリーシアに近づいた。
「こんな所で何をしているのです。あなたには今日、医師を呼んであると言ったではありませんか。時間まであまりありませんよ」
「申し訳ありません、お義母様」
 ルクリーシアは素直に言い、リュアミルにすまなげな視線を向けた。リュアミルは微笑んだ。
「すみません、リュアミル姉様。今のお話はまた後ほどいたしましょう」
「ええ、いつでも、あなたの都合のよいときに」
「さ、早く」
 リュアミルとルクリーシアの会話を分断するように、ユナは声を割り込ませた。ユナに従って廊下を歩いていきながら、もう一度ルクリーシアは振り返り、小さく会釈をした。リュアミルも軽く頷いてそれに応えた。
「リュアミルなどと、いったい何の話をしていたのです」
 忙しく歩を進めながら、ユナは不機嫌さを隠そうともせずに訊ねた。
「エストレラ伯のことです。二人でお見舞いをお送りしましょうかと」
「ああ、そのことですか」
 あまり興味のない様子で、ユナは言った。
「たかが伯爵が怪我をした程度のこと、あなたが気にすることではありません。第一、あのような賤しい下級貴族の娘、庶子などと親しくしてはいけません。あなたは高貴なるクラインの皇女であり、メビウス皇子の妃なのですからね」
「……」
 ルクリーシアは明確な返答を避けた。しかし、ユナの言いようには承服できない気持ちがあったので、控えめに口を開いた。
「ですが、お義母様。リュアミル姉様は仮にも皇太子なのですから……」
「何を言うのです。皇太子であろうがなかろうが、未来の国母たるのは、生まれの賤しい娘などではなく、あなたのように血筋正しく高貴な女性なのです」
 きっと振り返って、ユナは声を荒げた。その目の激しさに、ルクリーシアは思わず身をすくめた。言い方がきつすぎたと自分でも思ったのだろう。ユナはすぐに表情を緩め、ルクリーシアの手を取ると優しい声を出した。
「あなたを責めているのではないのですよ、ルクリーシア。全てはあんな娘を皇太子に選ばれた陛下に問題がおありなのです」
 表面の優しさを取り繕うほどに、その根底にある憎しみや恨みが垣間見えるような口調だった。
「どのみちまだ結婚もできぬような皇太子では、このメビウス皇家は遠からず滅んでしまいます。だからこそ、あなたには早く世継ぎとなる子供を産んでもらわねばならないのですが……」
「それは、申し訳ありません……」
 美しい瞳を曇らせ、ルクリーシアはうなだれた。パリスと結婚してもう三年になろうというのに一向に懐妊する兆しのない彼女に、表立ってではないが非難めいた目が向けられていることは、彼女自身も承知していた。こういった時、非難を受けるのは男よりもまず女の側であった。
 今日ユナが呼んだ医師というのも、不妊の原因を探るべく遠方から招かれた者だったのである。
「あまり夫婦が仲睦まじすぎると、子供が遠慮をするとは言いますけれどもね」
 悲しげにうつむいて歩くルクリーシアを気の毒に思ったか、ユナは慰めるようなことを言った。それでも、ルクリーシアの愁い顔は晴れなかった。夫に対する不満、不妊の悩みと周囲の声、生まれへの侮蔑など様々ではあったが、メビウス皇家の女性たちはそれぞれその内面に苦悩を抱えていたのであった。
 一方、ユナ皇后によってせっかくのルクリーシアとの話を途中で終わらされてしまったリュアミルの方は、気を取り直して一度紫晶殿に戻り、遠乗りのため乗馬用のドレスに着替えることにした。
 この日は快晴で、外に出かけるには最高の天気であった。オルテア城の東門にサラキュールが向かった時、リュアミルとイルゼビルは遠乗りに出かける直前であった。出かけた先で軽食でも取るらしく、馬車で付き添う女官たちがバスケットやワインの瓶を積み込んでいた。
「イルゼビル」
 呼び止めると、イルゼビルはすぐに気づいてサラキュールのそばまで来た。婚約者たちの会話を邪魔しないようにというのか、周りにいた女官たちも近づかないように気を使ってくれた。
「どうなさったの?」
「なに、少々挨拶をな」
 遠乗りに行くといっても、イルゼビルは乗馬服ではなく、馬に乗ってもかさ張らないようにボリュームを抑えた軽装のドレスといういでたちであった。日除けのために大きなつばのついた帽子を被り、リボンを顎の下で結んで留めている。マントの下から見える淡い桃色を基調にしたドレスは裾や袖口に薔薇模様の刺繍が施され、イルゼビルの若々しい少女らしさを十二分に引き立てていた。
「曲がっておる」
 言いながら、サラキュールは左にかしいでいたイルゼビルの帽子をちょっと直してやった。そうして少し身をかがめてイルゼビルに顔を寄せ、彼は低い声で囁いた。
「殿下を頼むぞ、イルゼビル」
「あら、私を誰だとお思いなの、サラキュール?」
 視線は動かさず、イルゼビルは同じような囁き声で返しながら、悪戯っぽくはしばみ色の瞳をきらめかせた。
「これでも私、カミラでは少しは名の知れた乗馬の名手ですのよ。私がいるかぎり、馬の事故など起こさせないわ」
「それは充分承知しておるよ」
 サラキュールも微笑んだ。イルゼビルもそうだが、リュアミルもこれでなかなか馬術の技量は高い。もちろん、女性用の鞍でドレスのまま横座りで乗る乗り方での話であって、戦場で馬を駆けさせる技術とはまた違ったものであるが。
「馬に異常はございませんから、多分何事もないと思いますわよ。もし何かあっても、心配なさらないで。リュアミル様は絶対にお守りいたしますから」
 イェラインとリュアミルの暗殺を企む者がいる、ということをイルゼビルも父から聞かされて知っていた。彼女は年上の友人としてというだけではなく、未来の主君としてリュアミルを尊敬していたので、その身を守るためならば命を捨てても構わないとさえ思っていた。
 その心中をを知ってか知らずか、サラキュールはさらに小声で付け加えた。
「といって、君も怪我をしないように重々気をつけてくれ。そんなことになったら、私は自分が何をするかわからぬのでな」
「それも、よくわかっていますわ」
 イルゼビルはにっこりと笑った。サラキュールは普段と変わらぬ涼やかな表情で言ったのだが、もしもイルゼビルが誰かに傷つけられたら、その相手を殺すぐらいは平気でするだろう。存外、情熱家なのである。
「サラキュールは心配なさりすぎよ。私の他にも従者はいるのに、リュアミル様の暗殺を企てるようなものがいるかしら」
「そこのところはしかと否定できぬのでな」
 少々苦々しそうに、サラキュールは言った。
「よもや白昼堂々と襲撃はせぬだろうが、心配なのは毒を盛られることだ。派手な奴ならば、君を巻き添えにしても構わぬくらいには考えるだろう」
「そればかりは、馬術ではどうにもできませんものね。でも、何とかなると思いますわよ。私、運は強い方ですもの」
「ともあれ気をつけて。明日から倒れる予定なので、会えなくなるのは残念だ」
「できたらお見舞いに参りますわ。そちらも、お気をつけてね」
「ああ」
 イルゼビルはふわりとスカートの裾をひるがえし、サラキュールに軽く手を振って出ていった。


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