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     その小舟は岸にあって
     船出を待っている
     苦しい恋から逃れるために
     航海を望む者たち
     悲しみを抱えているのなら
     勇気だけを連れておいで
     船に乗りたいのは誰?
           ――《岸の小舟》




     第四楽章 イントラーダ




「先生」
 ドアの外から、宿のあるじがノックして声をかけたとき、ルカディウスとアインデッドは残った金を数えている最中だった。
「はいはい」
 あわててざらざらと金貨や銀貨を布袋の中にさらいこみながらルカディウスが答える。が、その音にかき消されて、耳に届かなかったと見える。
「ルカディウス先生、おいでじゃないですかね」
「わたしは、中にいるよ。どなたか、お客さんかね」
 ルカディウスは金の片づけをアインデッドに任せて立っていった。彼らがラスの街の、あまり多くもない宿屋の一つに腰を落ち着けてから、三日が経っていた。
 今のところルカディウスのたくらみはうまく奏功しているかに見える。ルカディウスの言い含めてやった手下どものさくらのおかげで、西方からきたもぐりの名医がいる、という噂はすぐ、ラスの街に広まっていった。
 ラスはかの有名なディアナ遊廓を擁する区画以外はごく普通の小規模な街で、元来が保養地のようなところで小さい漁村であるし、サッシャまで船で半日、快速艇なら数テルというこの距離では、何かあればすぐにサッシャに行ってしまった方が話が早い。何といってもさすがにエトルリア大公のお膝元だけあって、サッシャは中原でも五指に入る大都市なのだ。
 であるから、サッシャに近いわりには、ラスの街そのものには、大きな医者だの占い師だのはいないのが、幸いだった。――念のために言っておくと、当時、医者と言うものはその大半が占い師、呪い師、呪術師、魔道師を兼ね――というより、その五つのものの互いの境界線と言うのは、まことに曖昧模糊としたものでしかなかったのである。
 また自分で自慢するだけあって、ルカディウスはけっこう小器用であった。薬草についての知識も豊富だし、言うこともなかなか尤もらしい。異形の外見も、そういうふれこみだとかえって勿体をつける役に立つ。
 まず手始めに、宿のあるじのできものを治してやり、あるじの娘の運勢をみてやったので、ルカディウスはすっかりこの《空飛ぶ狐》亭の一家の信用を勝ち取ってしまった。それはけっこう大きい宿屋で、そこのあるじはラスの街ではなかなか顔役でもあったので、街役の集まりに行っては、頼みもしないのにルカディウスのことを宣伝してくれるようになったのである。
 アインデッドの方は、ルカディウスの若い助手という触れ込みで、これはアインデッドにはまったく面白くないなりゆきであったが、やむを得ずおとなしく、人前だけでもルカディウスを先生と呼んで、ルカディウスの荷物を持って歩いてやらねばならなかった。
 アインデッドとしてはどうしても、これはいつもけんつくを食らわせていることへの、ルカディウスの陰険な復讐ではないかと勘繰らないわけにはいかなかった。しかしたしかに、アインデッドではどうまかり間違っても名医に見えようはずはないし、その真似もできなかったので、どうすることもできなかった。
「あ、先生。――お出かけかと思った」
 入ってきた宿のあるじのジャユーは、にこにこしながら言った。
「お休み中のところを申し訳ないことですがね、また一人、みてやっていただくことはできんですかね」
「いいとも。医は仁術とウァレンスも言っておるよ。どれ、どんなあんばいだね」
「今、連れてきましょう。こりゃ、あっしの知り合いってんじゃねえんですがね、あっしがさんざん先生のことを吹聴したもんだから、あっしの所によく出入りする白亜宮の隊長さんが、自分のコレで――と言って彼は小指を立ててみせた――診てほしいわけがある、と言って連れてきたんでさあ。どうせ、こう言っちゃあ失礼だが、白亜宮のもんが宮廷医でなく先生に頼もうってからには、こりゃ、こっそり侍女でも孕ませちまって、水に流してくれってこったと思いますがね」
