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 アインデッドはそこに立ったまま、胸に腕を組んでいる。二百人はその前を通って行きながら口々に、「アインデッド、やってやろうぜ!」「アインデッド、力を貸すぞ!」などと声をかけてゆくのだった。
 それへいちいち笑って頷きながら、アインデッドは彼ら全員が前を通り過ぎてしまうまで動こうとせずにいた。それから、最後尾が通り過ぎたのを確かめて、初めて彼も馬に飛び乗った。
「ルカ。乗れよ」
 手を差し延べてやる。ルカディウスは、一頭の馬を人並みに御するには体が小さすぎ、脚が短かったので、驢馬に乗るか、誰かと同乗しなくてはならない。そして、この山越えの道は、彼が馬に乗るにしても無理があるし、驢馬にはきついので、この旅の間、当分彼はアインデッドの馬に同乗するつもりだった。
 どうせ馬は毎日交互に乗り換えるし、その方が何かと、密談にも都合が良かったからである。ルカディウスが後ろに飛び乗っても、アインデッドは何も言わず、目でずっと、木木の合間をぬってゆく彼の兵士たちを見つめていた。
 それからふと言った。――恐らくは彼としてはかなり気分が高揚し、楽しい気分になっていたのに違いない。
「ルカ、俺は――自分の兵隊を持ったのは、生まれてからこいつが初めてだ」
「だが、このあと、何倍、何十倍もの軍を動かすようになる。これはただの、手始めだ――この前も、そう言っただろう」
 ルカディウスは答えた。
「そうかな」
 今度は珍しく逆らわずにアインデッドはつぶやいた。気分が高揚してはいたけれど、その分不安もあったのか、どことなく気弱い口調だった。
「本当に、そうなるかな――?」
「決まってるじゃないか!」
「去年……」
 ふと、何か、自分にしか見えないものに思いを馳せるように、ティフィリスのアインデッドは呟いた。兵士たちの最後の列が、木々の間に入ってゆくところだった。
「去年の今頃、俺はお前といるとは思ってなかった。アルとは別れたけど、あいつらと袂を分かつとは思ってなかった。去年の冬――俺はほんとうに独りぼっちの傭兵だった。――ほんとうに国も金も友も、何もかも持ってない……メビウス南辺をほっつき歩く、見捨てられた……」
「アル――?」
 ルカディウスがふと、聞きとがめた。
 アインデッドは答えなかった。目を灰色の空に遊ばせて、彼は口の中で呟いた。
「オルテアは、もう雪の中かな。――カーティスの都は……?」
 捨ててきたさまざまのものを思うように、彼はゆっくりと馬腹を蹴った。
「お前と会わなけりゃ、俺は今頃、まだ中原をほっつき歩く、腹を減らした傭兵だったろうな」
 思い出したようにアインデッドは言った。
「ああ――」
 ルカディウスは答えた。二人はそう思いながら、黙ってゆっくりと、彼らの最初のささやかな軍隊の後を追って、再び深い冬枯れの木々の間に分け入っていった。
 見送っているあいだに遠くなってしまった彼らに追いつくために馬を急がせながら、アインデッドは小さなため息をついた。恐らくエトルリア以外の国を相手取る可能性はなかったけれども、下手をすればゼーア三国を巻き込む戦乱のもとを、これから作りにいこうとしているのだ。
 その重みが、今更のように彼の胸にのしかかってきた。
(たとえ中原に戦の炎を招き、夢破れて屍をさらすとしても――それが俺の運命なのだというのなら、《唯一の運命(アインデッド)》の名のとおり、俺はそれに従うしかない――。俺は運命の運び手なのじゃない。俺が運命に招かれ、そこに行き着くだけなんだ。今はまだ見えない、たった一つだけ、神の用意した結末に)
 斜面で馬を疲れさせてしまうと気付いて、アインデッドは速度を緩めた。
(いや違う。神の用意した結末などじゃない。そんなもの、俺はおとなしく受け入れなどしない。俺の運命は、俺のものだ。俺の望むただ一つの運命を、俺は作るんだ)
 森よりも深い緑の瞳は、この頃彼をとらえはじめていたものとはまた違った暗い火に燃えていた。
 そして――。
 エトルリアの首都サッシャは、人の言う「水の都」である。
 蜘蛛の網のように張りめぐらされた水路、運河と川。それはリリア川からサリア湖に流れ込み、サッシャからラス、またサリア湖沿岸の各都市への小船での交通の便に役立っている。
