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     天狼の星は常に流浪する星である。
     天の動きは地に映り、ゆえに
     狼の年は地異の多き年として知られる。
                ――星見の書




     第一楽章 新たなる序曲




 所はメビウス。ゼーアではラトキアが再度の独立を求めてエトルリアとの戦端を開いた一月。クラインでは、カーティス摂政公サライが婚約者であるヴェンド公の息女ファイラを迎えていた頃。
 メビウスでは新年の祭典も滞りなく終わり、ごく平和に新年が迎えられていた。アルドゥインにとって二度目のメビウスの冬は、まだ慣れないとはいえ例年に比べて冷え込みも厳しくはなかったので、そこまで耐え難いものではなかった。といって、決して過ごしやすいものでもなかったのだが。
 二年続いたオルテア参勤が終わって、紅玉騎士団はオルテア常駐騎士団から外れた。領地を持つ者は参勤交代でそれぞれの領地に戻るのだが、アルドゥインはオルテアに留まっていた。一応皇帝直轄領の一部、旧首都のカノンを領地として与えられたのだが、元が直轄領ということで、管理は現地の役人たちが行っていて、彼が赴く必要はなかったのである。
 そうして、新年とアルドゥインの誕生日を祝ってから、ベルトランが領地に戻るのを四人の将軍が見送ったのであった。昨年は遠征中だったということもあって、本人も過ぎていたことを忘れていたような誕生日であったが、二十五歳の誕生日は公邸に五将軍の仲間や軍内の友人、知人たちを招いて賑やかに過ごした。長男の無事を知ったアスキアの両親からも手紙や贈り物が届けられ、アルドゥインにとっては数年ぶりの盛大な誕生日パーティーとなったのだった。
 アラマンダ公サラキュールが、カミラ伯の愛娘イルゼビルと結婚式を挙げる予定を発表したのは、この冬の間であった。
 何も好きこのんで寒い時期に結婚式など挙げなくてもよさそうなものだが、これにはちゃんと理由がある。
 新郎となる海軍大元帥は、海が流氷で閉ざされてしまう十二月から翌年の四月までしかオルテアにはいない。それ以外の季節は海軍の軍事演習であったり、海賊討伐であったり、領海とメビウス領の島を侵犯する他国との小競り合いであったりと理由は様々だが、ほとんどの期間を海上で過ごしているのだ。
 波の音が聞こえていないと落ち着かないと言うのだから、ここまでくるともはや仕事熱心と言うよりは一種の病気である。
 しかし舅となるカミラ伯アルフォンソ・ラ・ヴァリーニも彼と同様の根っからの海の男で、婿に対する理解は並みの人を超えていた。その娘であるイルゼビルも同様である。そこで両者が話し合った結果、海軍の仕事の妨げにならぬうちに――正確には三月に結婚式を挙げよう、ということになったのである。
 三月ならばオルテアでは雪もほとんどなくなるし、サラキュールが海に戻りたくなる季節にはまだ遠い。また三月は愛と婚姻の守護者ディアナの月であり、結婚には縁起の良い月とされている。ともあれこのようなわけで、サラキュールとイルゼビルの結婚はディアナの月に行われることが決まり、イェラインがこれを許可して発表したのである。
 だが、この時期が全く常識はずれかというとそうでもない。季節が良いからといって夏などに式を挙げると、当然披露宴も夏ということになる。北国とはいえ全く暑くならないわけでもない。料理は腐りやすくなるし、何より遠方から来る招待客などにとって、馬車での移動が辛いものになる。
 箱馬車などは炎天下では蒸し風呂状態になる。下手をすると熱中症を起こすし、死者も出かねない。かといって冬は冬で困ったところがあり、メビウスでは雪が深すぎて移動できなくなる地方がある。暖房代だって馬鹿にならない。なので、たいていは盛夏と真冬は外して、春か秋にこうした催しごと、式は行われることになる。
 結婚式は普通このような事情を勘案して、六月が最も多い。いちばん気候がよく、花が美しく咲き乱れる季節であり、本当の意味での春がこの月だからである。メビウスでは「六月の花嫁」は最も縁起がいいものとされているほどだ。
 しかし六月だと、式と披露宴の準備やら後始末やらで何週間、場合によっては何ヶ月も拘束される。そんなにも長い間陸に上がっていることは、サラキュールには耐えられない。イルゼビルのほうも、そんな彼を見るには忍びない――というわけである。蓋を開けてみれば痒いだけの理由であったりもする。
