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                                *



「さあ、これでいいわ」
 いくぶん得意そうに彼女は言った。
「これでかなり、エトルリアの宮廷を惑わす種をまいてやれたと思うわ。それで、どうしろと? 靴を、窓の下に揃えるのね?」
「ああ。入水して死ぬ奴は、ことに女はたいていそうするものだからな」
 アインデッドは言った。そして、二人の娘が言われたようにしている間に、また、先に解いてしまっておいた紐を、サンルームの手すりに結びつけた。
「これを伝って下のバルコニーに降りるんだ」
 アインデッドは説明した。
「シェハラザード姫、あんたも、その侍女もだ。タマルか、タマルは、下のバルコニーからイー小隊長の部屋に行き、そこに隠してもらえ。そうだな――ものの三日もすればほとぼりが冷めて、こっちから連絡できるようになるだろうから、そうしたら、使いを出すから落ち合う手筈を決めればいい」
「でも、バルコニーには歩哨がいるわ」
「大丈夫」
 低く、獰猛にアインデッドは笑った。
「奴は休憩中だ」
 彼が歩哨を殺したこと、さっきの水音がそれであったのだということはすぐにシェハラザードにも悟られたが、賢明にも彼女はそれを口にしようとはしなかった。アインデッドもそらとぼけて、サンルームの外を指差した。
「さあ、いいから早くしろ。まず俺が手本を見せてやるから、その後タマル、公女の順で降りるんだ」
 アインデッドは身も軽く手すりに飛び上がり、何回か引っ張ってみて革紐の具合を確かめてから、するすると手すりの外側に降りて、一気に紐を伝って一階下のバルコニーに滑り降りていった。
「――!」
 シェハラザードとタマルは怯えて下を覗き込む。それへ、バルコニーに降り立ったアインデッドが下から手を振った。
「さあ、早く来い」
「は――はい」
 タマルは見かけはか弱く、気も弱そうだったが、そのわりには中身にはしっかりしたところのある娘である。頷いて、何度もヤナスに祈った挙げ句、手すりをまたぎ越えると、一気に革紐を伝って滑り降りた。
「――きゃ!」
 手が擦れる痛みに悲鳴を上げるのを、素早くアインデッドの強い手が抱きとめて、抱き下ろす。
「よーし。じゃ、お前はここからすぐイー隊長のところへ行け。三日くらいしたら俺からの使いがゆくから、そのつもりで待ってろ。お前は死んだことになってるのを、忘れるんじゃねえぞ」
「は――は、はい」
「さあ、早く行け」
「姫様を――シェハラザード様を、よろしくお願いいたします。あの――」
「判ってるよ」
 アインデッドは面倒そうに言った。
「いいから、早く行け」
「はいっ」
 それ以上言わせず、タマルは宮の奥へ駆け出してゆく。それを見送って、アインデッドはまたバルコニーに出た。
「シェハラザード公女。――公女、そこにいるか」
 下から低く声をかける。
「ええ――」
「よし、降りて来い。心配するな。俺が受け止めてやる」
「いいの?――わ、わたくし、タマルより――重いわよ」
「俺は、見かけより力持ちなんだ。つまらねえことを言ってねぇで、早く来い」
「行――行くわ」
 シェハラザードは手すりにまたがった。革紐を掴み、一気に飛び下りる。アインデッドはどさりとシェハラザードの体を受け止め、思わず口の中で呪詛を呟いた。
「自分で言うだけあって、けっこう重いじゃねえか。痩せて見えるくせに骨太にできてやがる」
「失礼ね!」
「いいから待ってろ。どこも打ってねえだろうな」
 アインデッドはシェハラザードを無視して、革紐の端を外に放り投げるように引っ張った。すると、あれほどしっかりと結び付けられていたはずの紐はするりと解けた。
「これは水夫結びって言ってな」
 アインデッドは得意そうに説明した。
「真っ直ぐ引っ張ってるぶんにゃ絶対ほどけねえが、斜めに引っ張るとこんなふうにするりとほどけちまうのさ」
「そう」
 シェハラザードは興なげに答えた。
「早く行かなくてもいいの? 急いでいるのはあなたでしょう」
 アインデッドはむっとしたようにシェハラザードを見、そして頷いた。
「行くか」
「ええ」
 シェハラザードは息を詰めた。
「心配するな。俺がついてりゃ、大丈夫だから」
「心配なんかしてないわ」
 青ざめながらシェハラザードは言ったが、幸いなことに暗くて顔色はアインデッドにわからなかった。アインデッドは肩をすくめただけだった。しだいにシェハラザードの反応にも慣れて、どう言ったり、振る舞ったりすればシェハラザードが怒るかがわかってきたので、かなり落ち着いてきたのである。
