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                                *



「アリアガ!」
 最初に現場に駆けつけたのはバートリだった。倒れている友の姿を見て、彼はとっさに周囲に目を走らせた。だが、逃げていくものの姿も気配もすでになかった。
「バートリ殿、アリアガ殿は」
 少し遅れてサラキュールとアルドゥインが到着した。現場を見るなり、アルドゥインは人々を近づかせないようにすることと、医者を呼ぶように侍従と衛兵たちに命じた。案外衛兵たちは素早く動き、現場から五バールほどに人の壁を作って野次馬を抑えた。
 アリアガの腹に刺さったままのナイフに思わず手をかけたバートリに、サラキュールは鋭い声をかけた。
「抜いては駄目です、バートリ殿」
「ああ……」
 すぐに止血方法を思い出したバートリは、首のスカーフを外して傷に当て、掌で強く押さえた。みるみるうちに、青かったはずのスカーフは血の色に染まっていく。
「アリアガ。一体誰が、おまえにこんなことを」
 バートリは悔しげに呟いた。意識を失っているとみえたアリアガが、その声に反応したのか片手を動かした。
「う……」
「アリアガ殿?」
 サラキュールが声をかけると、アリアガはかすかに目を開けた。バートリに目をやり、ついで傍らのサラキュールを確認すると、必死の面持ちで唇を動かした。
「サラキュール殿……貴殿に、暗殺のたくらみが……」
「……」
 驚きに目を瞠ったのは、サラキュールではなくバートリであった。サラキュールは、氷像のように顔の筋一つ動かさなかった。
「して、それは何者でしたか」
 それには、アリアガは首をかすかに横に振った。だが、最後の気力を振り絞るようにサラキュールの腕を握った。
「……き、貴殿の後には……リュアミル様と……陛下を……と……」
 今度は、その言葉を聞いた全員が息を呑んだ。はからずもアルドゥインとサラキュールにとっては、昼に仮定として話していたことが現実になってしまったのである。二人は思わず顔を見合わせた。
「何ということだ……」
 苦しげに息をついていたアリアガは、それきり言葉を出す力を失ったように目を閉じ、サラキュールの腕を掴んでいた手を放した。その時、アルドゥインは何か小さな光るものがもう一方の手に握られていることに気づいた。
(これは……?)
 力なく開かれた掌から拾い上げてみると、それはブローチであった。散りばめられたダイヤモンドが暗がりでもわずかな光を受けて輝く。全体は黒いエナメルに金で模様を描き、金の上にはダイヤモンド、中心にはルビーが飾られている。小さなものだが、かなり豪華である。アリアガは襲われた時、相手からとっさにこのブローチをもぎ取ったらしい。ピンの針は折れ曲がり、白っぽい糸くずが絡み付いていた。
 アルドゥインがサラキュールに話しかけようと口を開いた所に、ちょうど宮廷医師と担架を担いだ侍従たちが駆けつけた。アリアガを運んでゆく彼らに、気丈にもスカイナは涙をこらえて付き添っていった。
 庭園の捜索を衛兵に任せ、三人は黒曜の間に戻った。ブローチを握ったアルドゥインの手を指し、サラキュールが尋ねた。
「犯人のものか」
「そのようだ。このブローチ……女のようだな」
「だが、足跡は三つだった。女の足跡と、男の足跡が二つだ。一つはアリアガのものだから、犯人は二人組だろう」
 バートリが横から口を挟んだ。あの騒動と暗がりの中で、彼は友人の怪我に気を乱しながらもそこまで見ていたのである。
「一体何事だったのだ、サラキュール殿」
「アルフォンソ殿……」
 騒ぎは広間中に広がっているらしい。音楽はまだ流れているし、踊っている人々もいたが、何となく不安そうな空気が漂っている。海軍の将たちには、同僚が襲われたという知らせがすぐに回ったものらしい。アルフォンソだけではなく、パアル候ジグムントとヴェルザー候グスターヴもやってきた。
 これはもう自分たちだけの胸におさめておいたり、二人だけで解決できる問題ではなくなっていた。アルドゥインとサラキュールは一瞬顔を見合わせたが、サラキュールが口を開いた。
「アリアガ殿は、期せずして何者かの密談を聞いてしまったようです。――あろうことか、皇帝陛下と皇太子殿下のお命を狙う者の」
「何だと」
「それはまことか」
 口々に尋ねるのへ、バートリも頷きかけた。
「はい。アリアガは確かにそう言いました。その者らがサラキュール殿の命も狙っている、とも」
 これには、アルフォンソが一番反応を示した。
「サラキュール殿を、だと。なんと不届きな! 我が娘を結婚前に未亡人にしてくれるつもりか!」
「……」
 そこにまるで犯人でもいるかのように目を怒らせるアルフォンソに、その場の全員は何となく気を飲まれたようであった。ついでに言えば、少しどころでなく論点がずれているような気もしないではなかったが、その勢いのために誰も指摘できなかった。
