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                                *



 そのような会話があってから、三日が過ぎようとしていた夜のことであった。アインデッドは部屋の扉がかすかに軋む音に目を覚ました。
「誰だ――? どうした」
「おかしら」
 声の主は徹夜の見張りに立っているはずのオールデンだった。彼が何かを言う前から、アインデッドはその意味するところを察した。
「何かあったのか」
 素早く起き上がり、蝋燭に火をつける。赤っぽいぼんやりとした光の中に、二人の姿が幽鬼めいて浮かび上がった。
「何か判らねえ。でも森の向こうに何か、松明みたいな光の列がちらっと見えた。気のせいじゃねえ。確かに見たんだ」
「方角は? こっちに向かってる様子か」
「北の壁から見てたら、右の方に。すぐに木のかげになっちまいやがって、しかとは確かめられなかったがよ」
 アインデッドは悔しそうに下唇を噛んだ。だが、すぐに顔を上げた。
「……俺も行こう。オールデン、お前はルカディウスにもこの事を伝えて、やつを連れて戻って来い。それから、寝てる奴らを叩き起こして、前から言い渡しておいた配置につかせろ」
「そっちにゃ、もうシロスが」
「さすがだ。手際がいいな」
 やや得意そうなオールデンに、アインデッドは微笑みかけた。
「お姫さんには、いかがしやしょう」
「シェハラザード公女には何も言うな――。今へたに出てこられて見つかったらことだ。言わなきゃならねえときには俺から伝える」
「わかりやした」
 一つ頷いて、オールデンは闇の中に再び消えていった。
「全く、こんな時に――」
 アインデッドは毒づこうとして、悠長にそんな事をしている場合ではないことにすぐ気付いて口をつぐみ、完全武装している暇はなかったので胴当てと小手当てだけを身につけて部屋を出た。
 砦はにわかに慌しい空気に包まれた。こちらは規模を知られぬようにかがり火を最小限におさえ、壁の隙間から矢をつがえて待機する一隊、門の後ろに土嚢や逆茂木を設置する一隊などに分かれて、手筈どおりの作業を進める。その合間を抜け、時々彼らに言葉をかけつつ、アインデッドは正体不明の一軍が確認された北側の城壁にたどりついた。そこではすでにルカディウスとオールデンが待っていた。
 鼻をつままれても分からぬほど暗いタリムの夜ゆえに、そのうねうねと続くかがり火の行列ははっきりと確認することができた。その数は少なく見積もっても一万ほどもあるだろうか。
「まさか、エトルリアの」
 言ってみて、ルカディウスはそんな悲観的観測を口にしたらアインデッドの気に障りはしなかったかと、遅まきながら心配して様子を窺った。だが心配とは裏腹に彼はルカディウスの言葉などまったく気にしていなかった。耳に入ってすらいなかったのかもしれなかった。
「早い……いくらなんでも、早すぎる」
 アインデッドは何ともいえない感情をこめて呟いた。
「そんな事を言ったって、遅かれ早かれいつかは」
「お前に言われなくたってそれくらい判ってる。いちいちうるせえんだよ、お前は」
 今度は聞き逃さず、たちまちアインデッドは険しい響きを帯びた声でそう言い渡すと、ルカディウスをその場に置き去りにして城壁を下りた。ルカディウスから逃げようとしたというのもあるだろうが、そこにいた、いてはならないはずの人物の姿を見つけたからでもあった。
「馬鹿、何があっても出てくるなとあれほど言っといたじゃないか。こんな所で何をしてる。タマルは?」
 白い夜着のドレスにガウンを羽織っただけという格好のシェハラザードを、アインデッドはやや乱暴な動作で肩を掴んで引き寄せ、慌しく動き回っている部下たちの目にふれないように壁際で自分のかげに隠した。
「タマルには、あ……危ないから残っているように言ったのよ。それは、あなたの言っていることも正しいのは判るけれど、わたくしだって当事者なのよ。何が起こっているのか知る権利はあるわ。一体何事なの、アインデッド」
