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 アインデッドはむっつりとしたままそれを聞き流していた。人に頭を下げるのが昔から何より嫌いな彼にとっては、今だったら全ゼーアの皇帝にしてやると言われても断りかねない心境であった。
 シェハラザードはそんな彼の様子には全く気付いていない。
「ルクナバード伯爵、黒騎士団団長、右府将軍アインデッド、これへ」
 シェハラザードの方は、臣下たちの手前、なんでもない様子を取り繕ってはいたが、実は彼の喜びそうなものであったら摂政の座すら与えかねない気持ちでいっぱいであった。それでアインデッドが喜んでくれたであろうか、それともこんな程度では全く不足と思ってむっとするであろうかと内心どきどきしながら、小姓の捧げる宝剣を取り、マントの裾をさばいて進み出たのであった。
「アインデッド将軍、これへ」
 アインデッドはルカディウスのひそやかな目まぜになど全く目ひとつくれず、いよいよ本格的にむっつりとして、その剣の届く所までいざり出た。シェハラザードがふと眉をひそめた。
(やっぱり、この程度の恩賞では不足と思ったのかしら……仕方ないわ。後できちんと説明しておかなくては。物事には順序があるということを。……このあとの手柄によって、もっと高い地位に進んでもらうという事をわかってもらうのだわ)
「ラトキア大公シェハラザードの名において、アインデッド卿、ヤナスの祝福を」
 しかしシェハラザードのおもては全く能面のように無表情で、そんな内心の戸惑いを何ひとつ垣間見せてはいなかった。シェハラザードが大公の象徴たる宝剣の甲でアインデッドの肩に触れて祝福を与えても、アインデッドは片膝を立てたまま、低く頭を下げてうけたまわる仕草はしたが、あえて感謝の言葉だの、恐れ入った仕草などを見せようとは一切しなかった。
 武将たちの間でルカディウスが(剣を捧げろ、アインデッド!)と心で叫びながら両手をもみしぼってやきもきしていたのにも、完全に無視し通して、そちらを見ようともしなかったし、またシェハラザードに剣を捧げて騎士の誓いをしようというそぶりさえみせなかったのだった。
 シェハラザードはいくぶん眉を曇らせながらも気を取り直して、こののちもラトキアのためにいっそう働いてくれるよううんぬんと言葉を与え、新しい右府将軍を元の座に戻らせた。
 続いて次々と褒賞が行われ、マギードが新宰相に、グリュンが摂政、フェリス子爵セオドアがフェリス伯爵、ランを捕らえたハディースはその手柄により引き続いて白騎士団団長に任命され、ヘイゼルバード伯爵に格上げされた。
 続いてモリダニアのルカディウスを貴族に列し、参謀長の座を与える事が告げられた。彼は目を白黒させ、アインデッドに大いに気兼ねしながらこの思いがけない栄誉をうけたまわったのであった。
 さらにその後、個別に功のあった騎士たちへの褒賞がずっと読み上げられ、戦死した騎士たちや特にナハソールとその長男ドミニクスへの追悼の言葉が述べられていったが、アインデッドのむっつりとした面持ちはとうとうまるきり戻らずじまいだった。が、幸か不幸か、彼はシェハラザードの斜め後ろに立っていたので、シェハラザードはアインデッドの様子に気付かなかった。
 それからそれへと続く儀式はアインデッドにとってはただ、退屈なもったいぶった宮廷ごっこにしか過ぎなかった。――そうしてアインデッドは、さすがにここから飛び出して行ってせっかくの式をぶち壊したりするほど幼くはなかったけれども、沿海州でも特に自由な気風のティフィリスで育ったこともあって、このような格式ばった儀式には付き合いきれない気分にさせられていった。
(馬鹿みたいだな。こんな長ったらしい、意味のねえ儀式なんざ……。俺だったらこんな面倒な事はしないで、よくやった、って肩を叩いてやるのに。まあ、領地と名誉のために仕えてる貴族に、傭兵の流儀じゃ通じねえってのは、わかるけどよ)
(ラトキア右府将軍ルクナバード伯爵アインデッド卿――はっ、笑わせるぜ全く。こんなことならフリードリヒの言うことをおとなしく聞いて、一緒に海を駆けめぐってた方がどんなに良かったか知れん)
 アインデッドは目を閉じた。まわりの全ての、ラトキア宮廷の茶番劇が遠のいていくとみえたときだ。
「エトルリア公子ランをここへ!」
 鋭く命じるシェハラザードの声が、彼の物思いを一瞬で粉々に引き裂いていった。
(ラン・ターリェン)
 もとより――。
 アインデッドには知る由のないことでった。
 その広間――たまたま一番広かったからという理由で、にわか仕立ての謁見の間に選ばれたその広間。
 それこそは過ぎた日、エトルリア軍の本部として選ばれたその場所に他ならなかったのだ。
 その時、シェハラザードを見下ろしていた二公子のうちランはラトキアの虜囚の身となっているが、シェハラザードと共にいたエスハザード、ドニヤザードの二人の姉姫はすでにこの世にはいない。
 星辰はめぐり、かつての勝者はいまや敗者となり、そしてかつての敗者は自らの支配を取り戻してここに立っている。
「エトルリア第一公子ラン・ターリェン!」
