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「千イン、工面してきなされ。千インと、あとこの助手に二百インもやってくだされば、わたしと助手とで何とか手立てを考えてあんたのご主人の所に忍び込み、誰にも気付かれぬようにこっそりと身ごもっているかどうかを調べ――もし身ごもっていてそうお望みなら、腹の子を流してさしあげますぞ。千インは少なからぬ金だが、その代わりその危険をあえて冒し、してその後は未来永劫タヴァ貝よりもかたく口を閉じていてあげよう。どうだね、お嬢さん――まんざら悪い話でもないと思うのだがね。
「一千インと――二百イン!」
 タマルは強く息を吸い込み、小さな手で口許を覆った。
「それはほんとに、たくさんのお金だわ。そんなお金、どこから持ち出してくればよいのでしょう? 私たちは囚人――あ、いいえ、つまり、囚人のようなもの――そんな自由になるお金なんて……」
「宝石でも、布でも、金目のものなら何でもよろしい」
 ルカディウスはますます声を低めて請合った。
「それとも――こう言ったからといって、つまらぬ誤解をされてはわれわれもいたく困るのだが……」
「か――体で、私の体で、何とかなることなら……」
 タマルは喘ぐように言った。
「どうせ汚れた、値打ちのない体です。好きにしてください」
「これは、忠義なお女中だな」
 ルカディウスは笑った。
「その申し出はとても魅力的だが、しかしわたしらはそのような女衒のようなことはせんよ。金はあるところからもらい、無いところへ与えるのが天下の正道と言うもの。察するところ、あんたのご主人はたいへん身分高い貴婦人で、ご自分では金を持ち歩くような下賎の習慣はないし、ご亭主にはむろん内緒だから、千インは都合しかねる、というのだろう。こうしようではないか――わたしらは、何ももらわずにあんたの手引きでお屋敷に忍び入り、奥方――か姫様か知らんがあんたのご主人を診て、手当してさしあげる。そのかわり――」
「……」
「その後、わたしらはちょっと失礼して、そのお屋敷の中の金目のものを少々頂戴して、それで謝礼に代えることにしよう。あんたとご主人は何も知らなかったことで押し通すし、わたしらもよしんば運悪く捕まっても、決してあんたらのことは口は割らん。と、そういうことでどうだろうね」
「ええっ、だって――」
 善良なタマルは鋭く叫んだ。
「それでは、盗人だわ――まるで!」
「そのとおり、お嬢さん」
 ルカディウスはくすくす笑った。
「わたしは、副業はまさしくそのようなものなので、それでその事がばれて医師の免許を取り上げられたのだよ。しかし安心しなさい。腕の方は掛け値なしに保証付きだし、それにわたしは、金持ちばかりがいい思いをし、貧しいものが気の毒な運命になって、ろくろく医者にもかかれずに死んでゆくのを見るに耐えん。わたしはまあ、義賊というところだね。金持ちからぶんどって、貧しいものに施す。悪人に強姦されて泣いている娘がおれば、金を取るどころか、ただではらんでいるか診てやり、ほしくない子なら闇に葬り、その上誰にも傷を知られない新しい勤め先まで世話してやる。だからこそ、ルカディウスの医術は仁術として知られているのだよ」
(まったく、よく回る口だな)
 アインデッドは何も聞かなかったようなふりをして部屋の隅に座っていたが、こっそりと口の中で呟いた。
 しかしタマルの方は何といっても世間知らずであった。すっかりこのいいかげんな話を信じ込んでしまい、真剣な顔で何回もうなずきながら聞いていたが、すっかり感心して、深く最後にうなずいた。
「確かに、おっしゃるとおりかもしれない――盗人といって、いちがいに悪人と思ってはいけないのかもしれませんわね。もっと公明正大に悪いことをしている人間なんて、いくらでもいるのですものね。――そう、きっと姫様ならそうおっしゃるかもしれない。私もきっともう少しは、世間を知らなくてはいけないのかもしれない」
(――考えてみたら、あの宮の中のものは全てエトルリアのもの。私たちには憎い敵のもの、盗まれようがどうしようが、かえって快いよいはずなのだもの)
「さ、どうする、娘さん」
 ルカディウスはさりげなく追い討ちをかけた。
「誓ってあんたら主従に迷惑は掛けん。というより、わたしらにとってだって身の危険はお互い様だ。相身互い、というものだよ。――決して、ばれたり、とっつかまったりするようなヘマはしないから安心しなさい」
