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     彼は捜し求めていたものを手に入れた
     すなわち、彼の光の天使を
     しかしまだ、彼は全てを手に入れたのではなく
     その終に求めるものは遠かった。
                ――マリエラのサーガ




     第四楽章 剣のカデンツァ




 相変わらずの無表情のまま――。
 アインデッドは席を立ち、ゆっくりと壇を下りていった。
 べつだん、興味を引かれたわけでも、怒りを感じたわけでもない。
「あ――」
 全ての者が騒然と騒ぎ立てている中であっただけに――
 ずっと表情を変えず、一言も発するわけでもなくただ見守っていただけのアインデッドの突然の動きは、人々の目をはっと引きつけるものがあった。壇に近かったものはふと騒ぐのをやめ、遠いものは袖引き合うようにして黙った。
 その、しだいにしんとなっていく広間の中、アインデッドはすたすたと歩いて真ん中に下りてゆき、ランの前に立った。
 ランはエトルリア人らしいがっしりとした体格であったが、横幅はともかく背はアインデッドのほうが心持ち高い。見下ろされて、さも心地よさげな笑みを引っ込め、奇妙な表情でじっとアインデッドを見返した頃には、広間中は水を打ったようにしんと静まり返っていた。
「お前は」
 ランの口が動いた。アインデッドの底知れぬ緑の目が、ランの黒い目を見据えた。アインデッドは静かに名乗った。
「ティフィリスのアインデッド。アインデッド・イミルだ」
 この戦いで、幾度となく耳にしたに違いない。また、おおかたその目星もついていたのだろう。ランはゆっくりと頷いた。
「なるほど、お前が、エトルリア街道警備隊のお尋ね者の盗賊――」
 最後までは言わせなかった。
 ひらりと、アインデッドの手にサーベルが、銀色の一条の線となって閃いたとき。
 人々の口から悲鳴が起こっていた。
 その音の塊を上から押さえつけるように、アインデッドの静かな、陰鬱ともとれる声が広間を流れた。
「そんなに死にてえなら、何も迷うこたあねえだろう。今ここで俺があの世に送ってやるよ。かまわねえよな?」
「あーッ!」
 ランは左頬を押さえ、心ならずもよろめいて、辛うじて自制心を取り戻した。そのひげ面の左頬にひとすじ赤い筋が走り、血がにじみ出していた。ランは怒りか、それとも狼狽で紅潮した顔を上げた。
「何をする、無法な!」
「何が無法だ。このまぬけめ」
 アインデッドは眉一筋動かさず、冷ややかに相手を一瞥した。
「処刑するなら早くしろと言うから、してやろうとした俺の親切心がわからんのか。だいたい、処刑に無法もへちまもあるか」
「そ――、それは、あまりといえばあまりな!」
 ランはようやく、自分を取り戻したが、アインデッドが自分を脅しにかかっているだけだとたかをくくる余裕もなくなっていた。
 アインデッドの油断なくサーベルを構えた様子、うっすらと酷薄な笑みを浮かべた口もと、ただならぬ殺気など、なまじ自身も腕に覚えのあるだけに、ランもこれはもしや本気では、という不安を取り去りきれなかった。まだ頬を押さえながら、噛み付くような勢いでわめいた。
「俺はかりそめにも、ゼーア三国の雄、エトルリアの世継ぎ、大公子なるぞ。それをまるで、いやしい盗賊風情のように、このような正式の裁きの場でもない場所で剣にかけるつもりか」
「ああ。茶番に付き合いきれんと言ったのは、お前だぞ」
 アインデッドはいささかうんざりとした調子で言った。
「俺もこんな茶番には付き合いきれん。同感だ。だから望みどおりにしてやろうというんじゃないか」
「な、な、な……」
 ランはうろたえて口をぱくぱくさせた。
「お前もさっき言いかけてたようだが、もとはといえば俺はレント街道の盗賊。たとえラトキア大公がどうであれ、俺には関係のないこと。たとえお前を殺した責を負わされて追放されようが、もとより賞金首の俺だ。少しもかまやせんからな」
「この、ごろつきめ!」
「おおせのとおり」
 アインデッドはせせら笑った。
「俺が賞金首の盗賊だってことは、お前も先刻承知なんだろう、いまさら驚くことかよ。そのごろつきの手にかかって死ぬのは不服かもしれんがな。ま、安心しろ。お前を殺したら、早いところ大公閣下の許可をいただいて、すぐにでもエトルリアをぶっ潰しに行ってやる。エトルリア大公国がこの地上から消えちまえば、お前の肩書きも意味のないこと。エトルリアとかいう今はない国の阿呆な公子殿下が、大口を叩いたのが災いしてラトキアの将軍様に成敗されましたとさ、ですむさ」
「……」
 ランは無言で唇を震わせた。しかし、凄絶な迫力に呑まれたように、アインデッドから目を離すことができなかった。周りにいた兵士たちも、本来ならアインデッドの行動を止めるべきだったのだろうが、金縛りにあったように動かない。
「さあ。祈りか遺言があるなら聞いてやるから言ってみな」
 アインデッドは形のよい指先で、サーベルの先をしならせた。すらりとランの胸元に突きつける。
「待て」
 ついにランは制止を請うた。
「まさか、本気で俺を……」
「俺はいつだって本気だ。お前は本気じゃなかったのか? さあ。俺はぐずぐずとするのがいちばん嫌いなんだ。祈りか、遺言か、それとも両方か、さっさと選べ」
「待ってくれ」
 ランはわめいた。
「それは無法だ。俺は正しい形式による裁きとエトルリアに対する交渉を要求する」