 またサッシャは、人々のいうところの「中原の中の西方」でもあった。
 エトルリア創国の人々は、はるばると西方の海の彼方はエルボスから、当時のゼーア王に連行されて、この中原に移り住んできたのだという。それはたしかにいわれのないことではなく、エトルリアは中原、むろんゼーアの中でも明らかに一つきわだつ異質さでもって知られている地方であった。
 たとえば、住む人々の顔かたちが違う。中原に土着の人々は基本的に――むろん地方によっておのおのの特性はあるにせよ、金色や茶、赤の髪と、青やグレーや緑系の瞳を持ち、白い肌とすらりとした体つきを持っている。しかしエトルリアの人々は、黒い髪、黒いつり上がり気味の細く小さい目と頬骨の高い、むしろ草原の人々に近い顔つきを持ち、肌の色も何となく黄色みを帯びている。
 名前の系統も草原の方にはるかに近いし、持っている文化や伝統そのものも、中原の中にあって、どことなく異質であった。
 もっともここ何十年、ことにゼーア国内での三国の交流は盛んである。特にペルジアとエトルリア間の混交は進み、ペルジアにはエトルリア系の武将が何人もおり、エトルリア人にも金髪碧眼は、しだいにごく稀というほどでもなくなってきている。
 とはいうものの、町の真ん中を小船が主要な交通機関として行きかい、水の上に柱で支えられた家や建物が並んで影を落としているこの風景は、やはりエトルリアに特有のものであった。同じ「水の都」として知られるセルシャのゾフィアは、海岸に埋め立てた土台の上に家が建てられている。
 狭い、細い街路の真ん中を貫いて巡らされている水路を、エトルリア特有のカダーイという細いカヌーのような小船と長い竿をあやつってたくみに走り抜けてゆく船頭たち。黒く塗られたそのカダーイは、客を乗せてサッシャの街を渡すものあり、いろいろな荷を運ぶもの、食物などを売りまわるものとさまざまである。
 各々に独特の風俗をして、船頭は夏は上半身裸で、寒い時には袖なしの、紐製のトンボ玉で合わせる前あきの上着を羽織り、頭には布を巻き、腕に幅広のサッシュを巻き、すその膨らんだエトルリア風のふくらはぎまでのズボンを履いて、舳先と艫に二人立って、ホーイ、ヨーイ、と掛け声を掛け合って水路に竿をさしてゆく。
 その両側はふつうは石畳で馬車の行き交う街路だが、住宅部では直接に水路の上まで家家の軒が両側から突き出して、アーケードのようになっている。小さい家々から水辺に下りる梯子がかかっていて、女たちが、水をはねかける快速のカダーイに向かって罵りを浴びせながら、洗濯や菜っ葉を洗うのに精を出している。
 市庁や雪花宮をはじめ、名だたる建物もみな水の上、運河の間である。とはいえ、全てが水の上なわけではない。
 サッシャの市門のあたりにはまったく川も運河もないし、広場も市場もある。それらはみな、白っぽい岩を切り出した石畳で作られていて、その向こうに、不思議な曲線を持つサッシャの幾つもの尖塔が見える。
 それはなかなか、エキゾチックで神秘の西方を思わせる眺めだった。
「――だな?」
「え?」
「いや、ここだけこうして見ていると、まるでネフテュスか、タイスにでもいるみたいだと思ってな」
「へーえ」
 相手は冷ややかに、分厚いマントの奥から答えた。
「お前、海を越えたエルボス、ネフテュスや西方ももっと奥まったタイスまで、行ったことがあるというわけだな」
「――ま、まあ、あちこち歩き回ったしな。お前はないのか、アイン――いや、エンディート?」
「無いことはないな」
 言われたほうは、とにかく何があろうと引っ込んでいては気がおさまらないたちである。即座に言い返したが、いくぶんあいまいなその言い方からして、書物や絵の上でだけ「行った」のかもしれないということはありえた。
「タイスへはともかく、ネフテュスへはな」
 もっとも、その若さからはまことと言いかねるほどに、諸国を放浪している彼であるのは確かだったから、一回や二回港を訪れたことがあると言っても、これまたおかしくはなかったのは確かである。
 この二人連れ――それは、つい一日前にサッシャの市門を行商の手形でもって入ったのだったが――それは言うまでもない、ティフィリスのアインデッドとその軍師、モリダニアのルカディウスにほかならなかった。
