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                                *



 その同じ夜を、シェハラザードはかたくなに、彼らに背を向けて立てこもっていた。というか、そのつもりだった。
 もう少し無邪気なタマルの方は外の様子が気になってたまらず、ずっとそわそわしていたのだが、あるじだけを置いてゆくわけにもいかず、じっとこらえて静かにしていたのである。
 シェハラザードとても、本当はちょっと天幕の外の様子を見に行きたいのはやまやまだったが、なおもラトキア公女のプライドが彼女を引きとめていた。夜もずいぶん更けた頃、二人の娘が無理に探した話題もとうとう尽きてしまって、気まずいまま早々に眠ろうかと考えあぐねていたとき、ぱっと天幕の垂れ幕が開いて、彼女らの悩みを一気に解決してくれた。
「どうした、こんな所で何やってる。みんな外で楽しくやってる。夜は長いぞ。出てきて一杯やったらどうだ。何もこんなところでくすぶってることはないだろう。大丈夫だ。今夜は奇襲なんか来やしねえ」
 荒っぽく手を引っ張られて、シェハラザードは血相を変えて何か言いかけたが、アインデッドはもうすっかり酔っぱらっていたので、相手がラトキアのもと公女だろうが何だろうが気にも留めていなかった。
「腹も減ってるし喉も渇いてるんだろう。こんな所でお高くとまっていたってしょうがないぜ。――今夜は無礼講だ。さあ、出てきて楽しくやろうぜ。どうした、あの連中が怖いのか? 大丈夫だったら。見かけはあのとおりだが皆いい奴ばかりだし、第一あんたのためにこれから命を懸けてくれようって連中なんだぜ。何も心配するこたあない。ここにちゃんとこうして俺がついていてやるからな」
「何も心配などしていないわ。怖がってなどいるものですか」
 シェハラザードは怒って言い返したが、アインデッドに掴まれた手をふりほどこうとはしなかった。この森の奥の、砦の廃墟での不思議な神話じみた雰囲気と今宵の自由な感じとが、さすがの彼女の心をも揺さぶり、人恋しくさせていたのかもしれない。
「わたくしはただラトキア公女として――」
「まだそんなことを言ってるのか。だいたいあんたはお固くていけねえ。そういっつもいっつもお高くとまってたんじゃ、せっかくの美人が台無しだ。さあ、いいから火のそばに来て一杯やれ。そこの可愛いの、お前もだ。今夜はやっと安全なタリムにたどり着いたし、酒もたんとあるし、肉もこんがり焼けてる。あと俺たちに足りねえのは、目を楽しませてくれるすてきな美人だけときてんだ。さあ!」
「で、でも――」
「姫様、まいりましょうよ」
 そわそわしてタマルが言った。シェハラザードはためらい、しかしアインデッドに肩を押されるままに、いくぶんおずおずしながら天幕の外に出ていった。もっとも、自分がそんな卑しい連中相手に気後れしている、などとは、間違っても認めることはしなかっただろう。
 しかしともかくシェハラザードとても、十九歳の若い娘であるには違いなかった。彼女は火のそばに引っ張ってゆかれてもまだ、自分などがこの中に入っても、皆に嫌な顔をされたり、場を白けさせるだけではないかというひそかなためらいを抑えきれずにいたが、盗賊たちは今朝がたの疑いなどはとっくに酒壺の向こうに投げ捨ててしまって、どっとばかりに喝采したので、シェハラザードの白い頬はぽっと赤らんだ。
「姫様のおいでだぞ。女神リナイスのご降臨だ」
 アインデッドは陽気に叫んだ。
「心してお迎え申し上げろ、失礼があっちゃならねえぞ。さあ、いちばん上等のはちみつ酒をこっちに回せ。一番うまい肉のいちばんよく焼けたところを切り取ってさしあげろ。ラトキア万歳だ。シェハラザード様万歳」
「ラトキア万歳」
 お調子者の上に、もうすっかり酔いの回っている連中はてんでに手や、壺や切り株を叩いて喝采した。
「シェハラザード姫さま万歳」
「うわあ、なんてすごい銀色の髪だ」
「ほんとに月女神リナイスだぞ、こいつぁ」
