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                                  *



 ランとアインデッドによって引き起こされた一幕の後はまたくだらぬ茶番劇ばかりで、アインデッドはひたすら終わるのを待ち続けていた。しかし実際には昼食を挟んで夕刻まで、ずっとシェハラザードの後ろに控えていなければならなかった。それは苦痛であったし、また大変なストレスでもあった。
 そしてようやく終わったかと思えば――。
「すごかったなアインデッド、あれでお前の印象はかなり強く残ったはずだ」
 ルカディウスは上機嫌であった。
「ああ、そうかい。そいつは……お前の陰謀がやりやすくなったという点でだけおめでたいことなんだろうな」
 アインデッドは地獄のように不機嫌であった。ルカディウスを引き離そうと、いつもより大股で早足に歩いていたのだが、それにかまわずルカディウスはなかば駆け足でつきまとい、しきりに話しかけてくる。アインデッドの苛立ちはそろそろ頂点にさしかかりかけていた。
「いいかルカディウス、俺にいつまでも健康でいてほしかったら、そうやって鬱陶しくからみついてきて喋りまくるのをやめろ! お前ときたら全く、吟遊詩人にでもなりゃよかったんじゃねえのか?」
 ついに、彼は誰も廊下にいなくなった頃合いを見計らってその怒りを爆発させた。ルカディウスは片方しかない目を大きく見開き、アインデッドを見つめた。気持ち悪そうに、アインデッドは顔をしかめた。
「じろじろ見るな。気持ち悪い」
「そんな、アイン……そんな言い方は……」
 アインデッドはすうっと目を細めて、何か物騒な光をはらんだ目つきでルカディウスを射抜くように見た。
「そんな、何だって? てめえは耳までおかしいのか。俺はさっさと失せろと言ったんだ。それともぶち殺されてえのか」
 落ち着いているように聞こえたが、その声ははっとするほどの殺気と怒りが込められていた。ルカディウスはキャンとも言わずに逃げていった。アインデッドはもう振り向きもせずに部屋に向かっていった。
「……誰もいねえ……」
 アインデッドは深いため息とともに呟いた。ミシアでの戦い以降、赤い盗賊のメンバーとはルカディウスがのらりくらりとごまかしては会うにも会えない状態が続いている。そして、ルカディウスとは話したくもない。アインデッドの寂しがりの症状はますます重くなる一方であった。
(シロスたち……ルカディウスは追い出す画策をしてるようだが、ああやって遠ざけようとしてるってことは、あいつ、もしかしたら追い出すどころか奴らを消しちまうかもしれねえ。俺だって、あんまり喋ってほしくねえ事を色々と奴らに知られてるってのは、不安だからな)
 追い出す口実を与えないように、盗賊流の不法な行動はしないようにと伝えさせたが、それから彼らがどうなったのか、どうしたのか、アインデッドには全く情報が入ってきていない。
(だけどあいつらは俺のかわいい子分たちだ。早いところ奴らに、シロスぐらいに会ってルカディウスの陰謀から守ってやらなきゃ。やつのやることといったら、必要以上に残忍で、しかも奴の頭ん中はぐちょぐちょねとねとしてやがるからな)
 すでに、アインデッドとルカディウスのおもわくは微妙にずれはじめている。アインデッドは敏感にそれを感じ取っていたが、ルカディウスはまだ気付いていないのが幸いであった。
「閣下、ご昇進おめでとうございます」
 部屋に戻るなり、小姓たちが彼の大好きな酒と、ちょっとしたつまみを用意して彼の昇進祝いを内輪でやる準備を整えていた。それを見て、アインデッドの心は少し慰められたのであった。
「おいおい、なんだ、この騒ぎは」
 小姓たちは、いつも不機嫌で冷たいアインデッドががらにもなく頬をかすかに赤くして照れるのを初めて見たのであった。小姓頭のルキウスが、彼らを代表してこのなりゆきの説明をした。
「閣下が右府将軍にご昇進なさったことを、勝手ながら我々でお祝いさせていただきたく、用意いたしました」
「……ありがとうよ」
 たしかに、アインデッドのずたずたになりかけていた心はそれでかなり癒されたのであった。小姓たちは彼らの主人が目頭を押さえるのを、見て見ないふりをしておいた。アインデッドがそういった弱いところを見られるのを何よりも嫌っていることを、短い付き合いながら彼らはよく知っていたのである。
「じゃ、お前らの好意に甘えて、乾杯だ。ほら、突っ立ってねえでお前らも飲め。酒じゃなくてもいい。みんなで祝おうぜ」
 アインデッドはほとんどひさびさににっこりと笑い、グラスに酒をついでまわった。そういう所に関してアインデッドがびっくりするほど現金であったのは確かだった。久々にアインデッドはくつろいだ時間を過ごしていた。
 しかしそれも破られる運命であったようだった。
「アインデッド将軍閣下、大公閣下がお呼びでございます」
 悲しそうな面持ちのタマルが、その場に入ってきた。アインデッドはその時お気に入りの小姓たちと盛り上がって、だいぶ酔っぱらっていたので、シェハラザードと聞いただけでかなりむっとしたように眉を寄せた。
「ああ? うるわしの大公閣下が俺に何の用だって言うんだ?」
 タマルは怯えて首をすくめた。
「申し訳ありません。詳しくは存じ上げません」
 酔った勢いで言い捨てたものの、それがタマルであることにすぐに気付いて、アインデッドは後悔した。
「ああ、お前だったのか、タマル。悪かった、俺が悪かったよ。ひでえ言い方をしちまってごめんよ。そんなにすまながらなくたっていい。泣くなよ」
