前へ  次へ



                                *



 そのようなちょっとした一騒ぎがあったために出立が少々遅れたけれども、ともかく一行は朝日が中天に昇りきる前には野営地を後にして、再びタリム砦を目指して行軍を再開したのであった。
 これまでの行程で、だいぶタリムに近いところにまで来ている。ルカディウスは気の利いた者数名を先にタリムにやり、様子を探らせていた。もっぱらの噂ではタリム砦は久しい昔に廃砦となり、かつてはそこに駐屯し、国境を守っていたゼーアの軍隊も撤退して無人となっているはずである。
 しかし、それこそアインデッドたちのような野盗、レント街道の盗賊や、《海の姉妹》、《山の兄弟》のような暗殺団、もっといがかわしい連中などが、無人をさいわいと入り込んで根城にしていないものでもない。
「多分大丈夫だとは思うがね。――タリムはそうやって大掛かりな盗賊団が巣食うにはちょっと国境に近すぎるし、といって少人数で入り込んで何かするには少し森の中にありすぎる。砦としてはちょっと中途半端だからな」
「だからタリム砦を選んだんじゃねえか、馬鹿野郎」
 アインデッドはいたって上機嫌であった。朝の一幕がいつになくアインデッドを高揚させていたので、いつもよりルカディウスにも親切だった。
 ルカディウスはもうそうとしかできなくなってしまったかのような憧れの目をこの馬上の梟雄の姿に向けていた。アインデッドはそれをうっとうしいとは思っていたが、機嫌がよかったので、寛大にその視線がまつわりつくにまかせていた。もっとも、もう一人の同じような視線の主はもう少し親切に扱われた。
 タマルは大きな旅行用マントのフードをすっぽりと引き下ろしていたし、シェハラザードは鎧兜を着けてタマルの前を行っていて、気付かれる恐れがなかったので、ときたまそっと引き寄せられるように、うっとりとした視線を黒馬に乗ってシェハラザードと轡を並べている盗賊団の首領の方に注いでいた。
 それは何も今朝に始まったことではなく、この行軍が始まってから少しずつタマルの目がアインデッドの精悍な姿に吸い寄せられることが増えていったのだが、シェハラザードの方は全く心付いてはいなかった。
 しかし、むろん見つめられている当の本人の方はこの少女たちよりもずいぶん経験も豊富であれば、そういう熱い眼差しで見つめられることも、もうずっと若い――というよりも幼いころから慣れっこであったので、間違ってもそれに気付き損ねるようなことはなかった。
 それで、ただちに何かしら行動に移そうともしなかったが、ずっとタマルの視線になど気付かぬふりをしていて、時折ふいにちらりと見返ってウインクしてみせたり、微笑みかけてみたりしてタマルの胸をどきつかせ、それで少女がぱっと顔を赤らめておろおろするのを楽しんだりしてはいたのである。
 タマルの方は、ずっとラトキアの女宮の奥深く、幼いころから公女たちのお傍仕えとして上り、男子禁制の中で育ってきて、その主人よりももっとうぶで世間知らずである。エトルリアにやってきて虜囚となり、主人とともに様々な辛苦をなめてきて少しは世慣れてきたけれども、やはりシェハラザードと二人懸命に身を寄せ合って辛苦に耐えてきたので、周囲の男は皆恐ろしい敵であった。またシェハラザードからもそのように言い聞かされてもいる。
 それで、こともあろうにシェハラザードが蛇蝎のごとく嫌っている盗賊の首領などに心引かれている、などとは、自分自身にもシェハラザードにも認めるわけにはいかない。しかし彼女の視線は、気が付くと正直にアインデッドの引き締まった顔や鋭く光の強い眼差し、皮肉な笑みをたたえる唇や、女性にはない広い肩やすらりとした長い脚、敏捷で精悍な動作、などに吸い寄せられてしまっているのであった。
