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     風が吠え 波が猛る海原を
     王となるべく生まれた若者を乗せ
     白い鳥のように 風の翼に乗った船はゆく
             ――アインデッド王のサーガ




     第二楽章 ラスの舟歌




 あたりは、サッシャの色里ラティーナの夜だった。
 けだるく、物憂い恋歌が、夜気を貫いて流れてくる。店の門口で客引きが客を引き、それを半裸同然の女たちがひやかしたり、水煙管をくわえて腕を組んで見守っている。まだまだ、夜はたけなわであった。
 ――その中を引っ立てられていく、丈高い若者は、いやが上にも人目を引いた。
 何をしたのだろう――お尋ね者だろうか、見ればまだ、けっこう若いようだが――などと、ひそひそとささやきあう声が耳に入る。アインデッドはいかにも観念したふうをよそおい、長い髪になかばおもてを隠して歩いていった。
 そのまま、ラティーナの人ごみをしだいに抜けた。その先は、だんだん静かな、ひと気の少ない通りへと入ってゆく。
「その先に船が待たせてある。それに乗せて、雪花宮に連行しろ」
 隊長が言った。
「はっ」
「俺はもう一度ラティーナに戻る。少々、確かめねばならんのを忘れていた。――この男には、連れがいた。あの連れが同じ女郎屋に滞在しているとすれば、その者も連れて戻らんと、ハン・マオ殿下のお怒りを買うだろう」
「は……」
「お前たちはこの男を連れて一足先に戻り、ハン・マオ殿下にお目通し願え」
「はい」
「殿下がこの男だとおっしゃったら、すぐ地下牢の拷問所につれてゆけ。違うとおっしゃったら、空いている牢にでも当座放り込んでおけ」
「かしこまりました」
「十名ばかり、ついてこい」
「はっ」
 兵士たちは二手に分かれた。アインデッドは、しめたと思う内心をおくびにも出さなかった。相変わらずうなだれて、いかにもすっかり力尽きてしまった者のように、とぼとぼと歩いていく。
 ふいに、ヒュッと鋭い音がした。
 やにわにばらばらっと飛び出してきた一団があった。みな布で鼻と口を隠している。
「何やつ!」
「曲者!」
 訓練された動きを見せて、たちまちエトルリア兵たちが隊列を変え、中に捕虜を押し包む形に変わった。ただちにそれを、捕虜目当てのものと見て取ったからである。
「何者だ」
 隊長から指揮を引き継いだ副隊長らしいのが叫んだ。
 襲撃者たちは何も答えない。その先頭に立つ、小さな、すっぽりと体をマントで包んだ男の右手がさっと挙がった。
 とたんに、襲撃者たちの手から一斉に目潰しの砂袋が放たれた。
「お頭っ。こっちだ」
 わっと叫んで顔を背ける兵たちに、もうアインデッドは構ってはいなかった。味方の姿を見るなりさっと身を沈めて砂を避け、そして兵たちの隊列が乱れたと見るや、機敏に体当たりをして一箇所に活路を開き、横っ飛びにおどりこえて味方の中に転がり込んだ。
 突き飛ばされて転んだエトルリア兵が反射的に、逃すまいとアインデッドの足を掴もうとした。だが足首を掴んだと見えた手は、次の瞬間まるで乾いた枯れ木が燃えるようにぱっと炎に包まれた。
「ぎゃあっ!」
 切羽詰まった叫び声があがり、手が放される。そのすきにアインデッドは差し出された手を掴んで立ち上がった。
「お頭、早く!」
 手を引っ張られて、駆け出す。後ろから、やっと陣営を立て直した兵士たちのわめき声と、すでに切り合いが始まっているらしく、激しく切り結ぶ物音と叫びが聞こえてくる。走りながらアインデッドは後ろを振り返り、何かに集中するように目を凝らした。とたんに新たな悲鳴が上がり、エトルリア兵たちが踊るような動きで鎧を引き剥がそうともがきだした。
「お頭、力なんか使ってたら、遅くなる!」
 事情を知らぬ者たちが何が起こったのかを確かめる暇もなく、アインデッドと数人の盗賊たちは我勝ちに走った。ともかく路地に飛び込み、入り組んだ細い道を通って、しだいに運河に近づいていく。
「ちょっと、止まれ――どうやらもう大丈夫そうだ……」
 足を止め、息を切らしながら、しばらく遠くの気配に耳を澄ませていた一人が言って、覆面をずらした。見るまでもなくアインデッドには声で、相手が判っていた。シロスだった。
「お前の機転で助かったぜ、シロス」
「間に合ってよかった」
 まだ軽く息を切らしながらシロスが言う。
「おらあ連れて行かれて、宮殿に入っちまったらことだと思って、気が気じゃなかった」
「知らせたのは、ルカか」
「さようで。ルカの野郎、見つかると怒られるもんだから、門の近くに隠れてずっとお頭を護衛してたんで。それであの騒ぎになるとすぐ、あっしらのヤサに来て手立てをたててくれましたんで。どうせ行く先は雪花宮だろうからと、道を考えて、手数を伏せて」
「ルカは?」
「食い止めるための一隊を率いて、まだ戦ってるんでしょう」
「ふん……」
