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     このシュバリスの城が倒れる日まで
     わたくしは空をさまよわねばなりません
     シュバリエの一族に不幸がある時
     わたくしは血の涙を流し その涙は
     紅の雪となってこの城に降るでしょう
             ――オムファーレ物語




     第二楽章 光ヶ丘の陰謀




 サラキュールがイェラインと内密の会見を持つことができたのは、その日の昼過ぎであった。待たされていた一室にイェラインが入ってくると、彼は一礼して迎え、人払いを頼んだ。
「一体どうしたというのだ、サラキュール。大事の話か」
「どれほどの大事かは、まだ判りませぬが――。アラマンダ公たる私を、亡き者にしようと考えている者がおりますようで。私の食事に毒が盛られておりました」
 他人事のように話された内容に、イェラインは目を瞠った。
「それはまことか、サラキュール?」
「はい。幸い、まだ命に別状のあるほどのことはございませんが」
「ということは、その調査を願うのか。それなら……」
 サラキュールは首を振った。
「いえ。この程度のことでしたらば、陛下のお力をたまわらずとも、おのれで処理できるものと思います。ですから、これよりしばらく、体調を崩して床に伏すということにさせていただきたく存じまして、そのお許しを願いに参りました」
「どういうことだ」
 毒を盛られただの何だのと言うわりに健康そのものに見えるサラキュールに、イェラインは本気で当惑しているようであった。サラキュールは今朝の出来事と、その後のアルドゥインとの密談の内容を語った。
「――何ということだ」
 聞き終わると、イェラインは呆れたとも驚いたともつかない盛大なため息をついて額を押さえた。
「それで、刺客を捕らえるために大芝居を打つというわけか」
「さようでございます」
「そなたの考えることは、時々突拍子もないな」
「ですが、本当に毒殺されるわけにも参りませんので」
 サラキュールは肩をすくめた。
「判った。そなたのよきように計らえ」
 頷いたイェラインであったが、ふと眉をしかめてこめかみの辺りを押さえた。頭痛に耐えかねたような仕草であったので、サラキュールは不審に思った。
「――どうなさいました、陛下?」
「いや……どうもこのところ、調子が悪くてな。頭痛が取れぬし、節々が痛む」
 イェラインは凝った筋をほぐすように肩の辺りを揉んだ。
「お疲れなのではございませんか」
「この頃はそれほど忙しいわけでもないのだが、年なのかな」
 そう言って、イェラインは笑った。だが、サラキュールはその笑いには和さなかった。何か深く考え込むような光がその目に宿る。しかし、それは慎重に伏せられたおもてに隠されてしまっていたので、イェラインは気づかなかった。
 退出してから、サラキュールはアルドゥインを探した。紅晶殿の陸軍司令部に行くと、ちょうど出てきたアルドゥインに出くわした。見計らったようなタイミングに、彼はちょっと眉をひそめた。周りに聞かれては困る話だったので、二人はそのまま階段を下り、中庭に出た。
「陛下は何だって?」
「呆れられたが、ご承知いただいた」
 サラキュールはそこでちょっと周囲に目を走らせ、声を潜めた。
「アルドゥイン――これは本当におぬしと私だけの話にしたいのだが」
「何だ? 今さら」
「陛下にも毒が盛られているのかも知れぬ」
 アルドゥインが驚いたのは言うまでもなかった。
「まさか、そんな大それたことが」
「ありえぬことではないと思うぞ。メビウスで最も暗殺の危険に晒されている立場にある方といえば、皇帝陛下をおいて他にない」
 サラキュールは慎重に言った。そして先程のイェラインの様子を事細かに語った。聞いているうちに、アルドゥインの表情も険しいものになっていった。
「もう症状が出ているのに、宮廷医師どもはいったい何を診てるんだ」
「風邪か疲労か、と陛下は仰っておられた。多分彼らもそう診断したのだろう。あのな、アルドゥイン。私たちは今朝の事があるから過敏になっておるが、敵も気にしておらねば気づかぬようにしておるのだろう」
 サラキュールはちょっとため息をついた。
「しかし、陛下には毒見もついているのに気づかれんとは、かなりの手練だな」
「宮廷に忍び込むにもそれなりの準備と手段が要る。素人でないことは確かだ。協力者が宮廷内にいるのかもしれぬ」
 いつになく真剣な顔で、アルドゥインは呟いた。
「もしかしたらこれは、大変なことになるかもしれないな――」
「これが私のみならず、陛下をも狙う一つの陰謀なのだとしたら」
 同じように考え込みながら、サラキュール。
