前へ  次へ

       一五四四年、青獅子の年はラトキアにとり
       苦難の年に他ならなかった。
       しかし時は巡り、辛苦のときは終わろうとしていた。
       新たなる年は狼の年であり
       救国の英雄は天狼の星のもとに生まれた者であった。
       その名をティフィリス語で『唯一の運命』という。
       ラトキアの解放は既に定められたことであった。
                        ――ゼーア年代記




     第三楽章 戦いの序曲




 或いはそれは、これから始まる怒涛のような日々の前にヤナスが与えた、ほんの束の間の休息であったのかもしれなかった。
 さんざん歓を尽くし、そのまま倒れて翌日の夕方近くまで眠りこけて、長い行軍の疲れを癒した人々は、さっそくルカディウスの指揮下でタリムを使用可能な砦にするための土木作業に取り掛かった。盗賊とは言っても、その本来の職業は大工や左官、石工、農民と様々である。それが互いに教えあい、助け合って、どんどん作業ははかどってゆく。
 ルーハルでもどこでも、これは彼らのやり方として手なれたものであったし、この先もし軍勢に囲まれて篭城ということにでもなれば、この砦をいかに堅牢に作っておいたかどうかが命綱となる。それがわかっていたので、誰もこの仕事に不平を言わず、手を抜く者もいなかった。
 といっても、いにしえの威容を取り戻す本建築というわけではなかったけれども、ともかく風雨をしのぎ、何ヶ月かを立てこもって敵を迎え撃つには充分な、石の城壁に囲まれた丸太の砦が出来上がっていった。
 その間に、ルカディウスは別働隊を選び、細々と指示を与えていずこへともなく出発させた。その中には荷車いっぱいに食料、水、武器や薬や、日常の必需品を積んですぐに帰ってくる者もあったけれども、どこに何をしに行ったものか、仲間たちもしかとは知らない、あやしげで得体の知れない任務に就いて姿を消したきり戻らぬ者もいた。しかしルカディウスは、別段その戻らぬことを心配するようでもなかった。
 また、アインデッドは盗賊たちがれっきとした傭兵部隊として使えるように班分けをし、命令系統を確立し、砦の建築作業の合間に少しずつ訓練を施した。この森の中では馬を使っての練兵をするわけにはいかなかったが、剣にせよ弓矢にせよ、大半が自己流の盗賊たちにとっては、それはなかなか厳しい訓練であった。
 そうするうちに、次第にタリムの砦はその姿を現しつつあった。少しずつ、噂を伝え聞いてこの一味に加わりたいと訪れてくる者も現れるようになった。しかしアインデッドたちはその志願者たちにはきわめて厳格な審査を施し、決して監視の目を緩めぬように気を配った。何といっても彼らが最も恐れていたのは、エトルリアの間者に入り込まれることであったからだ。
 エトルリア宮廷が、まんまとその手を逃れたシェハラザード公女の行方を、草の根分けても見つけ出せというサン大公の厳命のもとに探しつづけ、多額の賞金をかけているということは、ルカディウスの忍び込ませた密偵が早くから掴んでいた情報であった。
 それにシェハラザード当人はうまく隠しおおせるにしても、たくさんの怪しげな男たちが集って何か企むようだとエトルリア方に知られれば、何らかの密偵が送りこまれないはずがないのだ。旗揚げの日までなんとしてでも秘密を保ちたい――それがアインデッドとルカディウスの悲願でもあったし、といって付近に兵を募るふれを回さぬわけにはいかないのも事実だった。
 だからアインデッドと、ことに軍師を務めるルカディウスにとってはそれほど安閑として過ごしていられるわけでもなく、むしろ気苦労が絶えないのがありていなところであった。だがルカディウスは、自分たちが動揺を見せては下っ端の盗賊たちの更なる動揺を誘うと心得ていたので、内心はどうあれうまくいっているというポーズを崩さなかったし、強情我慢のアインデッドに至っては、弱音を吐くところを見せるくらいなら死んだほうがましだと思っていたのはむろんのことである。
 そんな中で、シェハラザードとタマルの二人の娘たちはまったく特別の扱いを受けていた。万一にもエトルリアの密偵にその存在を気取られぬよう、いちばん最初に、奥まったいわば本丸の小屋を完成させてそこに二人を移すと、アインデッドは二人に不自由だけれども自由勝手に外に出ぬよう、と言い渡した。
