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     彼は嵐とともに生まれた
     運命すらも巻き込み
     駆け抜けてゆくその様は
     嵐そのものであった
         ――マリエラのサーガ




     第二楽章 嵐の序奏




「閣下、閣下――将軍閣下!」
 何度も呼ばれた後、もう一度頭の中で状況を整理してみて、アインデッドはようやっと呼ばれているのは自分だと気付いた。それでも、考え事をしていて気付かなかったようなふりをして、何とかその場を取り繕った。
「ああ――何だ? 敵に何か動きでも?」
「いいえ。大公閣下がぜひお会いしたいと仰せです」
 シェハラザードが自分に何の用か――といぶかしみつつも、アインデッドは小姓に答えた。先日名前を覚えたばかりの、ルキウスだった。
「じゃあお通ししろ……いや、こちらから伺うと伝えてくれ」
「かしこまりました」
 ルキウスが先案内をして歩いていくのについていきながら、アインデッドはいつもの自問自答を始めていた。
(しかし、この将軍閣下とか呼ばれるのにも、いいかげん慣れないとなあ。いつか間の抜けたことをしでかしちまいそうだぜ。まったく……偉くなるってのも案外大変なことだな。こんな性に合わないことを何十年も続けられるものかな)
「いくらなんでも何十年も開戦を待つなんてこと、ないわよ」
 突然、思考を中断されてアインデッドは飛び上がるほどびっくりした。いつの間にか、シェハラザードが隣に立っていたのである。
「な、いつの間に来てたんだ」
「あなたが遅いからこちらから出向いたのよ。声をかけても気付かないんですもの」
 シェハラザードは純白のよろいかぶとという、大公の第二種礼装に身を包んでいた。その姿はまさに地上に降りた女神然として、凛々しく美しかった。しかしアインデッドはそんな事に目もくれなかった。
「そいつはすまなかったな、公女殿下……いや、今は大公閣下か」
 小姓を帰らせて、二人は敵軍を一望できる丘の上まで来ていた。アインデッドも、旗本隊の純白の鎧に白い長いマントをつけていて、そうして二人が並んでいると、傍目からはいかにも信頼しあった主従のように見えた。
「動きがないのが、不気味なくらいよ。何かたくらみがあるのだとは思うけれど、それが何かはわからないし」
「斥候を出しているけれど、これといって目立った動きもなけりゃ、さらに援軍を頼むようなこともない。たしかに、変だよ。嵐の前の静けさ……そんな感じだ」
 シェハラザードは静かに頷いた。
「シャームからは何の便りもないの?」
「ああ」
 アインデッドは何となく、気の抜けたような返事をした。
「どうやら警備が固くて、密使も出せないようだ。それから、あんたが裏切り者呼ばわりしていたナハソール。彼もそうとう苦労しているらしいよ。今シャームを支配している長官のヤン・クンとかいうのにいびられててさ。それでもじっと耐えてるそうだ」
「もしかしたら、だけれど。寝返るチャンスをうかがっているのかしら」
 シェハラザードは小首を傾げながら言った。
「判らない。だが、その可能性は低いだろう」
「どういうこと?」
「密偵をシャームにやって、判ったことだがな。エトルリア軍は、彼の長男のドミニクスを人質にとっているんだ」
「何ですって」
 意外な言葉を聞いたように、シェハラザードは目を見開いた。
「離反するような動きを見せれば、即座にドミニクスは処刑される。だから息子の命を守るために、ナハソールはエトルリアに従わざるを得ないってわけなんだ」
「卑怯な」
 シェハラザードは悔しそうに唇を噛み締めた。アインデッドは続けた。
「恐らく、確実と思われていたナハソールのもう一人の息子、テオの軍からの連絡が途絶えたのも、このあたりに原因があると俺は踏んでいる。自分が独立軍に加わったことがエトルリア側に知られれば、兄が殺されるという情報を手に入れたんだろう」
「でしょうね……」
「さすがに、家族を見殺しにしてでも忠誠を見せろ、なんてことは言えないしな」
「むろんだわ。そんなむごいことを命じるなんて」
 きっとなって、シェハラザードはアインデッドを見上げた。支配者の理論としては、家族の一人や二人くらい犠牲にしてでも国のために忠義を捧げろと命じるのはたやすい。しかし実際に目の前で家族を失った彼女にしてみれば、そんな命令を下す事は言語道断であった。
