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 もともと彼は人をひきつけ、魅了する、いってみれば主人公たるべき才能を内に秘めた若者であった。生まれ育ったティフィリスの下町で、彼はディシアの王子とあだ名される人気者であったし、そのティフィリスを出奔してからも、つねに人に好かれ、人の注目を引くのは当然と思って様々な人々の間を巡ってきたのである。
 しかし彼にしてみれば、そんなものは子供だましのくだらぬ花冠でしかなかった。――酒場女にちやほやされたり、小博徒に心酔されたところで、それが何になるだろう? ほっそりとしたその体の中に、もてあますばかりの大望と野心を秘めている彼が、真実に夢見ていたものは、そんなものではなかった。彼の国民、彼の軍隊、彼のために喝采する群衆、彼に捧げられる剣――そして、彼の《光の天使》であった。
 その夜、彼はほとんどその夢の入口に、手を伸ばせば届くところにまで自らがやってきたことを半ば信じたかに見えた。本当はどう思っていたにしろ、若いということは、ときにどんなことだって信じることを可能にしてしまうものなのである。
 彼は「アインデッド! アインデッド!」と叫ぶ声に応えて、真ん中に進み出、つぎつぎに何十人もの娘たちを相手に踊り回った。彼の若い体力は尽きることを知らぬかのようであった。彼は音感ばかりはどうしようもなかったが、踊りに関してはディシアで鍛えていたのでとても良い踊り手であった。
 鞭のようにしなやかな体がしなうたびに人々は喝采し、「もっと、もっと!」と叫ぶのだった。いくつのつぼが叩かれすぎて壊れたかしれなかった。彼は調子に乗って、刀子投げの妙技を、木を背にして立った娘の周りに刀子を打ち当てて披露して大喝采を浴び、あまり調子にのりすぎて、とうとう歌まで歌ってしまった。これはさすがにあまり成功とは言えなかったが、しかしかえって彼への親しみを増させたようであった。
 空が白々と明るくなるまで、彼らは底抜けの大騒ぎを続けた。恋人たちは手に手を取って砦にもぐりこみ、恋人でなくても、女たちはちっとも気にかけずにしだいに一対を作ってあちこちにしけこんでしまった。
 次第に肉は食い尽くされ、酒は飲み尽くされた。どんな宴にも、必ずいつか果てるときが来る。たとえ人々がどんなにそれを望まなかったとしても。
 ――空が明け渡り、梟が、朝一番の小鳥のさえずりに取って代わられるにつれて、焚き火はくすぶり、消え、酔いつぶれた連中はそこいらじゅうにごろごろとかたまって転がりあった。
 すさまじい鼾や、歯ぎしりがそこかしこから聞こえた。わざわざ暖かい砦の中に入るのもおっくうであったり、酔いつぶれてそうできなかったりする者が、山のようにそのあたりに折り重なって、互いの体温で明け方の寒気を防ぎながら、い汚く眠りこけていたのである。
 このありさまを見るかぎりでは、この汚らしい酔いつぶれたごろつきどもの集団に、これっぽっちも秩序だとか統制などというものがあろうとは、全く信じることができなかった。辺り一面に酒のにおいがぷんぷんとして、酒に弱いものならばこの空気をかいだだけで酔っ払ってしまうくらいだった。
 この、いわば死屍累々と積み重なる戦場を、一つだけ、人影が《死骸》を踏まぬようまたいだり、飛び越えたりしながらに歩き回っていた。
 ルカディウスの方は、一晩中ほとんど一滴も飲まず、一睡もしないで過ごしたのである。このようなありさまのところへ、どんな少数のどんな弱敵にも、ふいをつかれたらひとたまりもないこと嫌というほど知っていたし、恐れてもいたので、彼は一滴も飲まずにじっと見張りをつとめていたのであった。
 むろん戦闘要員にもならぬ彼一人が起きて正気でいたところで、万一にも敵襲があったときに防げるというものではなかったが、ルカディウスの考えとしては、兵卒などというものは失えばまた集めればよいのであって、とにかく肝心かなめのアインデッドさえ無事であればよかったので、彼さえ正気であれば、怪しげな兆しがありしだい、アインデッドを連れてずらかれると考えていたのである。
