前へ  次へ


                                *



 フェイが怪訝な顔をする。
「やっぱり、あんたなの?――何だって、公弟の兵士に探されてるのよ」
「俺には、そんな覚えはねえよ」
「そんな怖い顔しないでよ。身に覚えがないのなら、何も心配要らないじゃない。けど、いずれここにも来ると思うし――」
 言い終える前に、アインデッドは立ち上がった。ここにいてはいけない、と急に感じたのだ。
「おい、フェイ」
「なーに」
「悪いがもうお別れだ」
「やっぱり、あんたなの? エンディート」
 フェイの目が丸くなる。が、遊廓の女は肝が据わっている。こんなことは、そう珍しいことでもなかった。
「知るか。探してるのは向こうだ。こっちにゃ兵士になんぞ、用はねえよ」
「あんた、何をしたのよ」
「何もしてねえってのに。ただ、行列と行き違ったときに目が合ったって、それだけだ。公弟がどんな趣味をしてるやら知ったことじゃねえが、おおかた俺の顔が目立ちすぎるのがいけねえんだろ。――とにかく」
「わかった、わかったわよ。ほんと、せっかちね」
 フェイは別れるのが名残惜しそうな様子だったが、諦めたように両手を挙げ、アインデッドの後ろについて部屋を出た。この時間に帰るという客はそう多くはないが、勘定場には、三人か四人ほどの客がいた。
 四日分の勘定を済ませようと、アインデッドが彼らの後ろについた時だった。ふいに、大きなざわめきが入口で起こった。
(ちっ、間に合わなかったか)
「臨検だ!」
 鋭い声もろとも、ぞろぞろと兵士たちが入ってきた。驚き、怯える客たちの前に、左右から鋭い槍の穂先が組み合わされた。アインデッドはそれでたちまち、動じて飛び出すほど、場慣れしていなくはない。それにまだ、相手が自分の身元を、街道に名だたる盗賊団の首領と知っての上で、探してきたのか、それともただ怪しい奴と踏んだのかも判らないのだ。アインデッドは動くのをやめ、そこに立っていた。
「動くな。手を後ろで組め」
「……」
 フェイは、廊下の隅で小さくなっている。
 入口を抑えているのとは別の一隊が、店の奥へと入っていく。その場に残ったのは小隊長らしいのが三人だったが、外にはもっとたくさんいる。入口にいた数名をざっと見回して、彼らはすぐにアインデッドに目を付けた。
「おい、お前」
 その鼻先に、灯が突きつけられた。エトルリア兵のごつい兜がきらきらと光った。
「よしてくれ。髪が焦げるじゃないか」
「緑の目……。お探しの男と同じだな」
「何の臨検だ?」
 素早く、兵士たちの手が腰や、脚を探って武器を確かめるのを、真っ直ぐ立ったまま尋ねる。
「名前は?」
「何の臨検なんだ?」
「名前は!」
「エンディート」
「どこの出身か」
「ベニツァ」
「ベニツァのどこだ」
「ガイーヌの、ルーダン村」
「何が生業だ」
「傭兵」
「サッシャへ、何をしに来た」
「職探しだ」
「ペルジアでも傭兵募集はあるだろう。なぜエトルリアに来た」
「エトルリアの方が給料が高いし、サッシャなら募集も多いから」
 隊長は、ごつい、いかにも典型的なエトルリア男の顔立ちと、あまり大きくないが横に広い、頑丈な体格を持った四十がらみの男だった。
「服を調べろ」
「はっ」
 背の高いアインデッドの肩か顎くらいまでしか、隊長の背はない。伸び上がるようにして手を伸ばし、篭手をはめた指で、ぐいとアインデッドの顎をつかんでこちらを向かせた。アインデッドは黙ってされるままになっていた。
「ベニツァのエンディートだと」
 隊長は、穴の開くほどじろじろとアインデッドの顔を見上げた。
「ペルジア人にしては、ずいぶん背が高いな」
「持って生まれた体格なんだから、しょうがないだろう」
「要らん口を利くな。聞かれたことにだけ答えろ」
 隊長はなおもしげしげと眺めた。アインデッドは、どうにでもなれと腹をくくって、その凝視に耐えていた。わりあいに似ているとはいえ、細かく調べられればぼろが出るのは当たり前である。あるいは最初からティフィリス人だということにしておけばよかったかもしれないが、それはそれで、彼の瞳の色からするともっと色々聞かれるだろう。
「どうも顔が、ペルジア人らしくない。目つきが違う」
 隊長はぶつぶつ言った。やっとアインデッドの顎から手を放し、その肩や、胸に、筋肉のつき具合や骨の太さを確かめるように触ってみた。アインデッドはそれでもじっと我慢していた。
 もともとティフィリス人はほっそりとして骨が細く、またペルジア人は小柄な方であるから、アインデッドのすらりと細い、腰の締まった体型は、背の高いのは別として、骨細なところはペルジア人といえなくもない。