 アインデッドの剣幕に押されそうになりながらも、シェハラザードは尋ねた。この状態で隠せるものでもなく、アインデッドは素直に告げた。
「正体の知れねえ軍が近づいてきてる。数は一万ってところだろう」
「敵襲なの?」
「それはまだわからねえ。敵だった場合に備えて迎え撃つ準備をしてる」
「早すぎるわ……せめてあと一ヶ月あれば……」
 シェハラザードは先刻のアインデッドがそうだったように唇を噛み締めてうなだれた。だが彼の方は既にそんな感慨は実際上の問題に追いやられて消えていたので、きわめて冷静だった。
「今ここで何を言ったってはじまらねえ。その時の最善を尽くすまでだ」
「もし、本当に敵襲だとすれば――捕まれば、今度こそわたくしはどんな不利益なことがあろうとも殺されるでしょう。わたくしはとっくに死んだ身、覚悟はできているけれども、あなたとて無事にはすまないわ。お尋ね者の上に、反逆の首謀者ということでは――きっと、全ての責任を負わされて、拷問の果てに処刑されるでしょう」
「判ってるよ、そんなことは。判っててあんたを助けたんだ」
 ぶっきらぼうにアインデッドは言った。
「死ぬときは一緒だ。エトルリアの手に落ちる前に、俺がこの手に掛けてやる」
「え――」
 何か意外な言葉を聞いたように、シェハラザードが銀色の髪を振って顔を上げた。
「だからシェハラザード公女、あんたはとにかく――」
「アインデッド!」
 ルカディウスの鋭い声が降ってきたのは、おとなしく部屋に戻っていろ、とアインデッドが言おうとした時であった。
「何だ?」
「やつらの掲げている旗印が……とにかく上がってきてくれ」
 アインデッドはすぐに梯子に足をかけ、それから追いかけるべきか否か迷っているらしく、両手を胸の前で組み合わせて彼を見上げているシェハラザードを見つめた。一瞬の逡巡の後、深いため息と共に彼は言った。
「一人で上れるか? 公女」
「大丈夫よ」
 シェハラザードは頷き、彼の後ろに従って梯子を上っていった。ルカディウスの指し示す方向に目をやり、彼女は思わず声を上げた。すでにタリム砦から二十バールもない場所に押し寄せ、ずらりと並んだ謎の一軍、その掲げる旗印。
「あれは、ラトキアの――!」
 松明の光に照らし出され、おぼろげにその輪郭と模様を浮かび上がらせているのは、剣にからみつく蛇の紋章――シェハラザードにはよく見慣れた、懐かしいラトキアの旗であった。
「ラトキアの旗だわ! それにあれはラトキア騎士団の鎧――身間違えるはずもない。早く門を開けて! あれは味方よ」
「馬鹿を言うな、シェハラザード公女」
 下にいる門番たちに呼びかけようとしたシェハラザードを、アインデッドは慌てた様子で止めた。
「あんたはすぐにそうやって早合点して先走るのがいけねえ。味方だとは思いたいが、あんたをおびき出すためのエトルリアの罠だったらどうするつもりだ。誰何して、何者か確かめてからでなけりゃ、門を開けるわけにはいかない」
 この場合アインデッドの言うことに一理あるどころか、まったく正しかったし、その通りだったので、シェハラザードも反駁できなかった。しかし素直に非を認めるのも性分に合わず、俯いてぼそぼそと言い訳がましいことを口にした。
「あまり懐かしかったので、つい少し興奮してしまっただけよ。そんな……」
 しかしシェハラザードの言い訳など、アインデッドは聞いていなかった。一軍の合間から、ひときわ目立つ青と白の二騎が進み出て、声を張り上げた。
「開門――開門を願う!」
「あの声は……」
 聞き覚えがあるような気がして、シェハラザードは眉を寄せた。
「何者か! 名を名乗られよ! またどのような用向きを以って参られたか、お聞かせいただこう!」
 アインデッドが朗々とした声で返した。
「それがしはラトキア青騎士団団長ネフィ・ステラが遺児、青騎士団副団長マギード・ステラと申す者!」
「ああ――」
 シェハラザードはへたへたとくずおれそうになる体を、アインデッドの腕を両手で掴んで何とか止めた。腕を痛いほど握り締められていたけれども、アインデッドは文句を言わなかった。彼女が受けているだろう衝撃は彼にも察せられたので。