「ちょっと失礼」
 アインデッドは言って、シェハラザードの腕を上げさせ、脇の下にぐるりとほどいた革紐を回し、きつく縛って、子供を背負う要領で残りの紐を自分の肩に斜めに交差させて結びつけた。
「ちょっと苦しいかもしれんが、我慢しろよ」
 言うとアインデッドはシェハラザードを抱えるようにしてバルコニーの手すりに登った。水面からは二バールほど離れている。
「いいか、行くぞ」
「――ええ」
 アインデッドの問いに、シェハラザードは同じ囁きで答える。
「よーし……一、二、三」
 アインデッドは数えた。同時に、バルコニーの手すりを蹴飛ばして、湖水の中に身を投じた。
 ばしゃーんと、かなり大きい水音があがった。
 そのまま、見張りに発見されまいと、アインデッドは水中に潜っていった。これはシェハラザードにとっては恐ろしいことであった。シェハラザードは内陸のシャームに生まれ育ち、めったに水の中に頭まで浸かることなどなかったからである。
 しかし、シェハラザードももう無我夢中であった。彼女はありったけの勇気を振り絞って、彼女をひいていく男にしがみつき、口や鼻、耳の中に水が入ってくる気持ち悪さに耐えた。
 アインデッドの方はシェハラザードを気づかうゆとりもなかった。彼は必死で、水中を潜って進み、息が詰まりかけたところでシェハラザードを抱えて水面に浮かび上がって息をさせ、自分も深く息をついだ。
 みるみる白亜宮が遠ざかっていく。――といっても、それはかれらの希望的観測が先に立っていたので、実際にはかれらの望むほど早くは、とうてい泳げるものではなかったのである。
 しかしともかく、アインデッドは力強く水をかき、ぐんぐんと向こう岸に向けて泳ぎ続けた。アインデッドの手足は自分で自慢するだけあって力強く、このような厳しい試練にもわけなく耐えることができた。それに何と言っても彼はまだ二十三であって、その気になれば何十時間でも、泳ぎ続けることができたかもしれない。
 水は、まだ氷のように冷たいというわけでもなかったが、初冬であるのでもちろん温かいとはいえなかった。しかしアインデッドもシェハラザードも若かったので、恐るべき心臓麻痺に襲われることもなく、そのうち双方とも、一方は人を引いて泳ぐこつを、もう一方はうまく水面に顔を出して、どうにか息を続けながら引いてゆかれるこつを身につけたのであった。
 それでどちらにも大分事情がよくなり、アインデッドはもうかなり離宮から離れてきたので見つけられる恐れも少なくなってきたであろうと、水中でなく、水面に顔を上げて泳ぎ始めたのであった。
 そうやって振り返ってみると、すでにずっと遠くになった小宮が、湖上に遠く浮かび上がって見えた。ようやく、そこに起こった異変が発見されたゆえか、白亜宮には全ての窓にあかあかと明かりがともされ、その中に人影が走り回っているのが小さく見えた。そして、船を出す様子もあったし、全体として、あたりがひどく慌しい雰囲気に包まれている様子が見て取られた。
 アインデッドは軽く水をかいて進みながら、かすかに歪んだ笑みを漏らした。それから、思い出したように尋ねた。
「大丈夫か……? もう少し休むか?」
「いいえ……まだ耐えられるわ」
 深く息をつきながらシェハラザードは答えた。ふっと切れた雲の合間から射し込んだ月明かりに照らされた男の顔は、彼女がさっきまで見知っていた顔よりもずっと厳しくて美しく、そして彼女が思っていたよりもずっとうら若い、まるで生き急いでいる少年のような顔だった。
「あなたこそ、大丈夫?」
 なんとなく、この青年がふと消えてしまいはしないかという不思議な不安を覚えて、シェハラザードは言った。
「ああ。こんなの、疲れたうちにも入らねえ。じゃあ、泳ぐぞ」
 シェハラザードは頷いて、息を深く吸い込んだ。
 アインデッドはそこで、再び向き直ると、力いっぱい泳ぎ始め、一刻も早くホーティン付近の岸――そこでルカディウスをはじめ、彼の部下たちが待ちわびているはずの――にたどり着こうと力強く急ぎ始めた。
 シェハラザードはしっかりと男の体にしがみついた。冷たい湖水も、触れ合う肌の体温までは奪えない。シェハラザードはその温かさがこの上なく大切なもののように、またしっかりと抱きついて、アインデッドに身を委ねて水の冷たさに耐えていた。
 彼の一ストローク、一ストロークが、自由と復讐へと彼女を連れ去る神の翼に他ならなかった。

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