 扉の前で身を小さくしているタマルの傍までゆき、肩を優しく叩いてやる。彼女はますます身を縮めて、真っ赤になった顔を伏せた。その顔を覗きこみ、アインデッドはめったにないくらいの優しい声音で尋ねた。
「どうしたんだ、お前。ばかに顔色が悪いみたいだな」
 すでにシェハラザードと彼との間に何があったのか、タマルは知っていたし、それによって初恋が破れてしまったことに深く傷ついてもいた。しかし愛する女主人の幸せなのだから、とひたすらに耐えていたのである。
「い、いえ。そのようなことはございません」
 タマルは慌てて首を横に振った。
「そうか? まだ寒いからな、風邪には気をつけろよ。ああ――良かったら、俺の代理で飲んでいけよ」
 アインデッドはそう言い置いて、部屋を出ていった。しかしタマルは部屋に残らず、すぐに反対側に出ていったようだった。
 シェハラザードは気付いていなかったのだが、今アインデッドが寝泊りしている部屋から大公の居室まで行く廊下は、人通りの多い反対側の廊下から丸見えで、どんなに密やかにしていても思い切り人目についた。であるから、アインデッドがシェハラザードの部屋にいつ呼ばれていつ帰ったか、そんなものをいちいち数える物好きにとっては恰好のロケーションであった。
 シェハラザードはシェハラザードで、アインデッドが広間で、終始苛々していたようなのをずっと気にかけていた。あれ以来なかなか会うチャンスがなくて、彼女としてはいても立ってもいられない状況だったのだ。
(何が嫌なのかしら、やっぱり右府将軍では不足だったかしら? いえ、でも軍務の最高責任者よ。嫌なわけないじゃない……)
「よう」
 いきなり、その物思いの相手が扉の前に立っていたので、シェハラザードはもう少しで椅子から飛び上がるところだった。
「ア、アインデッド! あ、案内も請わずに勝手に女子の部屋に入ってくるなんて、一体どんな神経してるの? 大体、わたくしは大公なのよ?」
「そりゃ失礼したな。ひとを呼びつけといてその態度とは、ラトキアってのは本当に礼儀知らずが多い国だな。仰せのとおり出ていくよ」
 シェハラザードは、失敗したことに気付いた。そしてしおらしく謝った。衣装も大公の礼装から、普段着に近いような薄桃色のドレスにあらためられていたので、大公ではなく恋人の訪れを待っていた少女といった雰囲気が強かった。
「ごめんなさい。あんまりあなたが急に現れたので、びっくりしたの」
「……俺は一応声はかけたつもりだったし、お前は答えたんだが。それにしても何だ? ここの警備の薄さは。色々と貴族だの王族だのの屋敷に忍び込んだ事もあったが、これほど身分が高くて警備が薄い所ってのは初めてだ。なにせ俺でも気付かれずにこうして忍び込めたくらいだからな」
「……盗賊だから、でしょ」
 アインデッドはにっと笑った。
「そうだな。そういうこともあったかな。で、何の用事だ」
「あの……何か今日、妙に不機嫌だったから何かあったのかと思って……。右府将軍では不足だったの?」
 その思いがけない言葉に、アインデッドはきょとんと目を見開いた。
「伯爵なんて身分までもらっちまって、おまけに右府将軍では高すぎやしないかと思ってたんだがな、俺は」
「そう? ならこれでいいのね。よかった……」
「それだけか? もう戻っていいか」
「あ……」
 せっかくの、二人きりの時間である。シェハラザードとしてはこのまま恋人と別れたくなかった。だが面と向かっては言い出せずにもじもじしているのを見て、アインデッドはだいたい彼女の言いたいことは分かった。
「俺は、どっちだってかまわないぜ」
「あの、アインデッド、わたくし……」
「どうする?」
 アインデッドはいかにも悪そうな微笑みを浮かべた。シェハラザードはその視線を感じて首まで真っ赤になってしまった。
「そんなふうに意地悪をしないで。あなたは、わたくしのものでしょう?」
 そう言ったとたん、アインデッドの顔から微笑みが消え、ランと対峙した時のような殺気をはらんだ表情に変わった。
「いつ、俺がてめえのものになったって? 言ってみろ」
「だって……アインデッド……」
 その表情の変化に、シェハラザードは怯えて彼を見上げた。
「だってもあさってもねえや。いくら大公だって、女の言うなりになるつもりはねえぞ。俺が自分のものだなんて思い上がるんじゃねえ。俺は、誰のものでもねえ。今度そういう態度をとりやがったら、俺はすぐにでも出て行くからな」
「わ、わかったわ」
 戸惑いながらシェハラザードは小さく頷いた。どうしてアインデッドがそんなに機嫌を悪くしたのか、彼女にはさっぱり判らなかった。
「わかったわ、じゃねえ。はい、だ。はい」
 シェハラザードの手首を乱暴に掴み、引き寄せながらアインデッドは言った。手首の痛みに顔をしかめながら、シェハラザードは素直に言った。
「は、はい」
「まあいいか」
 まだ何か言いたそうだったが、アインデッドはシェハラザードに口づけた。彼女の顔を掴んだまま、息が触れるほどの所に顔を近づけて、彼は念を押した。
「仕事ならどんな命令だって聞いてやる。俺がお前の将軍だってことは、俺だって認めるからな。だが仕事以外で俺に命令するな。そこのところははっきりさせておくぞ。俺は、ひとに命令されるのが大っ嫌いなんだ。わかったな」
「ええ」
 もしこれが他の男だったら、シェハラザードは大公の地位を振りかざしてでも言うことを聞かせようとしたに違いないし、大抵の男なら彼女の地位の前に跪いて、どんなことでも聞いただろう。だが、今のアインデッドの前では恐らく大公の地位も意味のないことだと、彼女も判っていた。

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