「明日、アルフォンソ殿にお話し申し上げようと思っていたことですが、こうとなっては今申し上げた方がよろしかろうと思います。――皆様にもどうか聞いていただきたいことゆえ、少し場所を移しましょう」
 サラキュールの提案で、海軍提督六人と紅玉将軍という珍妙な取り合わせの男たちは黒曜の間から続いている控え室の一つに移った。そこでサラキュールとアルドゥインは今朝からの出来事と、イェラインの身に起きている異変について説明した。聞くうちに、彼らの表情は一様に硬く険しいものになっていった。
「……では、アリアガ殿を襲った者は、貴殿に暗殺者を差し向け、陛下に毒を盛らせている者と同一人物ということか」
 灰色がかった金色の顎髯を撫でながら、ヴェルザー候グスターヴ・ド・スアルドネが低く言った。彼は黒鉄(くろがね)海兵隊の提督である。
「おそらくは」
「しかし、なぜ貴殿まで」
 これは赤銅(あかがね)海兵隊提督のパアル候ジグムント・ド・ハドラヴァ。
「よくはわかりませぬ。私が――リュアミル殿下を支持する貴族の中では、最も身分が高いから、でしょうか」
 何となく考え込むような顔をしながら、サラキュールは言った。
「私が味方につくということはつまり、メビウス海軍とアルマンド一門を後ろ盾に得る、ということですから。それがたとえ象徴的なものであったとしても」
「では黒幕は、リュアミル殿下と貴殿をこころよく思わぬもの、ということか。さらにはリュアミル殿下を皇太子に定めたイェライン陛下までをも狙っているとすると、よほどの恨みとみえるな」
 バートリが言った。それを受けて、アルフォンソが尋ねた。
「心当たりはあるか、サラキュール殿」
「知らぬところで受けている恨みはともかく――ありすぎて、何とも。国外にも心当たりがございますし」
 サラキュールは指を折って数えながら答えた。身分が高ければ高いほど政敵が増えるのは当然だが、サラキュールの性格では恐らく要らない敵まで作っていることだろう、とアルドゥインはこっそり思った。
 リュアミルを殺してパリスを皇太子につけたがっている者――そう考えた時、真っ先に浮かんだ名前があったが、しかし誰もそれを口にはできなかった。口にしてしまったら最後、漠然とした疑いが形になってしまいそうだったからだ。
「アリアガ殿は、犯人の顔を見たのだろうか」
 ふと思いついたような声で言い、グスターヴは首を傾げた。
「あの暗さでは、よく見知ったものでなければわかりますまい。ですが……自分たちを目撃したのがアリアガである、ということは犯人たちには判っているでしょう。我々が名を呼びながら駆けつけましたから」
 バートリが答える。
「それではアリアガ殿も危険です。口封じのために卿を襲ったのですから、止めを刺し損ねたと知ればどうなるか」
 アルドゥインがその言葉を引き取ったように続けた。彼らは難しい顔をして黙り込んでしまった。
「ならばいっそ、死を偽っていただくわけには参らぬだろうか」
 サラキュールが言うと、ジグムントが反駁した。
「それは考えてみたが、しかし仮にも白銀(しろがね)提督が死んだとなると、騒ぎが余計に大きくなりはすまいか?」
「簡単にはまいらぬか……」
「とにかく卿の所在が外部に漏れぬようにするのが先決だ」
 アルフォンソは堂々巡りになりそうな雰囲気を断ち切る勢いで言った。提督の中では一番力を持つのが彼であったから、皆話をやめて彼のほうを見た。
「今はどこで治療を受けておられるのだ?」
「水晶殿です」
 これにはサラキュールが答えた。
「エストレラ館に戻られては、狙ってくれと言っているようなものだ。別の場所にお隠しすることにしよう」
「では、我々のうち誰かの館に隠れていただくか」
「そのことですが」
 海軍同士の話に何となく居場所のない気分を味わっていたアルドゥインであったが、そっと手を挙げて発言した。五人の目が一斉に注がれて、アルドゥインは一瞬どきりとした。平均年齢二十八歳の陸軍将軍と違って、海軍提督たちは平均年齢が四十代だったので、迫力も上だったのである。
 それでもアルドゥインがたじろいだのは一瞬のことで、彼は自分の考えを彼らに説明した。するうちに、納得するような表情が彼らの顔をよぎっていった。
「なるほど」
 ジグムントが最初に頷いた。
「スカイナ夫人に使いを出そう。早速に手配をせねば」
「では俺も」
 急いで部屋を出ていったバートリに続いてアルドゥインも立ち上がった。その背中にサラキュールが声をかける。
「頼んだぞ、アルドゥイン」
「任せてくれ」
 それに、アルドゥインは笑顔で応えた。このような時に海軍だの陸軍だのとは言っていられなかった。ふだんはあまり交流もないし仲が悪いと思われがちだが、国を守るという意識では、彼らは全く同一の目標を持っていたので、団結しようと思えばその結束はにわかなものでも強かったのである。


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