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「少々お待ちを、マギード殿。早とちりなさらないでください。ル……ルカディウスの申しますことには、少々間違いがございまして」
 アインデッドはよろよろと立ち上がった。やっと、言うべき言葉を見つけ出した。ルカディウスがアインデッドを見上げ、何も言うな、というような目配せをしたが、どうにも後でぼろが出そうな嘘だけはつく気になれなかった。アインデッドは自慢話が過ぎてのほら話をするのは大好きだったが、全く事実無根、正真正銘の嘘をつくのは、そうしなければ絶体絶命という時以外、できれば回避したかったのだ。
「フリードリヒ大公はたしかに俺を実の子のように可愛がってくれてましたが……俺自身は、もとは孤児……だから、そんな、高貴の生まれというわけでは、ないんです」
 それだけ言うのにも何度も唾を飲み込んで、汗をぬぐった。マギードは呆気に取られて口を開けたままだったし、ハディースはアインデッドの青ざめた秀麗な顔をじっと見つめるばかりであった。気まずい沈黙が流れた。
「それでも一応あなたは、ティフィリス大公と縁の深い間柄なのね?」
 シェハラザードがだいぶ元気を取り戻して、言った。
「あ、ああ」
 アインデッドは頷いて、もう少し詳しい説明が必要かと思い、付け加えた。
「母が知り合いだったらしくて……。成人したら養子に迎えるという約束で、養育されていたんだ」
「なら問題はないわ」
 アインデッドは一瞬、この二十になるやならずの若い公女の考えていることが判らなかった。
「問題はないわよ。養子になるはずだったというのなら、あなたの言ったことはまるっきりの嘘ではないんだから」
 シェハラザードは憎たらしいくらい落ち着きを取り戻していた。
「生まれはどうであれね。どうせわたくしも、今でこそラトキア公女の地位にあるけれど、ラトキアという国が滅びればそれも何の役にも立たないということをこの一年で思い知ったわ。それに父上はもとは領地もない一介の騎士に過ぎなかったというし。生まれなど、このラトキアでは大したことではないわ。ねえ、ハディース」
「はあ」
 一介の傭兵からその武功と頭のよさで貴族に取り立てられたという経歴を持つハディースだが、その返事は気のないものだった。
「ラトキアではそうかもしれないが、ただ、俺はちょっとやばいことになってるからな……これでティフィリスに戻ったりなんかしたらそれこそ、フリードリヒよりもルートヴィヒの豚野郎が狂喜するだろうな……まああれもヤナスの導きと思えばしょうがねえことだけど……。あいつに追っかけまわされたもんだから俺はこんなラトキアくんだりで盗賊なんかやるはめになっちまったことだし……」
 アインデッドは最後の方は口の中でごにょごにょ言ってごまかした。しかし、素直に経歴を明かしたことは、マギードやシェハラザードにはともかく、もとからあまり家柄が高かったわけではないハディースの信頼を勝ち取るには一役買ったようだった。
「義理の叔父上に当たる方に豚野郎とは、よほどのお恨みでも?」
「よほども何も!」
 マギードが苦笑しながら尋ねた。その途端、アインデッドは堰を切ったように喋りだした。しかし何事も直感で動く上に思慮深さなど薬にもしたくないアインデッドのことである。このさい、何か隠しておいても得にならないことは喋ってしまおうという考えがあったとも思えない。
「あいつが俺の友達に惚れたのがきっかけだったが、親切心でそいつの父親を助けてやったら、逆に惚れられて、あいつが俺の尻を追っかけ回すような真似をしたせいで俺はあいつに誘拐されるわ手下に殴られるわ、城ん中迷うわ、あげくに故郷を捨てなきゃならなくなるわで、とにかくまともな目には遭ってねえんだ。あいつの馬鹿面蹴り飛ばしただけじゃ済まねえや、今度会ったらそれこそ重りをつけてゼフィール港に沈めてやりてえくらいだよ!」
 そのあまりの剣幕に、一堂もしんとなってしまった。言いたいことをあらかた言ってしまうと、アインデッドは落ち着いて席に着いた。ルカディウスにとっても、ルートヴィヒに何故追いかけられるような事になったのかまでは知らなかったので、早口で一気にまくし立てられてもしっかり聞き耳を立てていた。
 その中で、シェハラザードはあくまで平静を保とうとしていた。
「それで、ティフィリスはあなたがここにいれば動いてくれるのかしら?」
 アインデッドは冷や汗をかかされたのと、嫌な記憶を引きずり出されて思い出したのとで徐々に不機嫌になりつつあったが、彼女の質問にも答えたくないほどの不機嫌ではなかったのでむっつりしたまま言った。
「よけりゃ動く。悪くても敵にはならんだろう」
「それで充分だわ。のちのち恩を着せられて不条理な要求などされたら困るもの。よかったわ、これでティフィリスとの交渉も上手くいきそうね。あなたがいると知ればさしも陰謀家のティフィリス大公もそんなに無理難題をこちらに突きつけるわけにはいかないでしょうし」
 シェハラザードは微笑んだ。今回も何とか乗り切ったとはいえ、またしてもルカディウスのせいで危ない橋を渡らねばならない状況に追い込まれた、とアインデッドは思い、ひそかな憎悪と怒りをはらんだ目で隣のルカディウスを睨んだ。ルカディウスはとぼけた顔でそっぽを向いている。
(とぼけた顔しやがって。いつか、これより百倍は危ねえ橋をお前に渡らせてやる。みてろよ、こん畜生め)
「それはともかく、今は挙兵についての話し合いを」
 ハディースがそれとなく話題を変えた。アインデッドの身も蓋もない評価は、『いけすかねえおっさん』から『いいところのあるおやじ』に変わっていた。むろん、そんなことをハディースが知る由もなかったが。