「……」
 タマルは考えに沈んだ。ややあって、思い切ったように言う。
「やっぱり――こんな大切なことを、私一人で決めることはできませんわ。一度、私のご主人に相談して、それからもう一度うかがうので、よろしいでしょうか?」
「わたしらはむろん」
「いつまでここに――ラスにおいでですの?」
「とりあえずは、あんたの気が決まるまではこの宿にいるよ」
「……必ず、この一両日中にうかがいます」
 タマルは約束して立ち上がった。そしていかにもしつけのよい腰元らしく、彼らに別れを告げた。タマルが丁寧に頭を下げてから部屋を出てゆくのを、二人の盗賊はじっと見守っていた。
 ようやく足音が遠ざかってゆくと、顔を見合わせた。
「間違いないな」
 低く、ルカディウスが言う。
「あれがラトキアからの侍女だろう。やはり相当、公女は追い詰められているようだ」
「ああ」
 アインデッドは短く答えた。
「たしかにな」
「どうやらこれで、公女への足がかりがつかめたようだ」
「ああ」
「明日か明後日にでもあの娘、やっぱり何とかして白亜宮にもぐりこんでくれと頼みにくるだろう。何とか、それまでにうまい手立てを考えなきゃなるまい」
「そういうのは、お前に任せる」
「何とかなるだろう。もし――」
 ルカディウスが言いかけたとき、ごく控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
「あの――わ、私です。今おじゃましていたものです」
 入ってきたのは、何となく決然とした面持ちになったタマルであった。ごく低い声で喋っていたとは言うものの、聞かれはしなかったか――と思わず二人は目交ぜをする。が、タマルは何も気付かず、せっかくの決心が鈍るのを恐れるように、一気に言った。
「やっぱり、考えました。もう一回こうして出てきてお返事するなんて無駄だし――こんなに抜け出すのが大変なのに、無意味だと思うんです。たまりたびたび抜け出して、もし万一にも見つかって捕らわれることでもあったら、もう姫様の手足になるものは誰もいなくなってしまうし……だから、私、決めました。もし姫様が私の振る舞いを軽率だと詰られても、その責任は私一人で引き受けて、何とかあの方を説得するつもりです」
「……」
 二人は顔を見合わせ、何も言わなかった。
「あの――ルカディウス先生!」
 タマルはありったけの勇気を振りしぼった。
「ああ」
「何もかも打ち明けますわ。――先生は、苦しむものの味方だとおっしゃった。なら、私たちにどうか――どうか力を貸してください! 私たちは本当に追い詰められてしまっているんです。先生だけが頼りです。先生を信じて、何もかも打ち明けますから……何でも致しますから、どうか――困っている私にどうか、お力を貸してください!」
「それはむろん、力を貸すためにわたしはこうしているのですから」
 瞬く間に、さっきの気取った言い方を取り戻して、ルカディウスは言った。
「そうと心が決まったら迷うことはない。信じると決めたからには信じなさい」
「ええ――ええ」
 タマルは喘いだ。
「これで、あなたがたは、私とご主人ふたりの生命と希望と――のみならず、何十万という人々の生命と希望もその全てを、その手の中に握ることになるのですわ。もし、あなたたちが悪心を起こしたら、何十万の人々の希望もまた断たれるのです。私は――私のご主人の名はシェハラザード公女、エトルリアに滅ぼされたラトキアの姫君……そして今の私たちの住処は、あのサリア湖にそびえ立つ白亜宮です。それで、おわかりになりまして――? 何としてでも忍び込んでほしいのは、白亜宮なのです。並外れて警備も警戒も厳しく、もし万一見つかれば厳しい拷問の果てに命はない、その白亜離宮なのです――!」


 その、あくる朝のことであった。
 アインデッドとルカディウスは、必要な薬草を仕入れに行くという口実で、きわめて朝早くに宿を出た。
 まだ、朝一番の葦刈船がゆらゆらと湖岸で働いているくらい、街は眠りの続きにいる。山の端が煙って白く霞んで見え、夜露が蒸発してゆく、そんな時間である。二人はほとんど互いに口も利かぬままで、そそくさとラスの街の、終夜店を出している屋台の一つでエトルリア名物の麺を一杯ずつすすって腹ごしらえをした。