「べっぴん万歳!」
「姫様、この酒をお飲みなせえ」
「あ――ありがとう」
 シェハラザードは頬を染め、ためらいつつ、差し出されたはちみつ酒の壺を汚い手から受け取って、ぐっと飲んだ。たちまち、固唾を呑んで見守っていた盗賊たちの間から大喝采が――さっきとはまったく比較にならないような大歓声が沸き起こった。
「姫君様が、俺っちの酒を飲んでくださったぜ」
「話せるじゃねえか」
「姫様、こちらの肉がよう焼けておりますよ」
「ありがとう」
 シェハラザードはやっと落ち着いてきて、はにかんだ微笑を浮かべて、ナイフの先に刺された旨そうな肉の大切れを受け取った。それは、かつてのラトキア公女――いや、つい先頃までのエトルリア大公の誇り高き虜囚としての彼女を見知っていたものであっても、よもや彼女にそのような表情ができようとは思いもしなかったに違いない、まだ固くて、強張りがちであっけれども、何とも愛らしい笑顔だった。おそらくは彼女がそんな笑顔を見せたのは、ほとんど一年以上ぶりであったに違いなかった。
 その微笑は、つねに取り澄まして、高慢に唇を引き結んでいる彼女の白い端正な顔をまるで変えてしまった。その紫色の瞳は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに輝いた。あの豪華な銀髪は、かつてよりずいぶん短くなっていたけれども、それでもかがり火の明かりを受けて、本物の白金の糸を連ねて作ったかのようにきらきらと輝いた。
 盗賊たちは、これほど光り輝くような美女をこんなにも間近く見るのはほとんどが生まれて初めてであったから、思わず気を呑まれてこの一幅の絵のような姿に見とれた。それから、何となく鼻白んで嘆声を口々に漏らすのだった。
「姫様はなんてきれいなんだろう――!」
「まるで本物のリナイスだ」
「こんな美人がほんとにいるんだなあ!」
「ちくしょう、こんな美女の為なら、何回戦って死んだって惜しかねえぜ!」
「まあ……」
 かつては宮廷で惜しみない賛辞に囲まれていたシェハラザードではある。しかし、この深い森の中の、粗野だけにそれだけ遠慮のない盗賊たちの心からの声は、シェハラザードの心を動かすには充分な真実の響きを帯びていた。シェハラザードは恥ずかしげに微笑み、差し出される酒を少しずつ飲み、傍らのアインデッドをしとやかに見上げた。
「野盗だの、赤い盗賊と言うから、どんな恐ろしい悪党ばかりかと思っていたけれども、皆優しいのね。わたくし、この人たちを好きになれそうだわ」
「そうとも、当たり前だ。俺のかわいい部下たちだ」
「わたくし、ずいぶん先入観だけでお前たちを見ていたのね。野盗も傭兵も、みんな同じ人間なんだわ。そんなことも判らないで、わたくしは恥ずかしいわ」
「姫様――」
 タマルはびっくりして叫んだ。シェハラザードがよもやこんな台詞を吐こうとは、思いもかけなかったのである。
 しかしシェハラザードは頬を染めて微笑を浮かべ、まるで今初めて見るかのようにティフィリスのアインデッドをそのサファイア色の瞳でじっと見つめていた。またしても起こった笑い声が、三人の上にふと落ちた沈黙をかき消した。
「考えてみればお前の言うとおりだわ、ティフィリスのアインデッド。彼らは、わたくしにもラトキアにも、いかなるゆかりも無いのにわたくしのためにあえて命を危険にさらし、恐ろしい戦場に進んでくれようとしている。――ああ、もちろんお前のためだからだわ、それは判っている。でも――」
 シェハラザードは誰かが持ってきてくれたグラスではちみつ酒をすすりながら、瞑想的に言った。
「でもこんなに大勢の屈強の男たちが、自分のために命を懸けてくれる――考えてみると、大変なことなのだわ。お前はさぞ、あれたちがかわいいでしょうね」
「可愛いよ」
 アインデッドは即座に請け合った。
「俺の初めて――でもないけど、子分どもだ。俺のために命を懸けてくれる。俺も奴らのためにどんなことでもしてやりたい。あんたが、今朝がたの話じゃねえが、俺と奴らを最後に裏切るようなことになったら、それが俺の、この世でする最後のことになったとしても、俺はあんたの首を素手でねじ切るだろうよ」