「戦場に法も無法もあるか」
 アインデッドは相変わらず冷ややかだった。
「ここはまだ戦場で、てめえがたはまだこっちに対していくさをやめたわけじゃねえとほざいてやがったのはどこのどいつだ。お前の言うとおりだと俺は思うぞ。ならここは戦場で、てめえは名誉の戦死だ。ちゃーんと首を塩漬けにしてくにに送ってやるから諦めるんだな。塩漬けが嫌なら、てめえの国流儀にミイラがいいかな? 俺はあんまり好かないけど。――エトルリアは変な国だな、ええ?」
「方々は」
 アインデッドが進み出ると、ランは同じ分だけ後ずさった。更にアインデッドが進み出ると、たまりかねたようにわめきだした。
「ラトキアの方々はこのような無法をあえて黙認なさるご存念か。第一の友邦たるエトルリア世継ぎの公子たるものの身を、街道の盗賊の手に掛けるおつもりか」
「そりゃあ、卑怯未練ってもんじゃないかな」
 アインデッドが楽しげに笑いながら遮った。
「……」
「さっきまでは威勢良く、まだ戦争は続いているのだの、シェハラザード大公など認めんだの、ずいぶんと達者な大口を叩いていたようだが?……それとも、あれは御身がエトルリアとの交渉の大切な切り札となる身ゆえ、いかにあろうと我らには殺しようもないとみての大言壮語であらせられたか?」
 アインデッドは、途中から声を低め、さらに丁寧な言葉に切り替えて言った。それが意外にも、彼の真剣な上に物騒な光をたたえた目とあいまって、けっこうな脅迫の意味になっていた。
「それは……っ」
 ランはぐっと詰まった。
「だが御身は一つ、考え違いをなさっているようだ。俺には御身を交渉の切り札として有り難がろうなどというつもりはない。殺せと言うならば殺してさしあげよう。よしんばそれでもとでエトルリアと全面衝突するとしても、それこそ俺の望む所。この命をかけて大公閣下のため戦う所存だ。その旨、しかと覚えおいていただこう」
「そ……」
 ランはうめくような声を上げた。
「それは、しかし」
「なーにが、それは、しかし、だ」
 アインデッドはもう面倒くさくなって、またいつもの横柄でぞんざいな言葉遣いに戻っていた。
「せっかくのエトルリア公子の威厳なら保ったまま死ね。さあ、俺は女みたいにああだこうだ抜かす野郎が大っ嫌いなんだよ。死ねよ」
 アインデッドはゆるやかにサーベルをあげ、無表情に繰り出そうとする。それが再び銀色の光と化してひらめいたかに見えた刹那。
「アイン――アインデッド殿!」
 躍り出たマギードの差し延べた剣の鞘が、辛うじてアインデッドの剣を受けた。
「どけ。どかないと……貴殿も切る」
「お待ちを、お待ちを!」
「何を止める。こんな奴、生かしておいたところで仕方あるまい」
「た、たしかにさようではありますが、しかし何はともあれエトルリア公子! その大言その振る舞い、いかにも無礼、倨傲ではありますが、何とぞいましばらくのご猶予を下さいますよう――こやつの命、この不肖マギードにお預けあって――まだいくばくかの利用価値が、ないとも限らぬ身なれば……」
「たしかに人質としてはまだ使えるがね。それは俺もわかるさ。でもこんな奴、せっかくのマギード殿の命をかけるほどの値打ちもないだろう。やめておけ。あなたの命の値打ちが下がっちまう」
 アインデッドはむっとしながら言い捨てた。
「そのような……何とぞ、私とて、このようなものかばい立てする気にてはございませんが、しかし」
「そういうふうに助けたりするから、つけあがって、我らがうるわしの大公閣下がこんな手合いに馬鹿にされるんだと俺は思うのだがね」
 アインデッドはさも嫌々ながら、気障にサーベルを指先でくるくると何度か回してからすとんと鞘に落としこんで、そのうるわしの大公閣下の目の前ということもはばからず感想を述べた。
「まあそこまでマギード殿が仰るのなら、この場は見逃してやらんこともないが、次にくだらねえ口を叩きやがったら、今度こそ容赦しねえからな。別に敵国の者だからとかじゃねえ。――俺はそんな口を利く野郎が大嫌いだからって、それだけの理由だ。それがたとえマギード殿、あんたでも俺の気に障るんだったら例外じゃねえ」
「ご尤も」
 マギードは慌てていった。そして、早くランを連れ去るよう命じた。
「ご尤も――まことにご尤もで」
 アインデッドはすでに興味を失った顔でシェハラザードの後ろへと上がりながら、やれやれといったようすで肩をすくめた。
「気に食わん奴、都合の悪い奴、殺したい奴がいるならいつでも俺の前に連れて来な。そいつと口を利いてみての話だが、こいつは気にくわねえと思ったら、俺はいつなりとそいつの死刑執行人を引き受けてやるさ。俺は幽霊なんぞ怖かねえし、生きてる人間ならなおさら怖かねえからな」
「ご尤も――まことにご尤もで」
 マギードは部下たちがランを連れ去っていくのを横目で確認しながら、ともかく無事にことがおさまってよかったと、心の中で神に感謝した。呆然と見守っていたシェハラザードはすっかりお株を奪われた形であったが、愛しいアインデッドが思いも寄らない大胆な方法でにっくきランを黙らせた上に、居並ぶ諸侯たちの目前で完璧にへこませてしまったので気分はとてもよかった。
 それにしても、その感想がどのようなものであれ、この一幕でアインデッドの名と姿がラトキア宮廷に深く印象付けられたのは確かな事であった。

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