「それでこそ、慈悲深い君主ってものさ」
 アインデッドはからかうでもない口調で言い、珍しくまっすぐにシェハラザードの目を見た。シェハラザードは何となく赤くなって、目をそらした。それから、話題を探して目を宙に泳がせた。
「あ、そ、そう、アインデッド。試しにだけれど、一度攻撃を仕掛けてみて、相手がどう出るかを見てはどうかしら」
「それは俺も考えてみた。だけど、それを機に一斉攻撃されたらこっちが全滅だ」
「そうね……」
 二人は、それからまた黙ったまま、敵陣営をしばらく眺めていた。ふと空に目をやったアインデッドが呟いた。
「一雨きそうだぜ。全軍に雨避けの天幕か何かを張るように伝令だ」
 アインデッドはそれこそティフィリスで言えば「晴れた日にはゼフィール港からマノリア諸島が見える」ほど良い目をしていたので、遠くにぽつんと現れた雨雲を見つけたのだった。
「え、でもこんなに晴れているのに」
 シェハラザードの戸惑ったような声に、アインデッドはちょっと優越感を感じながら、伝令を呼びにいった。
「嵐が来るぞ!」
 アインデッドの予測どおり、その夜は激しい風雨となった。
 叩きつける雨音と、絶えずざわめき続ける草原の葉擦れの音が、嵐の港によく似ていて、アインデッドは目を覚ましたときそこがティフィリスで、そばに母がいるのではないかという錯覚を起こしていた。
 激しい雨が窓を打ち叩く音に怯えて目を覚ますと、いつも母がそっと抱き寄せて、優しい声で他愛のない昔話を語ったり、子守唄を歌ったりしてくれた。そうするとアインデッドは、柔らかな温もりの中で安心して眠る事ができた。それも、ごく幼いころにしか与えられなかった優しい思い出であったが。
「……」
 闇を探って伸ばした手に、一回り小さい手が触れた。
「閣下、お目覚めですか?」
「うわっ!」
 アインデッドは弾かれたように飛び起きた。そばにはラトキア人の小姓が一人。そして見慣れた天幕。相変わらず風は強い。
「あ……」
「どうかいたしましたか。だいぶうなされておいででしたが」
「あ、いや、昔の夢を見ただけだ。それより、何か飲み物を」
「かしこまりました」
 ため息をつきながら汗で顔に張り付いた髪をかきあげるが、長い前髪はすぐに落ちてくる。アインデッドはもう一度寝る気分にもなれずに、軍装に着替えることにした。まもなく戻ってきた小姓の手からグラスをひったくるようにして中身をあおった。彼好みのアーフェル水に申し分はなかったが、酒であればもっといいのに、とアインデッドは思いながら一息ついた。
「すげえ風だな。ラトキアはいつもこうなのか?」
「いいえ。この時期はふつう、落ち着いた天候が続くのですが」
 答える小姓の声が震えているので、アインデッドはくすりと笑った。
「こんな嵐が怖いのかよ」
「は……恥ずかしながら、このような場所で嵐に遭いますのは初めてで……」
 アインデッドはすっかり気分を直して、にやにやしながら小姓相手にお喋りを始めた。そうでもしなければ、彼は一騎で敵陣に駆け込んでいきかねないほどむしゃくしゃした気分だったのだ。
「俺は嵐の夜に生まれたんだ。ゼフィール港がこれまでにないくらい大荒れした日だったそうだ。だから、俺の血の中には嵐のエネルギーみたいなものが流れてるのかもしれねえ。嵐っていうと、何故かしら血が騒ぐんだよ。アインデッドって名前だが、ラストール(嵐)でも良かったかもしれねえ、なんて思うぜ」
 小姓の方は面食らってしまって、相槌を打つのもしどろもどろだったが、アインデッドはそんなことはもう気にしていなかった。やにわに立ち上がり、マントを引っ掴んで天幕の戸を跳ねのけて外に出て行こうとした。小姓が慌てて引きとめる。
「閣下、どこに行かれます! わたくしもお供いたします。いえ、こんな嵐に外に出られては、折れ枝にぶつかってお怪我をなさいます。どうかお留まり下さい!」
「馬鹿か。俺はそんなどじはふまねえよ。自分の身くらい自分で守れらあ。そんな、人を風にも当てぬ姫君みたいに扱うな」
 アインデッドはそのまま出て行こうとする。小姓は既に半分泣き顔でマントにすがり付いてでも引きとめようとしていた。