「私とおぬしだけで何とかできる問題ではなくなるぞ」
「だが、つながりがあるかどうかはまだ判らないんだ。下手に動くと騒ぎになる」
「結局、どちらかの刺客なりその手引きをした者なりを捕らえてみなければ判らぬか。歯がゆいな」
 サラキュールはいかにも悔しそうに唇を噛んだ。戦いでは勝利のための回り道や根回しなどの地道な努力を惜しまないが、主君の命が脅かされているかもしれない、というこの状況では、忠誠篤い彼としてはじれったかったのだ。
「しかしとにかく、陛下に危険が迫っている可能性があることは申し上げておくべきか」
「そうだな。――もう一度陛下にお目通りを願えるかな」
 言ってはみたものの、サラキュールもアルドゥインも多忙である。イェラインにも、予定外にそう割いていられる時間はない。それは難しそうだった。
 その日の夜は、青晶殿で皇室主催のパーティーが開かれた。記念や何かの祝日のためのものでなくても、社交としての舞踏会はこうして一、二旬に一度ほど開かれる。今日のパーティーは中規模のもので、黒曜の間が会場であった。青晶殿の、宝石や貴金属の名をつけられた他の広間と同じく、この広間も黒曜石の名に合わせて内装は黒を基調とした非常に荘重なものであった。
 紅玉や翡翠といった大広間に比べれば、面積も狭く色彩こそ華やかではなかったものの、鏡のように磨かれた黒大理石の柱が並び、壁面装飾は全て金で塗られ、神殿のような荘厳な雰囲気が漂う広間であった。装飾自体が草花をモチーフとした曲線的なものではなく、幾何学模様の直線的なものであったので、どことなく冷たい印象がある。
 社交目的のパーティーではさすがに祝辞も開催理由もほとんどないため、イェラインの開会の辞は珍しくも半テル以下で終わってしまった。人々は内心ほっとしながら皇帝に拍手し、ダンスを始めた。
 今夜もアルドゥインは一番にリュアミルにダンスを申し込み、二人は人々の輪の中で互いに照れながらワルツを踊っていた。
 暗殺だの毒だのといった話はさすがにこのような場ではできなかったので、サラキュールはイェラインに翌日の個人的な謁見許可をとりつけ、カミラ伯アルフォンソにも同様の約束を取り付け、その後はイルゼビルとダンスを楽しんでいた。
 この頃はアルドゥインのおかげでリュアミルの相手にサラキュールを譲る必要がなくなっていたこともあり、イルゼビルは上機嫌だった。それに最近のパーティーでは互いに挨拶などが忙しくてすれ違いがちで、満足に言葉も交わせない状態だったので、こうして二人で踊るのは実は久しぶりだった。
 一曲が終わってアルドゥインとリュアミルが一息ついて酒杯を手にしていたところに、同じようにグラスを持ったサラキュールとイルゼビルが来た。
「あら、こんばんは。サラキュール、イルゼビル」
「ご機嫌いかがかな、リュアミル」
「こんばんは、リュアミル様、アルドゥイン様」
「こちらこそ今晩は。イルゼビル姫」
 四人になると、自然と会話は男同士、女同士に分かれた。イルゼビルは――つまりヴァリーニ家は、ということだが――幼い時から皇室と付き合いがある。リュアミルとは七つも年が離れているが、最も親しい友人の一人である。
「明日の遠乗りには、他の方を誰か誘いますか?」
「リュアミル様さえよろしければ、私と二人でおいでになりませんこと? だって他の方がいると、皆様おしとやかに馬を歩かせるばかりでちっとも面白くございませんもの。リュアミル様となら駆け比べもできますけれど」
「まあ」
 このおはねな発言に、リュアミルは抑えかねた笑い声を上げた。
「わかったわ、イルゼ。では二人で参りましょう」
 そこから少し離れたところでは、ラガシュ伯爵夫妻とエストレラ伯爵夫妻が同じように親しい友人同士の会話を楽しんでいた。ラガシュ伯バートリとエストレラ伯アリアガは共に海軍提督で年も近い方であるし、妻同士も同年代なので一番仲がよいのだった。
 エストレラ伯夫人スカイナとラガシュ伯夫人エルゼベートは夫たちから少し離れたところで、春のモードはどうなるか、流行色は何になるだろうか、といったお洒落の話に花を咲かせていた。ふとスカイナの髪に目をやったエルゼベートが声を上げた。
「あら……髪飾りが一つございませんわ、ドムナ・スカイナ」
「えっ」
 スカイナは結い上げた髪を押さえた。確かに、結い上げた髪の右側に飾っていた鼈甲と螺鈿の簪が無くなっていた。
「本当。さっきまではあったのに。あなた、ご存じありません?」
「――庭に出る前まではあったと思うが」
 妻の言葉に、アリアガは記憶をたどってみた。
「なら、庭で落としてしまったのかしら」