 しかし幸いにして全ては杞憂に終わり、どうやらこの気違いじみた夜半の大饗宴は街道警備にも、他の盗賊にも見つからずにすんだようであった。そこで彼はやれやれといったていで、ごろごろ転がって眠っている連中の間をゆっくりとまたぎ越えては、何やら思うところのあるらしく、しきりとその辺を歩き回っていた。
 が、やがて少し人々の山から離れた木立の下で足を止めた。そこに探していたもの――赤い長い髪と、痩せた頬の若い狼が、革のマントに身を包み込んで、丸くなって眠りこけていたのである。
 ルカディウスはその前に立って、しばらくつくづくとその若々しい寝顔に見とれていた。
「それにしてもこいつは、いったいどこでどういう育ちをした奴なんだろう」
 低い呟きが、色の悪い唇からもれた。
「あまり自分の事をしゃべる奴じゃないし、聞きだそうとすれば機嫌を悪くするから放ってあるが、まだいいところ二十をいくつも過ぎていない年で、腕や度胸はともかくとしてこれだけ場数をふんでいるというのは」
(ゆうべのあの酔っ払いぶり、騒ぎようを見れば、どこかに女としけこんでるか、皆の間で正体なくつぶれているだろうと思っていたのに、とんでもない。こうして剣を抱き、少し離れたところに、何かあったらすぐに木立の中に逃げ込むか、盾にとれるところで一人で眠っているとは! こいつはよくよく、生まれながらの戦士なのに違いない。それともそうやって、誰一人として信じてはならぬ、どんなときも自分の命は自分で守らねばならぬという原則を骨の髄まで叩き込まれるような暮らしをずっとしてきたか、だ。おそらくそのどちらもなのだろうが――)
 なおもアインデッドの寝顔を見つめながら、ルカディウスは呟きともつかず思いをめぐらせた。
(にしても、こうして眠っている顔だけ見ていれば、あどけないといってもいいくらい若くて、無邪気に見えるものを。そう――こいつは、本当に若いんだ。悲しくなるくらい、まだ若いんだ。……まあもちろん、だからこそあんなにも野心を持てるに違いないだろうが――)
 びくっとして、ルカディウスは飛び上がった。
 ぐっすり眠っているとばかり思っていたアインデッドの緑の瞳が、皮肉な光をたたえて、ぱっちりと開いて正面からルカディウスを眺めていることに気付いたのだ。
「目、目が覚めたのか。起こしちまったか。――す、すまない。別に、お前が寝てるからどうこうってわけじゃなかったんだが――」
 うろたえて、ルカディウスは要らないことまで口走ってしまった。アインデッドはかすかに口の端を歪めた。
「別に、起こされやしねえ。俺は、人の気配が近づいたらかならず目覚めるように自分を訓練してるんだ」
「それはそうと、ほとんど眠ってないだろう? 大丈夫か、ここは見張りを立てさせるから、砦の中に入って少し休んだらどうだ。いくら若いとはいえ、長旅の後だ。大事にしないと後々響くかもしれない」
「自分の面倒は自分で見られると、俺は何回も言ったと思うがな。眠くなれば眠るし、起きていたければ起きている。俺の事はほっといてくれ」
 アインデッドはうるさそうに言った。昨日の宴の陽気さから一転して、またあの街道を歩いていたときのようにとげとげしく扱いにくくなっていることを感じたので、ルカディウスはしょうことなしに黙った。
「一晩や二晩眠らなかったからといってどうかなるやわな体だったら、とっくにくたばってる。――お前こそ、ここで何をしていた」
「色々、気になって」
 ルカディウスは言い訳をした。アインデッドはまた皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「奇襲をかけられるのがか。大丈夫だ。俺の運は強いし、その前に気付く。それに今のところ、ルーハルの砦を襲いそうな敵などいやしないさ。それにどっちみち、この砦は今日限りでおさらばだ。嗅ぎ付けられたところでもぬけの殻さ」
「な、何だって」
 ルカディウスは仰天して言った。
「そりゃどういうことだ、アイン」
「俺たちは動きはじめるんだ」
 アインデッドの目が輝いた。彼は、明けて菫色に輝く山の上の空へ目をやった。