 どちらもあまり口を利かない。ルカディウスのは、この先の手立てを考えるのに夢中になっているらしいが、アインデッドのはどう思ってのことなのか、いま一つ判らない。
 ルカディウスはしきりと、ああでもない、こうでもない、と口の中でぶつぶつ呟いていた。アインデッドの方はそれにまったく構いつけずに、湖水を渡ってくる冷たい風に髪をなぶらせ、何やら自分の想念にすっかりひたりこんでいるようであった。
 二人はろくに言葉を交わさぬまま、ラスの町並みを抜けて湖岸に下りていった。少し離れた辺りに、黄金色の、まっさかりのセラミスの群落にふちどられて、金色の炎に包まれているかのような、白亜宮が見える。
 町外れのこの辺りから見えるのは、離宮の右手、裏側に近いほうである。厨房の煙が立ち昇っている。湖面に、何百本もの円柱にしっかりと支えられた優美な離宮が影を落としている。
(白亜宮――白亜宮)
 ルカディウスはさっきから、口の中でずっとそればかり呟いていた。知らず知らずときたま声が大きくなるのでそうと知れる。
(裏は、かえって表口より警戒が厳しい。といって、表口は跳ね橋だ。……跳ね橋の下りるのはサッシャからの使者や大公のお成り、あとは勅使が来たときだけ――跳ね橋の上から監視していれば、どこからどう近づく船もはっきり見える)
 ぶつぶつと口の中で言い続けているルカディウスを、アインデッドはちらりと見た。が、何も言わず、湖岸の岸壁に座り込んでその辺の草をとって口にくわえ、草笛のように低く鳴らしている。
(結局、目につかないようにってことは、無理だって事だ。――何せ、忍び込もうにも周りは湖水、泳ぎ渡っても、上から矢を射掛けられる。……それにどのみち、ただ我々が忍び込むだけならまだしも、最終的には公女――どうせあの侍女も一緒にゆかなくては、納得しないんだろうが――をどうかして連れ出し、エトルリアを抜け出させる、という重大な仕事もあるんだからな。……これはやはり人目を忍んだり、目をくらますというより、はっきりと誰が見てもあやしまねえようなたくらみを巡らさなきゃいけない)
「……」
 アインデッドは、ああか、こうかとルカディウスがしきりに考えているのは気にもとめていなかった。ただ、傍らにぼんやりと座って、目を湖水の輝きの方に遊ばせている。さやさやと湖水を風が渡り、湖面に細かな皺のようなさざ波を立てさせる。葦刈船がゆらゆらと揺れる。水面に映る円柱と宮殿のシルエットも、一瞬砕ける。
(あの白亜宮の中に、ラトキア公女シェハラザードがいる)
 ゼーアの花、ラトキアのセラミスと呼ばれた美女であることは、アインデッドも噂に知っている。だが公女の容姿について彼が考えることはあまりなかった。ただ、どう言って公女を説得するか――それが今の彼の関心事だった。
 ルカディウスはなおもしきりにぶつぶつ言ったり、考え込んだりしていたが、やがて、一つ大きくぽんと手を叩いた。
「ふむふむ。こうこうとこういって――おお、これならどうにか監視の目を逃れて、とりあえず何とかなるか……」
 何やら呟いているのを尻目にかけて、アインデッドは立ち上がり、二、三歩湖水に寄った。
 ここから見る白亜宮は、ようやく少しずつ目覚めかけているところである。厨房からは相変わらず煙が立ちのぼり、ゆらゆらと湖上の青い空に消えてゆく。葦刈船もこの離宮の周辺には、禁じられているのか近づこうとしない。立ち並ぶ円柱の間に、お仕着せらしい白い服をまとった人の姿が、忙しげに出たり入ったりするのが小さく見える。
「――すまないが、な、アインデッド」
 いきなり、ルカディウスが立ち上がった。
「俺はちっとあれこれ、手配しなくちゃならねえ。おまえ、一人で宿に戻るなりどうなりして時間をつぶしててくれるかな」
 黙ったままアインデッドは頷いた。ルカディウスは一分一秒も惜しむようにそそくさと歩き出す。アインデッドはそこに立ち尽くしたままなおもじっと、細めた目で白亜宮のたたずまいを見つめ続けていた。ルカディウスの小さな姿はすぐ曲がり角を曲がって見えなくなる。ゆっくりと、小さい船が二、三隻離宮に出入りしている。おそらくは食料や何かを買い求めたり、それともサッシャに、一日の平穏を報告しにゆく船であるのかもしれなかった。

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