「それがしは白騎士団団長ハディースと申す! こちらにシェハラザード公女がおわすと聞き及び、ラトキア奪還は我らすべての悲願であるところ、我らが公女をお助けすべく兵を率いて馳せ参じた次第である!」
「アインデッド、あれは――あれは本物よ。断言できるわ」
 シェハラザードはほとんどかすれたような声で言った。
「門を開けて。保証できるわ。あれは罠なんかじゃない」
「――わかったよ。おい、開門だ! 門を開けろ!」
 アインデッドは下に向かって怒鳴った。丸太を並べて作られた素朴だけれども堅牢な門が、十人がかりの力で軋みを上げながらゆっくりと開かれていった。門が開かれたと見るや、青と白に塗り分けられた軍勢は速やかに中に入った。その先頭に立つマギードとハディースに、シェハラザードは涙ぐみながら駆け寄った。
「マギード兄さま、ハディース! よく無事で!」
 シェハラザード決起の噂を聞きつけて駆けつけてくれた軍勢を迎えるのに、夜着にガウンといういでたちはいささか格好がつかなかったが、それについては二人とも、というか三人とも気付かないようだった。
 先日聞かされた話で半ば諦めかけていた援軍が思いもよらず現れ、それが義理の兄ともなるはずであったほどに親しく懐かしいマギードと、幼い頃から遊び相手をしてもらっていたハディースであったので、シェハラザードの感情はいやが上にも高まっていた。それに二人のほうも、彼らの第三公女がこうして無事にエトルリアの手を逃れ、目の前にいるということに感動していたのであった。
「シェハラザード様も、よくぞご無事であらせられました」
 三人は互いに抱擁を交わし、シェハラザードは彼らの頬に口づけし、その感動を表すのにしばらく没頭していた。それで、やや辟易したように彼らを見守っていたアインデッドと、その隣のルカディウスに気付くのは少々遅かった。
「シェハラザード様、こちらの方は」
「ああ――」
 ハディースがやっとシェハラザードに尋ねた。シェハラザードが何か言う前に、アインデッドは片足を引いて略式の礼を取った。もとから演技は得意な上に、遠い昔のことではあったがティフィリスで一通りの礼儀作法を仕込まれている。やろうと思えば彼は自分をいくらでも優雅に見せることができた。
「お初にお目にかかります。それがしはティフィリスのアインデッド・イミルと申す、いたって身分低きもの。かつては赤い盗賊を率いる無頼の徒として人心を脅かしてまいりましたが、エトルリアの非道、シェハラザード姫の窮地を聞くにつけ義憤の念やみがたく、この非道を看過するは人の道にさらにもとること、かくはラトキア再興のため及ばすながら尽力せんと、姫をお助け申し上げた次第。以後お見知りおき願わしい」
(まあ)
 この流暢な自己紹介に、シェハラザードは内心驚いて目を見開いた。あまり驚いたのでそこにあった幾つかのちょっとしたごまかしに言及するのも忘れてしまった。
 シェハラザードの方は今までの下品で乱暴なアインデッドをいやと言うほど見せつけられてきたので、この豹変ぶりに驚いたわけであったが、初対面であるマギードとハディースは何も気付くわけがなく、彼のこの上もなく優雅で貴族的な一礼と語り口にすっかり安心し、「赤い盗賊」という単語が聞こえたかどうかも定かでなかったし、聞こえていたとしても大したことではないかのように思われた。
 続いてルカディウスも礼をして挨拶したのだが、こちらはあまり貴族的とは言いがたかったのは確かである。
「これは丁寧なご挨拶、いたみいる」
 ハディースも軽く一礼した。マギードの方は歳が近かったこともあってかもう少し友好的であった。
「アインデッド殿、おもてを上げてください。ティフィリスと申せばラトキアとは縁もゆかりもなき沿海州、はるばると遠きところで一人戦う心中お察しいたします。この上は盟友として、共にラトキアを盛りたててまいりましょう」
「かたじけないお言葉」
 微笑んで手を取られつつ、こんな能天気そうな奴と一緒にやっていけるのだろうかと、アインデッドは身も蓋もないことを考えていたのであった。

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