 アインデッドは袋を取り片付けるふうを装いながら、目だけをそちらに向けた。しかしルカディウスの方は、いっこうに動ずる気色を見せなかった。
「どんな事情があろうとも、医は仁術。よかろう、つれておいでなさるがいい」
「ありがてえ。きっとお情け深いルカディウス先生のこったから、そう言ってくださると思いましてね、実はもう、下に待たせてありますんで。……じゃ、ちっと待っててくださいよ」
 そう言って、ジャユーはひょこひょこと出ていった。アインデッドとルカディウスは素早く目を見交わした。
「こいつはどうやら――」
「的かな」
「と、踏んだがね。手ごたえは充分ってとこだ」
「だと、案外早く片付きそうだが」
「おっと、足音がする」
 部屋に近づいてくる足音は、どっしりとしたジャユーのそれと、軽い女らしいのと、二つになっていた。
「この子なんですがね。よろしゅう頼みましたぜ」
 ジャユーが、すっぽりとマントに頭から足の先まで包んだ若い女を、部屋の中に押し入れるようにして、後ろからドアを閉めた。娘はびくっとしたが、両手でしっかりマントの前をかきあわせ、うつむいて顔をすっかりフードに隠したまま、顔もあげず、口を切ろうともしない。
「どうされましたかな。どのへんが、お加減が悪い?」
 ルカディウスは声をかけた。娘はいっそう身を固くしてうつむく。
「――私はモリダニアのルカディウスというもの。昔は一家をかまえた大医であったが、ゆえあって免許を取り上げられ、それでも人助けをしたい心やみがたくこのように諸国を放浪する者。医師ギルドの五箇条とも今は無縁の身なれば、どのような秘密でもきっと守って進ぜますぞ」
「あ――あの」
 娘は口ごもり、やっと口を開きかけた。どうやら、よほど内気なのか、あるいはよほど怯えきっているらしい。
「うん、うん?」
「あの……」
 娘は喘ぐように息をついだ。
「わ、私――」
「どのようなお頼みなりと、金次第でありますぞ」
 ルカディウスは先を横取りした。
「まことの医師なら聞いてはあげられぬ、水子を流す薬、顔を美しくする魔術、惚れ薬、憎い仇を殺す薬なりとも、調合してしんぜることができる」
「あのう――あの」
 タマルは――むろんそれは、タマルであった――必死の勇気を全て奮い起こした。
「お……お腹に赤ちゃんが――いるかどうかは、どのようにして……見分けたら、よろしいのでしょうか?」
「わけもないこと」
 ルカディウスはへらへらと言った。
「十月十日待つがよろしい。それだけ経って子が産み落とされれば、はらんでおったのだよ」
「そ、そんな」
 タマルはからかわれているとも気付かず、泣きそうな顔になった。
「それでは取り返しがつかないんです。もっと、もっと端的に、知る方法は……薬とか……」
「いや、これは失敬。ただ、お若い娘御のようなので、ついからかってしまったのですよ。申し訳ない。が、いずれ簡単なことには相違ありませんぞ。ではちとこちらの寝台に寝てみなさるがいい。いや、なに。顔を見られるのがお嫌なら、フードはつけたままで結構。ともかく、そこに横になりなさるがいい」
「あの――あの!」
 タマルは首を横に振った。
「みていただきたいのは、私――じゃないのです。私の――私のご主人様が……」
「それじゃあ無理と言うものだ」
 ルカディウスは真面目くさって言った。
「あんたを診て、あんたのご主人が孕んでいるかどうか知るのは、これはちと、いかに私が名医ウァレンスの再来だとしても難しいな」
「まあ、おかしなお医者様!」
 タマルはひどくびくびくして、その上心配と恐怖とで気も狂わんばかりになっていたけれども、思わず吹き出して、そう叫ばずにはいられなかった。
「いつもそんななんですの?」
「私は、人の心に喜びを与えるのが好きなのですよ」
 ルカディウスは調子に乗って続けた。