 これはシェハラザードにとっても、自分たちの安全と宿願のためであるのだから、異存のあるはずがなかった。アインデッドは気前よく二人のために専用の護衛をつけ、入用なものはできるだけ整えてやり、また自由に行動してもよい時間と場所を定めてその間は気心の知れぬ新入りたちは訓練と称して遠ざけるなどした。
 初めの晩のように自由に盗賊たちと酒を酌み交わしたり、宴に加わることができないからといって、彼女たちがそれを不満に思うわけもなかったし、どのみちあのような大盤振る舞いがその後行われたわけでもない。アインデッドはたいてい兵の訓練や建設の監督のために外に出ていたけれども、夜になると戻ってきてシェハラザードたちと夕食を共にし、色々と計画のはかどり具合や、時にはかつて巡った諸国の珍しい物語を語って聞かせたりした。
 そうした日々はシェハラザードの心をだいぶ和らげたので、もう彼女のアインデッドに対する考え方もずっと変わってきていた。
「思ったより悪い男ではないのね、彼も」
 そういう日が何日か経った後で、シェハラザードはタマルにそっと打ち明けさえもしたのである。
「わたくし、あの男を初めて会ったときの印象のまま頑なに、卑しい盗賊、油断のならぬ腹黒くて感じの悪い、ならず者と決め付けていたわ。たしかに無礼は無礼だし、きっと油断してもいけないでしょうし、盗賊であることに間違いもない。けれど根っからの悪人ではないし、感じが悪いばかりでもないわ。もともと頭はとても切れるようだし――ちゃんとしかるべき教育を受け、良い環境で育っていたら、見事な武将、貴公子と言われるようになっていたかもしれない。そう思うと、不幸な生い立ちの人なのね」
「姫様がそのようにお考えになられるのでしたら、告白いたしますけれど」
 タマルはうっすらと頬を染めながら言った。
「私は初めて会ったときから、珍しいくらい魅力的で、美しい青年だと思っておりました。そう申し上げましたら、姫様はたいそうお怒りになりましたので、もう申しませんでしたけれど」
「そうだったかしら? だとしたらそれはまたしても、わたくしの頑固さと猛々しさのせいだわ。許してちょうだい、タマル。わたくしは昔から時々、自分でも後で不思議なくらい物がわからなくなる。怒ってしまうと、もう後先のことが考えられないのだわ」
「そんなことはございません。お怒りになっても一時のことで、すぐに今のように私のような身分低いものにも謝ってくださいます。それが姫様のいちばんお優しい良いところだと思います」
「ありがとう。でも、それでは、わたくしはアインデッドは美しくないと言ったのね」
「はい。美しいというのは、あんなものではないとおっしゃいました」
「まあ、よく覚えているのね。――そうね、きっと、怒りがわたくしの目を塞いで曇らせていたのね。あの人は美しいわよね、タマル。少なくともある意味ではそう言っても恥ずかしくはないわ。むろん、美しいと言うときの女性的なものとは少し違うけれど、でも彼は美しいわ。野生の狼や、嵐の空の美しさ」
「そうでございますわね! 私、あの方の目がとても好きです。底の知れぬような緑の、何もかもを見抜くような、そのくせ笑うとあどけなく子供のように可愛くなって……本当に怖いほど光の強い目」
「彼を見ていると、これまで知っていた宮廷の貴公子たちなど、まるで魂のない人形のように思えてくるわ。何から何まで彼と彼らとでは、野生の狼と囲いの中の羊たちほど違っているわ。他の人とはとても違っている――自分でその事をわきまえている、あの自惚れの強さだけは気に食わないけど」
「でもあの方にはそうするだけのことはあるのですもの。あんなに若くて、強くて、美しくて、魅力的で――」
「若い、そう、本当に若いわ。そうね、猛々しく――」
 娘たちは気付いていなかったけれども、つまりは彼女たちはただひたすら、まるでカディスの乾果をしがんでその甘さを喉に滴らせているように、アインデッドについて口にしている快さをいつまでも味わっていたいだけのことなのであった。
 シェハラザードの方はそのことを指摘されようものならそれこそ烈火の如く怒ったに違いないが、しかしそれでいて、彼女は来る日も来る日も、飽きもせずタマルを相手に同じような問答を繰り返して、自由に外に出られないその長い退屈な時間を、けっこう楽しく過ごしていたのであった。
 それに、それはシェハラザードにとっては、アインデッドの計画や意思、性格こそが自分とラトキアとのこれから先の運命に直接関わってくるのであるから、というちゃんとした言い訳の立つことに思われていたのである。