 アインデッドは時折すばやく振り返って彼女にウインクしたり、笑みを浮かべて見せたり、じっと見つめてみたりする。そのたびに彼女は一人で真っ赤になってうつむき、胸をどきつかせるのであった。
(ああ……)
(どうして、こんな人がこの世にいるのかしら)
(怖い……でも、なんて……)
 タマルのその可憐で密やかなとまどい、シェハラザードの焼けつくような復仇の執念と焦燥、ルカディウスの妄執、アインデッドの野望――
 それぞれの、様々な思いのように、タリムの森の木々の梢や木蔦の蔓はびっしりと絡み合い、昼なお暗い樹下の闇を作っている。
 その枝があまりに絡んでいるところは馬から下りて切り払い、下生えが茂って足を取るなら刈り取らなければならない。それほどでないところでも、馬上で身をかがめ、兜やマント、槍などが絡まないように心を砕き、あるいは馬から下りて轡を取ってくぐり抜けなければならない。
 なかなか、レント街道を疾駆するような塩梅にはいかないかわり、めったに街道警備隊に見出される恐れも、またない道ではある。
「ルカ!――おかしら!」
 先発隊に出したニゾリウスたちが駆け戻ってきたのは、もうそろそろ、昼の休みを取って、再び行軍を続け、また夕方の小休止を取ろうかという頃合いであった。
「おう、ニゾリウス、どうだ、砦はどんな具合だ。無人か」
「いや、人影がある。火を焚く煙も立ちのぼってやがる」
 片目でそこに何かのメダルをはめ込み、頭をつるつるに剃り上げた、いかにも悪党面のニゾリウスは言った。
「何だと。誰かが根城にしてる様子か」
「いやさ、そいつがな、おかしら」
 ニゾリウスはしがんでいた噛み煙草のかすをぺっと吐き捨てた。
「そう言うだろうと思って、ちゃんと近くまで忍んでいって、こっそり中を見てきやしたよ」
「そいつはよくやったな。やっぱりお前は気の利く奴だよ、ニゾリウス」
「あた棒よ。でな、おかしら。俺が見たところ、タリムに巣くってるのは、でかい盗賊団の一味でもなきゃ、むろんどっかの軍隊でもねえ。というのは、とにかくな――まずあの城の荒れ方ったらねえ。こんな所で本当に一晩も過ごせるのかってくらいで、おおかた撤退するときに仲間割れか、略奪騒ぎでもあって火をかけたに違いねえってありさまだ。だが人けのさしてるのはその荒れ果てた本丸じゃねえ。外側の壁際に、みすぼらしい小屋がけが幾つかしてあるのさ」
「小屋だと」
「そうだ。その辺でかまどをこしらえて煮炊きしてるのが、黒い長衣を着た骸骨みたいな連中ときた」
「ほう」
 アインデッドはルカディウスを見た。
「そいつはヤム教徒かもしれないな」
「大当たりだ。さすがは我らが軍師ってもんだ! そいつらはヤムの巡礼らしいんだ。まあ本物か、そうと装った偽者のエセ信徒なのかまでは請け合えねえが、ともかくその黒い不吉な烏みてえなじじいどもが、粗末なかまどで煮炊きして、地べたに這いつくばって拝んだりして、平和に暮らしてるってわけだ。おらあよくよく気をつけて見回ってきたが、どこにも武器や、用心棒どもの隠してある様子はねえ。あの様子じゃ襲ったところで金も無いし、せいぜいじじいどものガラでスープを取るくらいの役にしか立つまいからな。狙う奴もあるまいが」
「女はいないのか」
「いねえよ。じじいばっかりだ」
「人数は?」
「見たところ十人、もっと多くても二十人もいるめえ」
「ふうん」
 アインデッドはふと考えに沈んだ。
「どうした、アイン」
「いや……ヤム教、ヤム教徒か」
「ああ、何だかんだ言いながら、ここんとこ少しずつ伸してきてるみたいだな。が、やつらは剣を捨て、富を捨てて祈り三昧で生活するって、いわば世捨て人どもだ。おおかたこの山中に篭もって修行しようとでも考えたんだろう。――アイン?」