 アインデッドは考え込んだ。が、ふいに言った。
「シロス、このサッシャにも居づらくなったな」
「へい」
「この後の手立てもルカは指図してたのか」
「一応、その先の鏡橋の根方に大型のカダーイを何隻かもやってありますんで。それで、いったん、運河沿いにサッシャを出ようと」
「そうか」
 アインデッドはすっと目を細めた。何か、あまりたちの良くない微笑がちらりとその口許をかすめた。
「よし、シロス。まずその船に案内しろ」
「へいっ」
「あまり先に行っちまうと、ルカが判らなくなりやしませんか」
 他の者が尋ねる。
「ルカが自分で決めた落ち合い場所だろ。第一ルカたちが逃げてきて、追っ手をここまで連れてきちまったら、逃げた意味がねえ」
「あ、そりゃそうだ」
「狙われてんのは、お頭だけだもんな」
「それにしても」
 一行は今度は、なるべく人目に立たないように、色里でひと遊びした遊び人たちが、酔っての帰り道、といったていを装いながら、川に沿って歩いていた。
「一体どこからお頭の面が割れたのかな」
「ああ。ルカが盗み聞いたところじゃ、赤い盗賊団のアインデッドの名は奴らに割れてるわけじゃねえんだ」
「シッ。声が高い」
「連中はただ、これこれこういう風体の巡礼、という命令を受けてきただけらしくて、この男はいったい何をしたんだろうな、と口々に噂しあってたそうだ」
「ということは――」
「ハン・マオだ」
 アインデッドは、短く吐き捨てるように言った。
「公弟のハン・マオと、すれ違っちまってよ。その時、向こうが俺に目を付けてきやがった」
「すれ違うって、何かやらかしたんですかい、お頭」
「馬鹿言え。ただ、向こうがお通りあそばすのを、平伏してお待ち申し上げてただけのことだ」
「それで、討手を?」
「ああ。そうだ。よくせき俺は目立つんだろうよ」
「そりゃ、おかしらは目立ちまさあ。一目見たら、忘れられねえや」
「そんなに目立つか? 俺は」
「目立ちますとも」
「しかしそいつぁ、ハン・マオのやつ、赤い盗賊の首領とも知らねえで、助平心でも起こしやがっただけのこっちゃねえのかな。そいつも充分考えられるぞ」
「さあ。ハン・マオ公弟が、シルベウスの病の持ち主だなんて噂は聞いたことがねえが――しかし、そんなに切れる奴だという話もきかねえし」
「まあいい。何にしろ、こうして奴の鼻先から無事逃げおおせてやったんだ」
 アインデッドは面倒そうに言い、前方をすかして見た。
「おお、あのカダーイだな」
 シロスが駆けていって河岸に屈みこみ、指を口に入れてヒュッと鳴らすと、すらりと長い小舟がすかさず漕ぎ寄せてくる。
「お頭は」
「ご一緒だ」
「お待ちしておりやした」
 カダーイには船頭たちの他に、二人の盗賊が待機していた。
「シロス」
 アインデッドは何かの考えに頭を占められてしまっているかのように、心ここにあらずといったていで尋ねた。
「へい」
「カダーイは、全部で何隻ある」
「五隻でさ」
「一隻、何人乗りだ」
「大型ですんで、七、八人は。全部で四十人ほどで来やしたからね」
「そうか……」
 アインデッドは部下たちを見回した。
「こっちに来た者は何人いる」
「二十人」
「二手に分かれたってわけだな。よかろう。カダーイに乗れ、皆」
「へい」
 盗賊たちははしごをつたって桟橋に降りてゆくと、敏捷に、次々とカダーイに乗り込んだ。
「シロス」
「へい」
「皆を連れて、次の橋まで先に行って待ってろ」
「お頭は?」
「俺はルカディウスを待つ。カダーイを二隻置いて、先に行け。その間にどこにどう落ち延びるか、考えたいんだ」
「しかしそいつぁ危ねえ。残るなら、あっしが残りますよ」
「うるせえな。俺の決めることに口出しするな。俺には俺の考えってものがあるんだ」
「へ、へい」
「いいか、この先の橋というと――」
「たしかディマ橋で」
「よし、その橋をくぐり、ゆっくり河口の方へ漕いでゆけ。すぐに追いつく」
「わかりやした」
「じゃあ、行け」
「へい。――船を出せ」
 カダーイの船頭たちも、どうせ金で雇われたうさんくさい連中である。長いオールが上がり、盗賊たちを満載したカダーイ三隻は次々に岸を離れた。暗い、夜の運河に滑り出ていく。
 アインデッドは、ばたばたと逃げてくる気配がするのではないかと耳を澄ませながら、五テルジンほど、じっと待った。
(思ったより、手間取ってやがる。やつらの鎧の中に、火をつけてやったが。あんなこと、しなくたってよかったな。――今の間にエトルリア兵にぶち殺されているのなら、手間が省けるんだが)
(もし逃げおおせてきたら、二十人か――。その程度なら、いっぺんに焼き尽くすのは無理でも、とりあえず黙らせることはできるな……)
 こっそりとそう独りごちたアインデッドの、若い精悍な顔が、おりから射し出た月明かりに、蒼白く、残忍なものをひそめて映し出された。

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