 ふれ係の声とともにさっと大扉が開かれた。
 ランは手かせなどの戒めはなかったものの左右から数十人の兵士に囲まれ、よろいかぶとを引き剥がされ、しかし少しも悪びれた様子はなくのしのしと広間に歩み入ってきた。少なくとも彼は人格はどうであれ確かに胆力だけはすわっていたし、いたずらに死を怖れてもいなかった。
 それより少し後に同じように武装解除されたエトルリアの隊長たちが引き立てられていたが、彼らの方は今おかれている状況相応にうちひしがれたような表情を浮かべたり、青ざめたりしていたのであった。
 ランは新生ラトキアの将たちを薄笑いを浮かべてじろじろと眺めまわし、シェハラザードの白い頬にかっと血の気をのぼらせた。ランはシェハラザードには頓着せず、さらに玉座の左右に目を走らせた。グリュンやマギードなどをさも面白くなさそうに一瞥した後、反対側の斜め後ろに立っていたティフィリスのアインデッドに目を留めて、おやというように目を細めた。
 油断ならない表情で、得体の知れない光を黒い目に浮かべながら、これまでとは違う奇妙な関心を持って、ランはアインデッドを凝視していた。
(なんだ、こいつ)
 アインデッドはエトルリア公子にはほとんど関心はなかったものの、その視線にぎょっとした。
(ひょっとして、俺が街道筋のお尋ね者だと知ってるのか……? いや、でも俺をサッシャで追い掛け回したのはハン・マオだったよな。まあ、いまさらそんな事をこいつに知られたって、どうでもいいことだが)
 アインデッドは持ち前の楽天性でそう考え、ランの視線に応えるように、口許に挑戦的な笑みを浮かべた。今度はランがぎょっとする番だった。
「エトルリア公子ラン」
 シェハラザードはまた、彼女の肩越しに交わされたこの男たちの一瞬の対決に気付かなかった。彼女は彼女で、かつて彼女を手込めにしようとした男に戦勝の大将軍として毅然とした態度で臨まねばならぬという思いに、さっと燃え上がらせた頬を今度は蒼白に引きつらせていたのである。
「答えませい。……エトルリア第一公子ラン、しかと相違なかろうな」
「この俺に、名乗れと? いかにも俺はエトルリア公子、第一王子ラン・ターリェンだ。サン・タオ大公の命により、貴様らを征伐するため兵を率いてシャームに上ったものだ。これでいいのか?」
「……」
 その人を小馬鹿にした態度に、シェハラザードは声を荒げそうになったが、それではますますランをつけあがらせるだけだと考え直して、自制した。
「そなたはこれより我が国の虜囚として、留め置かれる事になるが、異存はなかろうな、ランよ」
「ふざけるな。こんな国、親父がすぐにでもつぶしてくれよう。それよりもさっさと処刑でも何でもするがいいさ」
 ランはふてぶてしい態度で言い放った。そこへグリュンが割って入る。
「ラン殿。今は戦端を開いた状態とはいえ、もとよりラトキアとエトルリアは友邦。その王子とはいえそのような態度をお取りになるのはあまり得策とは思えませぬぞ。ここは……」
「シェハラザード」
 ランの鋭い声が、グリュンの声を押しのけるように響いた。
「この陪臣を黙らせろ。うるさくてかなわん」
「ま、またものとは……!」
 グリュンが立ち上がろうとするのをシェハラザードは片手で制した。
「グリュン、そなたの気持ちは判らぬではないが、ここは控えておれ」
「これは、差し出た真似をいたしました」
 グリュンは息をついて引き下がった。
「ラン。そなたもそのような口を利くのはやめたほうがよかろう。それこそ引かれ者の小唄、見苦しいにも程がある。我もこの者たちも、お前の首をシャームの南大門にかけたくてうずうずしておるのだぞ」
 また静かになった広間に、シェハラザードの声が響いた。ランはにやにやと笑ってシェハラザードを見上げた。
「そうかそうか。ならば早く殺すがいい。おれは親父がこの国を滅ぼすのをきっちりと見届けてやるわ。それよりもシェハラザード、おれの首とまたあの時のような夜を過ごすか? あの時はお前は、毎夜老骨を奮い立たせてつとめる親父に飽き足らず、腰元とよろしくやっていてずいぶんと楽しそうだったな」
「なっ……!」
 シェハラザードはあまりの恥辱に耳まで朱に染めた。それでも、自制心を保てたのは感心すべき所であった。
「ずいぶんな言い条よな。まあよい。わらわの受けた辱めなど、ラトキアの民たちがなめた辛酸に比べれば軽いもの。そのような言葉でわらわを辱められるなどと思うな。今この場でおのれがどのような立場にあるのか考えてみるのだな」
「ふん。どうせおれは大事な外交の道具、殺すに殺せんだろう。さあ、処刑なり何なりしてみるがいいさ。俺はラトキア公国、新大公シェハラザードなど認めん。このような女や小人どもに殺されるなど癪ではあるがな」
 ランは言い終わると体をのけぞらせて笑った。
「この……!」
「なんたる傲慢!」
「倣岸無礼な!」
 諸侯たちのうちからも、批難と罵声が飛び交う。だがランはそれには全く動じないようだった。
 小気味よさげなランの高笑いが、ふと止んだ。

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