「ヤム」
 アインデッドははるか昔を思い出すように遠い目をした。
「昔、そう、ティフィリスだ――ティフィリスで、俺の世話をしてくれたおやじ――アーゲ、そう、《砂上の楼閣》のアーゲおやじだ。ヤムの信者だって言っていたっけ。……ありゃ変な奴だった。変な訳のわからねえ教えだった。博打場と酒場のおやじで、遊女もおいてたくせに、ひとには酒は飲むな、姦淫するなと説教ばかりしてやがった。……まぁ俺だって、一度も真面目に聞いたことはなかったけどな。それにルイゼ――ルイゼもやたらに人の心配ばかりしたがるお節介だったな――。ああ……いつか便りを寄越すと言って出たのに、あれきりティフィリスには帰ってねえ。思い出すのは、ティフィリスのアインデッドと名乗るときぐらいのもんだ――」
「アイン――?」
「何だよ。ちょっと昔を思い出してたんだ」
 アインデッドは夢見るように言った。
「昔の、知り合いのことをな。俺を養ってくれてた、酒場のおやじだ。馬鹿なことばっか言って、説教ばかりこいてやがったよ。ヤムの教えは人を、精神の高みに引き上げるとか何とか……酒を飲むな肉を食うな、人を殺すな、姦淫するな――」
「俺も聞いたことがある」
 ルカディウスがそっと言った。
「ヤム教徒の町では、すべての富は平等に分かち合うんで、金持ちも貧乏人も、王族もないそうだ」
「なあに、どうせ坊主が影でぼろ儲けして、衣の下にたんと隠し持ってるだけのこったろうさ。表向きはどうあれ、金と力と色事が嫌えだなんて人間なんざ、いるはずがねえからな」
 ニゾリウスがにやにや笑いを浮かべた。
「それはどうかわからねえぞ。もしかしたら、世の中には本当にそういう人間だっているかもしれない」
 アインデッドが物思うように言いかけたが、ニゾリウスは笑って遮った。
「それは、そいつがまだ金も力も色事も知らねえってだけのこった」
「……」
 アインデッドはかすかに機嫌を損ねたように横目でニゾリウスを見たが、何も言わなかった。
「それよりアイン、どうする。二十人足らずなら、まあ、片付けるのはわけもねえことだが――」
「片付けるまでもねえだろう」
 アインデッドはようやく追憶から覚めて、ルカディウスを振り返った。
「やつらの触れ込みに間違いがねえなら、ヤム教徒ってのは人殺しもしねえし嘘もつけねえんだろう。なら、別段たいした害もするまい。邪魔にならなきゃ放っておけばいいし、邪魔ならそのまま追っ払って森の中にやりゃ、また新しいすみかを作るだろうさ。文句を言うなら金の一つもくれてやりゃあいい。無益な殺生をすることもあるまい。まして坊主ときちゃ、晴れの旗揚げに縁起が悪いだろう」
「違いねえ」
 ニゾリウスは派手にげらげらと笑った。
「じゃあ、どうしたらいい、ルカ」
「じゃ、ご苦労だが案内してくれ。そうして今夜にはタリムに入ろうじゃねえか。別の一隊を町にやって、当座の食い物と飲み物を買いにやらせてある。これで当分タリムという足場ができようから、それをもとにしてラトキアの残党集めに動けばいい。な、そうだろう、アイン」
 言いかけて、ルカディウスはふと怪訝そうになった。
「アイン――?」
 アインデッドの顔はふっとまた遠くなっていた。
 その目は深いタリムの森と山並みを越えて何を見ていたものか。はるかなティフィリスの幼い日か、それとも森の向こうに広がるもう一つの国、彼の愛し憎んだ美しい友のいるはずの古い石造りの都か。
 が、アインデッドはもの問いたげなルカディウスの目を、眉をしかめて払いのけた。
「よーし、もうここまで来りゃ着いたも同然だ」
 彼は威勢良く叫んだ。
「今夜中にタリムの砦入りだ! 今夜はたんと飲み食いさせてやるぜ、みんな!」

前へ  次へ
inserted by FC2 system