 行商と称しはしたものの、アインデッドの鋭く、戦士以外の何者でもない顔つきや、ルカディウスの一見するとぎょっとするような顔の傷は、一目でそれがいつわりであることを見破られてしまわずにはいられないだろう。
 そのため市門を通るときには、アインデッドは行商の用心棒、ルカディウスはその隊のガイドというていにこしらえて、もっとも目立たぬ風貌のシロスに行商の荷馬車を率いさせ、かねて下見しておいた下町の木賃宿に投宿すると、他の者と荷物はシロスに任せておいて、アインデッドとルカディウスはマントを深々と被ったヤム教徒の巡礼の姿に身をやつして、早速街の様子を偵察しに来たのだった。
 このなりであったら、あちこちを物珍しそうにきょろきょろしていても、そう怪しまれることはない。
「サッシャはずいぶん栄えているようだな」
 ひとしきり市の中心部を見て回ってから、水路の端の桟敷に陣取り、物売りの船から木の椀に入れたエトルリア名物の麺を二人前買って、一緒について来る長い、汚くてあまり衛生的でない箸を器用に操ってかきこみながら、アインデッドは評した。
「ああ。ことに、シャームがエトルリアの手に落ちてから、ラトキアのカディスや材木、セラミスなどすべてサッシャ、ラスを通じて売りさばかれているからな。このところ、中原で最も活気があるのはこのサッシャだとみて間違いないだろう」
 ルカディウスは、がつがつと細く長い、黄色い麺をすすりこんでいる。
 その、マントを後ろにはねのけた、醜く引きつった横顔を、アインデッドは嫌悪の面持ちで見た。
「それはともかく」
 話を打ち切りたいかのように言う。
「こうして見たところ、この都は、全ての交通を船でおこない、ことに雪花宮の周りは跳ね橋を巡らし、たいそう堅固な護りだ。こうしてサッシャに潜入するまでには、どうという困難にも遭わずにうまくいったが、これから先、首尾よくあの女に面会を取り付ける、何か手立てなり、つてはあるんだろうな」
「そんなものがありゃ、今頃こんな所でグズグズしてないさ」
 ルカディウスは木の鉢を持ち上げて、汁を一滴も残すまいとすすった。
「かといって、そんな手立てのある奴は、それだけで怪しまれて、ことに警戒の厳しい今のサッシャにはとうてい入れまい。ラトキア滅亡後の唯一の大公家の血筋である彼女を、何とかして奪還しようとする試みは後を絶たぬというし。もともと尚武の民であるラトキアの開拓民と、快楽の都ラスを擁するほどのエトルリア族とは、とかく気性が合わない。ツェペシュ大公家に深く帰属していたというわけでもなかったダンゼルクやアイスバードの民までもが、エトルリアに占領されるようになって、かえってラトキア国民として愛国心に目覚めている始末だという。エトルリア側としては、あの女さえ奪還されれば、たちどころに再びラトキア独立の兵力が集結しようことは、よく知り抜いているからな」
「そんなこと、今さららしく説明するんじゃねえよ」
 アインデッドは、水の上にぷかぷか浮いている籠に椀と箸と代金とを入れ、蓋をして放った。籠には長い紐がついていて、物売り船はたくみにそれを手繰って引き寄せる。
「お前は、口数が多すぎるんだ。なんだってそういちいち、自分の物知りぶりをひけらかさずにはおれないんだ」
 ルカディウスは恨めしげにアインデッドを見た。
「す、すまない。気に障ったか」
「俺の、昔知ってたやつで、やっぱりそういう、一言話しかけると十言どころか、五十言か百言も、ゲマティアートみたいなキイキイ声でわめきたてる女がいたもんだ。そのたびに俺はいつか必ずその減らず口を剣の平で叩いて黙らせてやると心に決めてたもんだよ。お前は、いつも俺にその、クァッガ(カラス)並みのお喋りを思い出させるんだよ。もっとも、そいつは女だったし、お前なんかよりゃよっぽど可愛げがあったがな」
 ご存じのとおり、アインデッドとて、その欠点の中に間違っても「無口」などという項目が入ってくるようなタイプではなかったのだから、この言い草はずいぶん非道というものであった。


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