「そんなことは決してしないわ。するわけがない。――ラトキア公女は」
「忘恩の徒じゃない、か」
 アインデッドは眉をしかめて遮った。
「そいつはもういいかげん聞き飽きたぜ。――あんたは美人だしいい女だと思うが、ただそのやたらにラトキアと公女をふりまわすのと威張りやなのが癇に障っていけねえ。――女ってのは、生まれも育ちもあったもんじゃねえよ。本当は見てくれさえどうだっていいんだぜ。あ、いや、そりゃペルジアの三醜女みたいなのはごめんこうむるが、しかし十人並みで心意気もありゃ気っぷもいい、情があるってのと、すげえ美人だが中身は最低ってのとじゃ、まともな男ならまず間違いなく気立てのいいほうをとると思うね。女の値打ちはどのくらい男に心底惚れるかだ。男の値打ちは、どれだけいい女に惚れられるかさ。あんたがラトキアがどうのとか、公女がどうのとお高くとまってる間は、いい男にゃ好かれねえぜ」
「ま……」
 タマルは慌てて、シェハラザードがまた何を言い出すかと半ば腰を浮かせた。しかしシェハラザードは、いつものようにかっと怒り出すかわりに、いつになくしょんぼりと小首を傾げただけだった。
「よくお前はそうやってゆえもなくわたくしを辱めるけれど」
 呟くようにシェハラザードは言った。
「そんなにわたくしはお高くとまって高慢ちきで嫌な女かしら。いえ、きっとそうかもしれない。だってわたくしはさっきまで、この野盗たちに頼って我が国を取り戻してもらおうとしながら、彼らも同じ人間なのだというような当たり前のことにすら気付かなかったのですもの。でも、わたくし、そんな育ちなどふりまわしておらぬつもりよ。だってわたくしの育ちなど――ラトキアが何だというの。ラトキアは常にゼーアの二大国から、成り上がりの、下司下郎と蔑まれてきた新興国だわ。軽んじられ、まともに扱われぬ悲しみは、お前などより、もしかしてわたくしの方がよっぽど身にしみて知っているかもしれないのよ」
「だったら、何もそう威張らんことだね」
 アインデッドは無責任に言った。
「せっかくの美人が台無しだぜ。大の男相手にそう威張り散らしてばかりいるとな」
「わたくし、そんなに威張っているように見えて?」
 途方にくれたようにシェハラザードは言った。アインデッドはくすくす笑った。
「まあ、時々な。――けど」
 ふっと眉を寄せ、シェハラザードを見つめる。
「けっこう可愛い所もあるんじゃないか? そうやって素直にしてるとさ。そう言われるのは嫌かも知れんが、俺はいいと思うね。可愛いほうがいいと思うよ。そんなに綺麗なんだから……」
「わたくし――」
 シェハラザードは口ごもった。
「わたくし、綺麗かしら――?」
「何言ってんだ。そんなこたぁ百も承知だろ。自分がディアナやリナイスも顔負けの、すげえべっぴんだってことぐらいさ」
「……」
「そうやってじっと火に照らされてると、火にその豪勢な髪がきらきら光ってさ。――勿体ねえな。その髪がもっと長かったら、きっとまるで全身が銀か金でできてるみたいな――光り輝くような……」
 ふと。
 アインデッドは口をつぐんだ。何かひどく奇妙な表情が彼の白いおもてをゆがめ、かげらせた。
(光の――)
(光の天使)
(この女が、俺の……)
「サン・タオは――わたくしを光の天使と呼んだわ」
 シェハラザードはその思い出を自嘲するように、低く囁くように言った。
「光の天使……」
 アインデッドとシェハラザードの目が合った。
 これまで何度と無く、真正面からにらみ合ってきた、きつく猛々しいエメラルド色の目と、鋭く深い紫の目である。それが、あたかも今初めて出会って互いをそれと見知った、とでもいうように、奇妙なとまどいと驚きとをこめて、互いをしっかりと見つめたのだった。

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