「ふん――体つきは、ペルジア人と言って言えんこともないが……」
「母親は?」
「クレオっていうんだ」
「父親は?」
「ガイーヌのエウマイオス」
「職業」
「金細工師」
 そのへんのことは、全てルカディウスが整えてくれてある。
「……」
 隊長は、納得のいったとも、いかないともアインデッドにはわからぬ顔で自分の顎を撫でた。
「よし、手形を」
 アインデッドは、これもルカディウスが用意した偽の手形を差し出した。ガイーヌのエンディートが、求職のため、ベニツァからエトルリアへ向かう旨を証明する、とある木の札である。
 こういうことにかけてはルカディウスは信用できるので、アインデッドは、これでほとんど大丈夫だろうとふんだ。が、隊長は、手形を返そうとする代わりに、それを自分のかくしにしまいこんでしまった。
「何するんだ。返してくれよ」
「よかろう。あとは、しかるべき役所で手続きを取って、その上で疑わしい点がなければおかまいなしということになる」
 隊長はちらりと、嫌なもののある笑みを見せた。
「一晩われわれに付き合ってもらうぐらい、どうという手間でもないだろう。――よし、連行しろ」
「何だって」
 アインデッドは、見せ掛けでなく呆然とした。そしてさすがに食って掛かった。
「いいかげんにしてくれ。手形も問題はない、身元もはっきり申し立てている、それで何の疑いをかけられてるのかも言われないまま、どこに連れてゆかれるのかもわからないで、どうしてついてゆかなくちゃならないんだ。こっちにだって都合ってもんがあるんだ。納得がいきゃ、ついていってやらんものでもないが、これじゃあまりに――」
「すぐ終わる。あるお方に面通ししていただき、お探しの男でないとなったらただちに釈放する」
「あるお方って、誰だよ」
「ハン・マオ殿下だ」
「何だってそんな――俺は、そんな偉いお方に知り合いはねえ」
「いいからついてこい。でなければ、縄目にかけて連行するぞ」
 アインデッドは黙って唇を噛んだ。ここで少しばかり抗ったところで、入口までびっしりと兵士が固めている状況である。たぶん裏口もそうだろうし、逃げ切れそうもない。しも彼は、娼家のしきたりで、入るときに剣を預け、丸腰だった。それに何を言うにも、地理不案内なエトルリアの都である。
 ちらっと目をやると、廊下の隅の薄暗がりで、フェイが目を大きく見開いてこの様子を見守っている。
(こんなことなら、フェイにシロスのところへ走ってもらうんだった)
 思ったが、もう手遅れだった。アインデッドは、縛り上げられこそしなかったが、マントを着ることも許されぬまま、ごついよろいかぶとに身を固め、槍の穂をぎらつかせた兵士たちに囲まれて、小部屋からそっと首を覗かせている女たち、客たちにじろじろ見られながら表に出ていった。そこも、そこをかためている兵士たちと、野次馬の双方で、黒山の人だかりになっていた。
「歩け」
 その中を、容赦なく後ろから小突かれる。
(てめえら――今に、見てやがれ)
 アインデッドは唇を噛み締めた。が、もとより脛に傷持つ身ではある。
 何と言っても、ハン・マオが何を考えて自分をあやしんだのか、何をどこまで知っているのか、判らないことが多すぎることがいちばん不気味であった。
 エトルリアの公子と公弟のうち、一番の切れ者は、粗暴だが勇敢な長男のランである、と聞いている。次男のファンは頭は悪くないが性格が悪く、公弟のハン・マオについてはほとんど何も聞かない。ランかファンならともかく、ハン・マオが、あの一瞬のすれ違いに、自分の素性まで見抜く眼力を持っていようとは思われない。
(そんな、鋭い奴とも見えなかったが)
「何をぼんやりしている。きりきり歩け」
 ぴしり、と後ろから槍の柄で背中を殴られた。こいつらは、今に皆殺しにしてやる、とアインデッドは密かに誓った。
 こつんと、ごくごく小さな何かが彼の胸に当たった。
 すぐに振り向くほど、愚かではない。はっと我に返ってから、一呼吸をおいて、すばやくそちらに目をやった。
 つれてゆかれる咎人――何のとがかは知らぬが――を一目見ようとする、物見高い群衆の後ろに、引きつった醜い顔があった。小さいルカディウスのことだ、何か台にでも乗っているのだろう。
 アインデッドの目を引いた、とみるとルカディウスは指を上げて前方を指差し、しばらく真っ直ぐ行けというらしい合図をした。
 それからルカディウスの頭は、人波の中に没した。アインデッドは何事もなかったかのように歩き続けた。
 あたりはサッシャの遊廓、ラティーナの夜である。

前へ  次へ
inserted by FC2 system