 お気に入りの臣下――しかも娘の幼なじみ――と娘の友人の結婚にはイェラインもいたく喜び、発表の際に直々に祝いの言葉さえ述べたほどであった。この結婚式に出席するため、新年の挨拶のために伺候していた遠方の貴族はオルテア滞在を延ばしたり、元来は宮廷に伺候することがほとんどない者もオルテアを訪れたりと、それは有力貴族の婚礼らしく二ヶ月も前から何となく賑やかな雰囲気が漂うものであった。
 方々の貴族の屋敷で行われるダンスパーティーでは、若く美貌の海軍大元帥がもうすぐ他人のものになってしまうというので若い貴婦人たちが大騒ぎし、これも美少女のカミラ伯令嬢が人妻になることに悔し涙を流す青年たちがいたりと、とにかく二人の周りは騒がしかった。
 そんな中、当事者のサラキュールはと言うと、細かい打ち合わせのためにカミラ伯を訪れたり、今や一番の友人となったアルドゥインのもとを足繁く訪れては飲み明かして祖父の小言を受けたりして、残り少ない独身時代を謳歌していたのであった。
 イルゼビルも婚礼衣装や装身具の準備で仕立て屋を呼んだり宝石商を訪ねたり、あるいは独身の娘だけのサロン仲間に別れの挨拶をしたり、既婚女性だけのサロンに挨拶に出かけたりと、新たな交流や友人たちとのお喋りを楽しんでいた。
 その日、アルドゥインとサラキュールは二人揃って水晶殿の廊下を歩いていた。二人とも軍の仕事があって別々に参内していたのだが、帰る時になって偶然出会い、では一緒に途中まで、ということになったのである。
 自然、話題は近づくサラキュールの婚礼の話になる。
「そろそろ婚礼衣装も出来上がる頃じゃないか? 披露宴にはどんなのを着るんだ。さぞかし豪華なものになるんだろうな」
「いや、その手の行事は海軍の礼服で事足りるから、披露宴のためには作っておらぬ。婚礼の衣装も父上が着たものを使う予定だ。一生に一度しか袖を通さぬものに金をかけるのもくだらぬからな」
 アルドゥインは苦笑した。
「アルマンド公爵ともあろう者がけちな発言だな」
「けちとは何だ。使うべき所に惜しまず使うための努力と言え。それに、父上の形見の衣装なのだぞ」
 憤慨したようにサラキュールは言った。
「よいか、けちと言うのは使うべき所にも使わぬ者のことを言うのだ。それと私を一緒にするなどおぬし、無礼千万にも程がある」
「わかった。わかったよ。だからそんなに怒るな」
 大げさに手を振って、アルドゥインは降参の仕草をしてみせた。
「本当のけちならペルジアで見てきた」
「大体、おぬしは軽口が多すぎ……」
 年甲斐もなく声を荒げて、殴りかかる真似をしていたときである。
「サラキュールではないか?」
 ふいにかけられた声に、サラキュールは口をつぐんだ。アルドゥインも笑いながら拳を受けていた手を下ろし、顔を引き締めた。正面からアルドゥインは顔も名前も知らない男が歩いてきた。どうやら、サラキュールの知り合いらしい。
「おお、やはりサラキュールだ。久しいな」
 近づいてきた男は、にこやかに話しかけてきた。年齢は五十代後半か六十に手が届くくらいと見え、やや淡い黒髪は白髪が混じっている。長身で痩躯、なかなかの容姿であるといっていいだろう。だがその顔を見た途端、それまで怒ったふりをしながらも浮かべていたサラキュールの笑みがさっと消え、無表情に固まってしまった。
「こちらこそ、ご無沙汰をしております。ラルホーン伯」
 しかし、アルドゥインを驚かせた表情の変化はほんの一瞬のことだった。サラキュールはもう一度、今度は明らかに作ったと判る笑みを浮かべ直して軽く頭を下げた。ラルホーン伯、とサラキュールが呼んだその男は、なおも上機嫌らしい笑顔でサラキュールの肩を掴むように叩いた。
「元気そうで何よりだ。近々結婚するそうだな?」
「はい。このオルテアで式を挙げるつもりでおります」
「そうか。それには呼んでくれるのだろうな、もちろん?」
 肩に置かれた手を避けたそうな視線を投げかけながら、サラキュールは答えた。
「ええ。ハーゼルゼット卿をはじめ親族の皆様をご招待するつもりでおりますゆえ。日が近づきましたら、改めて招待状をお送りいたします」
「それは楽しみだ」
 それには、サラキュールはただ黙ってもう一度頭を下げただけだった。ラルホーン伯は彼としては親しみを込めた表現らしく、サラキュールの肩をもう一度軽く叩いて、反対側に歩いていってしまった。
 その姿が見えなくなってから、サラキュールはずっと詰めていた息を吐くように大きく息をつき、ラルホーン伯が叩いていった肩を、埃でもついてしまったかのように乱暴に払った。