「今回のことと、昨日の宴でよく判った。今が俺の時なんだ。もうこれ以上一日だって俺は無駄にしないぞ。この春はルーハルなんかじゃない。もっとどこか、町のなか、開けたところで迎えるんだ」
「アイン、それは……」
「俺はエトルリアに行く。サッシャに行くぞ」
 アインデッドはすっくと立ち上がった。
 一晩中飲んだ酒も、徹夜も、彼の若さの前には何の障りにもなっておらぬようであった。肌もつややかに輝き、まるでぐっすりと良く眠って目を覚ましたとでも言うように元気一杯だった。
「今がそうする時だと、俺の直感が告げている。俺はサッシャへゆき、シェハラザード公女に会う」
「どうやって?」
「そいつを考え、お膳立てするのがお前の仕事だろうが」
 アインデッドは歪んだ、面白くもなさそうな笑みを浮かべた。
「むろんこの大所帯をすべて連れてサッシャに乗り込もうってわけじゃねえ。精鋭を選りすぐって行くさ。あとのやつらをどうするか、誰を選りすぐるか、いくらでもお前の仕事はあるぞ、ルカ」
「そりゃかまわんが……しかし」
「しかしなんぞ、フェイリルにでも食わせちまえ。いつかやることならいつやったって同じだろうがよ」
 駄々っ子のようにアインデッドは言った。ルカディウスはその長身を、まぶしいものでも見るように見上げた。
「どのみち俺もそのつもりではいた。ただ、大事を取って、もう少しゆとりができてから――そう、春くらいが活動開始と思っていて」
「そいつは見当違いだな。まだ春にならねえからこそ、今のうちに動くのさ」
 アインデッドはゆっくりとその辺を歩き回りながら言った。ルカディウスはその後ろを、若駒について歩く黒い犬みたいにくっついてまわった。
「このクライン‐エトルリア国境じゃあ、冬とはいえ中原北辺ほどには厳しくない。それでも冬は冬だ。だからみな、冬ごもりして春に備えてる。それがこっちの付け目だ。今のうちの方が動きがとりやすい。それに今なら、俺の面もエトルリアには割れてない。これ以上ルーハルを拠点に勢力を張ったら、動きづらくなる」
「わかった。すぐに準備をし、考えをまとめよう」
「第一、他に同じような事を考えるやつがいて、シェハラザード公女がそっちになびいたりしたら、ことだからな」
 アインデッドは言った。
「エトルリアの二公子、公弟ってやつらも、どうやらそろってそうそう大公に忠誠をつくしてるってわけじゃあなさそうだし。せっかく、自分の兵隊ができたからな――鉄は熱いうちに打てというやつさ」
「……」
「――かわいい奴らだ」
 アインデッドの目がふと和んだ。彼は、夕べの大騒ぎを思い浮かべるようにその辺を見回した。
「俺を慕い、俺についてきてくれる。――なあルカディウス、自分の、借り物でも金づくでかき集めたでもねえ、自分の部下ってものは、いいな。可愛くて、何だってしてやりたくなる」
「――お前はもっともっと、この何十倍、いや何百倍の部下、国民に君臨するようになるんだ」
 ルカディウスはアインデッドに囁いた。
「お前は絶対に王になれる。俺が絶対にしてやる。お前はこの世の力を手に入れるだけの器を持った男だ。――俺は夕べ、連中に囲まれているお前を見ながら、ずっとそう思っていたんだ。お前は王たるべくして生まれてきたやつだ、と」
「当たり前だ。嵐の夜に生まれ、アインデッド王の名をもらい、魔女に予言を受けたこのティフィリスのアインデッドだぜ」
 アインデッドは鋭く言った。
 それから、いきなりマントを後ろに跳ね上げると、人々の中に飛び込んでいった。ルカディウスが止めるいとまもなく、陽気に、眠りこけている彼らの足や背中をかたっぱしからどやしたり、蹴飛ばしたりしはじめた。
「ほらお前たち、こんなところで寝たら凍え死んじまうぞ。いいから起きろ、目を覚まして、俺の言うことを聞け――寝ぼけてたって、俺の声くらいは聞けるだろう。俺の話を聞いて、判ったら、ちゃんと屋根のあるところに入って、てめえのベッドで毛布を着て寝ろってんだ。さあ起きろ、起きねえか。お頭の命令がきけねえやつは張り倒すぞ!」


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