 スカイナは困った表情になった。つい五分ほど前まで、夫と二人で雪の庭園を散策していたのである。落としてしまったらしい簪はエルボスの細工品で、彼女の淡い金褐色の髪に合わせた鼈甲を蝶の羽のように彫って螺鈿を飾りつけた、かなり値の張るものである。二つで一セットのものであるし、簡単に諦められるほど安いものではない。
「では私が探してくるよ。君はここで待っていなさい」
 アリアガは妻に言い置いて、近くにいた女官から蝋燭を一本もらうと、庭に続くガラス扉へと背を返した。
 まだ冬であるので、庭園で二人だけの時間を過ごそうという男女の姿はまったくと言っていいほど見ることがない。アリアガは蝋燭をかざしながら下に気をつけて心当たりの場所を歩き回った。
「あった」
 あまり周囲がしんとしていたので、探していた簪が植え込みのそばに落ちているのを見つけたときは、思わず独り言をもらしてしまった。場所からすると、枝にでも引っかかって落ちてしまったのだろう。自分も気をつけてやればよかったと思いながら、アリアガは簪を拾い上げた。
 その時、低くひそめた話し声が彼の耳に飛び込んできた。目を上げると、彼が立っている植え込みの反対側に一組の男女が立っていた。
 男女が人目を忍んでこっそりと話をしているらしい。無粋なことをするまいと、アリアガは気づかれぬように身を隠し、蝋燭を吹き消してその場を離れようとした。だが、漏れ聞こえてきた言葉にぴたりと足を止めた。
「――最も邪魔なアルマンド公は、順調にゆけば来月には死ぬであろう」
 それは、男女の交わす言葉としては最も不似合いな、そして恐ろしい言葉だった。それが聞こえてしまった以上、邪魔をすまいなどという話ではなくなっていた。アリアガは音を立てないようにもう一度茂みに近づき、耳をそばだてた。
「アルマンド公を失えば、リュアミル殿下の後ろ盾は無くなったも同然。そうなればリュアミル殿下を葬っても、さしたる混乱は起きぬでしょう」
「その後には、陛下にも死んでいただきます。これもわたくしが手配しましょう。そなたは事が成った後、わたくしの後押しをするだけでよい」
(何だと……)
 アリアガは薄暗がりの中で驚愕に目を見開いた。恐ろしい計画を話し合うこの二人が誰であるか、顔を確認しようと目を凝らしたが、同じ暗がりのこととておぼろな人影しか判らない。
「それはむろんのことでございます。しかし、リュアミル殿下を亡き者にすれば、当然にパリス殿下が皇太子になられます。陛下には暗殺の必要はないのでは」
 どことなく恐れを含んだような男の声。だが、女はきっぱりと答えた。
「わたくしたちの望みを達するには、どのみち陛下に死んでいただかねばなりません。それならば早いほうが良いでしょう」
(早く、この事を陛下にお知らせせねば……)
 アリアガは宮殿に戻ろうと、そっと体の向きを変えた。慎重に動いたはずだったが、足元に張っていた氷がその動きで割れた。ぱきりと乾いた音がした。小さな音だったが、第三者の存在を相手に知らせてしまうには充分な音だった。
 とたんに男女はぴたりと話をやめ、凍りついたようになった。アリアガもへたにこの場を動けば自分の居場所を悟られてしまうため、動けないでいた。時ならぬ緊張がその場一帯を包んだ。
(どうする……)
 晩冬の夜だというのに、焦るあまり額に汗がにじんだ。植え込みの陰に身をかがめた不自然な姿勢のまま、アリアガは息を潜めていた。だが、正体の知れぬ男の方が彼よりもこの逡巡と硬直から逃れるのが早かった。
「!」
 何か光る物を手に、男がアリアガに向かってきたのだ。それがナイフだということは、見て確認するよりも前に直感で判った。
「何をする!」
 提督ともなると直接戦闘に出ることはほとんどないながらも、アリアガは軍人である。とっさに身をひねり、最初の突進はやり過ごしたが、雪に足を取られ、たたらを踏んで後ろによろめいた。体勢を立て直そうとした彼の首筋に、女の腕が絡みついた。
「この……」
 背後から首を絞められながら、アリアガは必死に手を伸ばし、女の首筋に指をかすらせ、服を掴んだ。女は周囲をはばかって抑えようとした妙なかすれ声で叫んだ。
「早く、早く殺しておしまい!」
「あなたは――!」
 その声には聞き覚えがあった。それが誰であるのかが意識にのぼった瞬間、彼のみぞおち近くに激痛が走った。男の体ごとの突進で、ナイフが柄までその身に埋まり――そして、アリアガの体からがくりと力が抜けた。
「今のはフォアメルリ卿の声だぞ」
「アリアガ殿、どうなさった!」
 宮殿から、ばたばたと足音が重なって近づいてきた。しかし人々が倒れているエストレラ伯の傍まで辿りついたとき、すでにそこには踏み荒らされた雪と、雪を紅に染めて倒れるアリアガの他には誰の姿もなかった。


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