 ラルホーン伯をサラキュールがどういうわけか嫌っているらしい、というのは先程の様子を見ていてわかったので、アルドゥインは気になって尋ねてみた。
「あのラルホーン伯とやら、お前にずいぶん親しげ……というか、目上みたいな物言いをするんだな」
 その質問に、サラキュールは苦々しげに答えた。
「仕方がない。爵位は私の方が上だが、血筋で言えば卿の方が目上だからな」
「血筋?」
 アルドゥインは驚いたように目を瞠った。そしてラルホーン伯が歩み去っていった方向を見た。
「ということは、お前と血がつながっているのか、あの人は」
「私にだって親戚くらいはいる。何だ、私の親族が祖父母しかおらぬとでも思っておったのか、おぬしは」
 サラキュールは呆れた声を出した。そのおかげで、さっきまでの不機嫌はどこかに置き忘れてきたようだった。
「それに、一門をなす血族はおぬしにもいるだろうが」
「ああ、そういえば、そうだな」
 言われて、アルドゥインは納得した。サラキュールが続けてした説明によれば、アルマンド一門は国内・国外含めて二十の候・伯家を縁戚に持ち、アラマンダを中心にメビウス東北部を主な領地として、メビウス国内最大の勢力を形成する。その当主がアラマンダ公爵なのだった。ただしド・ラ・アルマンドの姓を名乗れるのは嫡流の直系のみで、傍流は全てアルマンド家が持つ諸々の爵位を分配し、領地名を姓として名乗ることになる。
 同じ大公爵でも、領地であるヴェンドに同名の小国を築いていた王の末裔であるヴェンド公が勢力を持つのはヴェンドのみであるのに対し、建国当時から皇家に仕える家柄で、代々皇家との縁戚関係で権力を伸ばしてきたアラマンダ公は、ほとんどメビウス中に一族が散らばり、その勢力の及ぶ範囲もまた広い。
 それはアルドゥインの実家、ヴィラモント家と似たようなものであったので、彼はさしたる質問があるでもなくこの説明を聞いて理解した。
「で、何でお前あの伯爵をそんな毛嫌いしてるわけだ?」
「毛嫌いしているわけではない。単に向こうが私を好いていないだけだ」
 サラキュールはどことなくむっつりと答えた。
「他人がいると親しげにする所が気に食わぬというのは確かだが。私の事など好いておらぬというのは最前承知なのだから、取り繕うこともなかろうに。ともあれ互いに好意はないのだから、べつだん格別に親しむ必要はないだろう」
「……そういうものなのか」
 言ってから、アルドゥインは自分は叔母たちに対してどうだっただろう、と思い返してみた。思い出せるほどたくさん思い出があるわけではないし、最後の三年ほどは父親が心配して会わせなかったから顔も見ていないのだが、やはり互いに他人行儀な丁寧さで接していたような気がする。
「しかし、何でお前が嫌われるわけだ。気が合うか合わないかは個人の性格の問題だが、そうではなさそうだな」
「ラルホーン伯との経緯は話すと長くなる。こんな所で話せることでもないしな」
 ということは一族や家に絡む問題なのだとアルドゥインは判断した。
「だったら俺は聞かないほうがいいか」
「いや、別におぬしに知られて困るような話ではない。宮廷内では有名な話だ。今夜空いていたらゆっくり説明してやるから、私の所に来い」
「手土産はいるか?」
「そうだな。客を呼ぶとお祖父様がうるさいからな」
 ため息混じりにサラキュールは言った。
「この前と同じ、果物でいいかな。喜んでいらしたんだろう?」
 前回サラキュールが泊まりに来たとき、アルドゥインはわざわざ迎えに来たリアザンに「ご足労をかけさせてしまって申し訳ない」と、貢物を供えた。それで外泊許可が結構すんなりと下りたのである。それはリアザンが贈り物をされると意外に弱いということを新たに発見した日でもあった。
「ああ。面倒ですまぬな」
「面倒とは思わないさ。俺はリアザン殿が好きだよ」
 サラキュールは、信じられないというような顔でアルドゥインを見上げた。
「おぬし、それは本気でか?」
「もちろん」
 何をそんなに不思議がられるのか判らない、というようにアルドゥインは首を傾げた。サラキュールの顔に表れた困惑はますます強くなった。
「あの頑固爺の何が好きなのだ、おぬし」
「それが面白いから」
 あっさりとまた返したものである。
「毎日接していると、何の面白いこともないのだがな」
 肩をすくめて、サラキュールは言った。マナ・サーラの刻にサラキュールが滞在しているアラマンダ公の別邸で、と約束して、二人は水晶殿の門で別れた。

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