「心にも、体にも、救いと望みをな。――しかし、それもまあ、わけないことだ。ではそのご主人様をつれておいでなさるといい。一テルジンで診てさしあげよう。おおかた、主ある貴婦人が、ついうかうかと保養地の別荘で恋人と逢い引きを重ね、腹ぼてになったかと心配で夜も眠れませんのでしょう?」
「それが――」
 タマルはまた口ごもった。
「ご――ご主人様を、ここにつれてくるわけには行かないのです。何とか……お金は出しますから、何とかして、ご主人様にお子がおられるかどうか、調べてくださることは? 薬か何かで……」
「百イン」
 ルカディウスは落ち着き払って言った。
「百インと、それに薬を手に入れるのに十日、しるしが出るのを待つのに一月、だね。それで何とか調合してみてもよかろうが、しかしそのしるしがどう出たものかもどのみち、わたしが行って診察しなければわかりませぬ。どっちにせよ、一回は、ご当人が来るか、わたしが行くかしなければ、何ともしようがありませんよ」
「困ったわ……」
 タマルはマントの下で両手をもみしぼった。
「それに、十日――それから一月……ですって。とてもそんなに待ってはいられないわ。このところとみに姫様のご気分はすぐれないし、その上にまたあの嫌なランでも来ようものなら――」
 口の中で呟く。
「それにもし万一赤ちゃんがいたら、早く処分しなくてはいけないのに。……もし大公たちに気付かれれば、ただちに赤ちゃんを無事保護するよう、宮廷医師をつけられてしまうだろうし、公子と公弟たちの方はどんなことをしてでも姫様と赤ん坊を闇に葬ろうと画策しはじめるに違いない。時が経てば経つほど、全ては困難になるわ――でも、こういう流れ者の医者でもないかぎり、とても秘密にしとおすわけにもいかないし……ああ、どうしよう!」
「よっぽど、深いわけがおありのようだね?」
 ルカディウスは優しい声を出した。
「もうどうしても、全てを公にできぬ事情がおありだというのなら、わたしとわたしの助手を、そのご主人とやらに会わせてくれさえすれば、十テルジンでお子ができているかどうかを診てさしあげられるのだが。そこまで困っていなさるなら、何とかその手引きの方策を立てられては、いかがかな?」
「ええ――私も、そう思うのですけれど……」
 タマルは必死に頭を巡らせた。
(でもとても――それは警備が厳しくて、決して、お連れすることだけは無理でしょう。そんなことができるのなら、とっくに姫様をここからお逃がししているもの。しかし、とにかく何とかしなくてはならないわ。――また、イー・ジュインに相談してみよう。どうしても外にお連れできぬなら、何とか手立てを見つけ出して、この医者のほうを、姫様の所に連れ込めるようにするしかないわ。きっとその方が、まだ少しは見込みがあるわ)
「娘さん」
 ルカディウスは、タマルのすっかり途方にくれているのを見かねた、という様子を作って言った。
「わたしは親切な上に、もう免許も取り上げられ、こんな傷まで負って、もう失うものは何もない。なればこそ余生を、世の人達に良いことをしてあげるために使おうと、こうして中原じゅうを回って歩いている。もしそのお方――どこのどなただか知らないが、そのお方がわたしの診察を受けなければ生命に関わる、というぐらい切羽詰まっておいでなら、よろしい。わたしとこの助手で、何とかそのご主人のもとにこっそり、誰にも見つからず入り込めるような手立てを考えてもよろしい。どっちみち、この先のあてだの、いつまでにどこに行くだの、そんなことは何一つ決まっていない、気ままな身分だからね」
「ほ、本当に、そうしていただければ、どんなにありがたいことか! 主従二人の恩人ですわ。でも――でも駄目ですわね。とても、そこまでしていただいては申し訳ない。だって、万が一見つかりでもしたら、あなたがたまでが身の危険にさらされるかもしれないんですもの」
「――千イン」
 ルカディウスは用心深そうに周りを見回し、いかにも本当はそんな危険を冒すつもりなどないのだが、欲の皮が突っ張っているあまりこう言い出すのだといったていを装いながら、低い声で囁いた。

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