「危のうございます。お願いですから、明日になさってください。それ以外のことでしたら何でも結構ですから、外に出られるのだけは思いとどまってください!」
「今じゃないと意味がねえんだ! それならなんだ、お前、よーし、今夜の伽を申し付けるぞって俺が言ったら、はいはいと尻を差し出すつもりか? ええ?――あ、俺には間違ってもそんな趣味はねえぞ。今のはたとえだ」
 上品育ちの少年は、アインデッドの下品な言葉の意味をつかめず、きょとんとした顔でアインデッドの横顔を見上げた。これ以上引きとめはしないと思って、アインデッドはさっさと出て行ってしまった。
 一歩外に出ると、とたんに雨と風が叩きつけてきた。雨はそれほどでもなかったが、風は沿海州に特有の台風を思わせる勢いだった。細身のアインデッドはしっかりと踏ん張っていないと飛ばされてしまいそうだった。それよりも飛ばされそうなマントを体に巻きつけ、昼間にシェハラザードと登った丘に登っていった。
(ああ――何もかも流されちまえば、どんなに気持ちいいかしれねえ……。いくさなんかどうだってよくなっちまう。そういうわけにゃいかんだろうが。この風じゃ、エトルリアの方も大変だろうな)
 激しい風雨に身を打たせ、まとめていない髪を風に遊ばせるままにして、アインデッドは半ば呆然自若としてそこに立ち尽くしていた。嵐はアインデッドにとって、彼の代わりに暴れてくれる、彼の代弁者のようなものであった。嵐が激しければ激しいほど、アインデッドの鬱屈も晴れてゆく。だから、だんだんと風が優しくなり、雨が止んで雲の切れ間から星が見え出したときにはがっくりときた。
「ちっ……。もう終わりかよ。もう一荒れしてくんねえかな」
 身も蓋もないことをアインデッドが思いながら、丘の下のエトルリア軍に目をやったとき、視線が凍りついた。
「何だ……?」
 次の瞬間、アインデッドはシェハラザードの天幕目指して走り出していた。シェハラザードがうら若い女だろうが、まだ眠っている時間だろうが、アインデッドには全く関係がない上に、それどころではない状態だったから、彼は案内も請わずに天幕の入口の布を跳ね上げて中に入っていった。
「おい起きろ、起きねえか。大変なんだよ。さっさと支度しろっ!」
 シェハラザードは目を覚ました途端にアインデッドの罵声が飛んできたもので、悲鳴を上げようとしたが手で口を塞がれてしまった。その場に一緒にいたタマルなどは、驚きのあまり悲鳴を上げることもできずに失神寸前になっていた。
「さっさとこっちに来い。見せたいものがある」
「な、あ、女性の寝ている場所に、案内も請わずに入ってくるなんて、どういう……信じられないわ」
「ああ、俺は盗賊だからな。さ、来い」
 アインデッドが有無を言わさず引きずり出そうとするのを辛うじて振り払い、シェハラザードは夜着の襟元をかき合わせた。
「こんなかっこうで兵士たちの前に出ていけと言うの? あなたがそんな大騒ぎをしているということは、彼らも起こしたのでしょう?」
 アインデッドはシェハラザードをちらりと一瞥して、いま気付いたと言わんばかりの口ぶりで言った。
「別にいいんじゃないか? 裸じゃあるまいし、そんな寝巻きのゾロゾロしたのを着てるとなかなか色っぽいぞ」
「な……なんてことを」
「ほら、来いって!」
 手首を乱暴に掴み、アインデッドは大股に歩き出した。シェハラザードは小走りでそれについていく。雨でまだ濡れた地面をしっかりした足取りで歩いているのを見たかぎりでは、彼が酔っているようには見えなかった。夜風で冷える体をシェハラザードが右腕で抱きしめていると、アインデッドがマントをかけてくれた。ぴたりと足を止めたのは、昼間の丘の頂上だった。
「あれを見ろ……見えるか?」
「え、ええ……」
 アインデッドの指し示す方向を見ると、昨日までは、昼間までは何の動きもなかったエトルリアの陣形が変わって、ゆるゆるとこちらに向かってくる一軍があった。
「あれは、『エトルリアの楔』陣形だ。馬を鎧でつないで壁を作り、両翼が張り出して敵を囲む。あれは無敵と言われる、エトルリア最強の陣構えだ。向こうはとうとう、やる気になったようだぜ」
「そのようね」
 シェハラザードは小さなくしゃみを一つして答えた。アインデッドはこれだけを彼女に見せたかったらしい。

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