 むろん彼女たちとて、そう毎日毎日朝から晩まで気になる男のことばかり口にのぼせていたわけでもなく、兵の集まり具合やもっとあれこれの漠然とした心配事や、先の見通しについてのあてのない論議を重ねもした。しかしそれも気付くといつのまにか、またしても緑の鷹のような目を持つ、若き盗賊団の首領とその荒々しく猛々しい魅力の話に舞い戻ってしまいがちであった。
 彼女たちは毎晩、アインデッドがルカディウスや人を連れてこの奥の丸を訪れるのを心待ちにするようになり、その刻限が近づくと、互いにそわそわしているのを指摘されはせぬかと気にしながら、身繕いをしたり、辺りを片付けたりしはじめるのだった。それに、シェハラザードやタマルには、そうして気を紛らわせることくらいしか、なす術はなかったのである。
 情勢は必ずしも、とても満足なものだというわけにはいかなかった。アインデッドは好き好んで娘たちをやきもきさせることもないと、彼自身やルカディウスの内心の焦燥や不安をシェハラザードたちに打ち明けるようなことはしなかったけれども、しかし言葉の端端から隠しきれぬ苦衷が滲み出てしまうのはどうしようもなかった。
 しかし彼は、シェハラザードの所に来ると、何もかもうまくいっていると信じさせようとした。しばらくはシェハラザードもそれに騙されているふりをしていたが、しかしそろそろ年末も押し迫り、タリムに立てこもって一月になんなんとする頃、とうとうたまりかねて居住まいを正した。
「ねえアインデッド、わたくしだって少しは本当のことを聞かせてもらってもよいと思うわ」
 その一月で、かれらは一応かなり互いに親しい気持ちを持つようになっていたので、シェハラザードがそのように切り出してもアインデッドは以前のように怒った様子は見せなかった。
「本当のこと? 俺はいつだって本当のことを言っていると思うが」
「そうとは思えないわ。ねえ、アインデッド、一体何がうまくいっていないのか、聞かせてちょうだい。何だか来るたびに、あなたのその気がかりそうな翳りが強くなっているようにわたくしには見えるわ。何が思うようにいっていないの? わたくしで力になれることはないの? わたくしだってただこうやって、じっと待っていた所で始まらないわ。もしも、わたくしが直々に動けば人が動くとか、そんなことがあれば、わたくしも何か力になりたいわ。だってこれはあなたの国取りであるのと同時に、わたくしのラトキア奪還の目論見でもあるのだから」
「そう言ってくれるのはありがたいがね」
 アインデッドはいくぶん辟易したように言った。
「まあ正直、ここであんたが動いたら、余計話が混乱するだろうな。動いてもらわなきゃならない時には、こっちからそう言って頼むさ。はっきり言って、今はそこまでも行ってねえな」
「何がなの。教えて、アインデッド。何がうまく行ってないの」
 シェハラザードは叫んだ。
「兵の集まり方なの?」
「まあな」
 アインデッドは首を振った。
「というよりも、色々とタイミングが難しくてな。これについては前に言ったことがあるかもしれないが、俺たちはともかく、ここに最低でも二、三万の兵を集めないことにはとても挙兵してシャームまで攻め上るのはできない相談だとふんでる。ルカの調べた所じゃ、今シャームを守っているエトルリアの駐留軍が約一万、その下でもとはラトキア軍だったがエトルリアの命令に従っているのが一万ばかりいる。都合二万、この旗揚げがエトルリア本国に聞こえれば、エトルリアからの増援が送られてくる。それはやっぱり五万くらいにはすぐなるな。それまでにこっちがラトキアの残党に呼びかけられるとしても、ともかくとりあえずは二、三万の兵を迎え撃って、もっと兵が集まるまで持ちこたえるにはやっぱり最低でも二万――二万五千は欲しい。上手くいって、旧ラトキア軍のエトルリア兵が半数寝返るとしても、それを計算に入れないで二万はすでに持っていなくちゃならねえ。ところが――」
「ラバックは? マギードは、ハディースは? 彼らの旧領地に使いをやって、わたくしの名の下に加わるように呼びかければ、五万はかたいと言ったはずよ」
「それはもうとっくにやってるよ。だからあんたに手紙をいくつも書いてもらったし、使いも重ねて走らせてる」
 アインデッドはいくぶんつっけんどんな口調で言った。
「あんたの思いつきそうな手くらい、こちとらとっくに全部打ってるよ。そいつが捗々しくねえから、こっちも頭を抱えてるんじゃねえか。だから言ったんだ。そう簡単にはいかねえって」
「彼らが、わたくしの呼びかけに応じないと言うの?」
 シェハラザードは顔色を変えた。アインデッドは否定的に首を振った。

前へ  次へ
inserted by FC2 system