 やっと軍議が再開された。マギードとハディースに説明するのと、シェハラザードへの再度の確認の意味を兼ねてルカディウスは現在の援軍の状況を伝えた。
「フェリス子爵ハイラード卿の遺児セオドア卿からの密書によれば、こちらからのろしが上がり次第いつなりと討って出るとのこと。またポーラ伯アベラルド卿からも、陣頭指揮を執ることはかなわないまでも、五千は集めるとの確約を取り付けています」
 マギードが口を開いた。
「これは私が連絡を取りましたが、クラインの叔母のもとに身を寄せている、ナハソール殿の息子テオは、シェハラザード様の挙兵と同時に、連れて逃げた親衛隊と、黒騎士団を引き連れ帰国するそうです」
「父親はともかく、息子は忠義に篤いようね」
 シェハラザードが言った。
「おそれながら、シェハラザード様」
 ハディースが彼女の言葉を遮った。
「ナハソールは決して、ラトキアへの忠義を忘れたわけではございません。シャーム陥落から二ヶ月ほど経ったおり、捕らえられた武将たちを逃れさせようと、地下組織を通じて連絡をつけ、彼らと直接話をしたのです。エリフやレスターは果敢に死を受け入れようとそれを拒みましたが……。その時にナハソールはこう申しておりました。『私は早めに降伏したので、エトルリア軍もさほど警戒しておらず、処刑されるようでもないらしい。上手く取り入って寝返ったように見せかけ、ある程度の兵力を掌握できるように図ってみようと思う。正当な支配者のもとにラトキアが甦るその日まで、たとえ売国奴の謗りを受けようとも、私は耐えてみせる』と。その時の彼の涙を、私は信じております」
「それは一年以上も昔の話。人の心など弱いもの。今はどうなっているのかなど判らない。信じたいのはやまやまだけれども、無条件に期待はできないわ」
 シェハラザードの心は揺らいだが、あえて厳しい態度を崩さなかった。
「しかし、ナハソールの一万は大きい。これを計算に入れるのと入れないのとでは、今後の計画に大きく影響する」
 それまで不機嫌に黙っていたアインデッドが言った。
「その話のとおりナハソールがいまだツェペシュ大公家に忠誠を誓っているのだとすれば、彼の一万がこちらに寝返るのは確実だろう。もし一年のうちに彼が心変わりしていたとしても、公女の旗揚げと聞けば忠誠を思い出すのではないだろうか。少なくとも――スエトニウスよりはあてにできると俺は思うが、どうだろう」
「スエトニウスか」
 ハディースはちょっと顔をしかめた。どうやら彼の事をあまりこころよく思っているようではないらしい。
「今、彼はどこに?」
「僅かな手兵を率いてラトキアを逃れ、現在までラエルのデーン議長の弟に嫁いだ娘のもとに身を寄せているとのことです」
 ルカディウスがそつなく答えた。
「いかにもあやつらしいな」
 苦々しそうにハディースは言った。
「そのスエトニウスの手兵はいかほどか」
「僅かな供回りのみを率いて逃げたとのことで、確たる数字はわかりません。おそらく千を越える事はないでしょう。もしも彼がラエルで義勇兵を募ってくれるのであれば、それはかなり大きいかとは思いますが」
 ルカディウスの言葉に、ハディースは首を振った。
「身内の恥をさらすようだが、ここは何も包み隠さず言っておいたほうがよいだろう。アインデッド殿が言ったように、スエトニウスはあまりあてにならぬ男だ。我々の勝利が確たるものとなれば参戦する可能性はあるが、今の時点ではあやつの援軍はないものと考えたほうがいい。それよりは、ナハソールをあてにしたほうが良い」
「だがハディース殿、それはシャームに近づき、ナハソール殿の率いる軍が我々と直接対峙する時になるまでわからないな。エトルリア側が完全に彼を信用しているとも思えぬし、一軍を預けている以上、彼に全く監視がついていないとは考えられない。そうとあってはめったに密書など渡せるものでもない」
「マギードの言うとおりだわ。もし我々が寝返りを勧める密書など送って、それがエトルリアの知るところになれば、ナハソールにそのつもりがあっても不可能になってしまう。ここは、運を天に任せるしかないわ」
 シェハラザードはその白いおもてに心なしか悔しさをにじませた。
「さあ――援軍の話はここまでとして、我々の行動を決めましょう。ルカディウス、わたくしたちの最初の予定では、ここで少なくとも二万、できれば二万五千は集めてから挙兵と、そういう段取りだったわね?」
「さようにございます」
 その返事に満足したように頷きかけ、シェハラザードはマギードとハディースを見やった。
「二人の軍勢を加えて、現在幾らになるの?」
「名簿などはまだ出来上がっておりませんので詳しい数字はまた判りませんが、概算で二万八千ほどかと」
「では人数の問題はそれでほぼ解決した、と言えるわけね」
「ああ」
 それに答えたのはアインデッドだった。
「マギード殿とハディース殿の兵士たちに、砦の外で野営してもらっているので判るとおり、お二方の援軍のおかげで、我々の軍勢はこの砦の収容人数をはるかに越えた。これだけの人数がさらに外の目を逃れて潜み続けるのは難しい。――これ以上ここにとどまるのは無理だ」
「――では」
 シェハラザードはごくりと唾を飲み込んだ。一年以上もの長きにわたって望んできたことであったけれども、いざそれが目の前で実現されようという今になって、奇妙なほどの緊張と恐れが生まれたのだ。
 だが、一旦口にしかけた言葉は止まらなかったし、彼女は言わねばならなかった。
「いよいよ旗揚げね」

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