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                               *



 さびしい裏街道を進み、森の奥深くへと入ってゆくうちに、太陽は赤い巨大な円盤となって山の端に隠れ、夕焼けの残照は消えて藍と薄墨色の夜が静かにあたりを覆いはじめていた。それと同時に、冬の訪れを先ぶれる冷え込みが下りてきつつあった。
「なあ――どうした、アイン?」
「うるせえな」
 訝るようなルカディウスの声に、アインデッドは不機嫌な声で答えた。さほど大声ではなかったが、白刃で切りつけるような鋭さがあった。
「考え事なんだ。ちっと静かにしていてくれ。せめて――そうだな、あの雲の最後の赤い光が消えちまうまで」
「す、すまない」
 ルカディウスは黙った。
 アインデッドも口をつぐみ、じっと馬に揺られながら、残照の最後の名残をみつめていた。
(あれは、いつのことだったろう? 本当にあったことだったのだろうか?)
(もう、何千年も前のことのように思える。あれは、本当のことだったんだろうか。黒蓮の夢――そう、セルシャの長い夜も、ジャニュアの出来事も、何もかもすべては、黒蓮の夢でしかなかったんじゃないだろうか)
(あれから、もう一年が経っちまった。あの金色の髪の――。そして俺たちにふしぎな言葉をくれたあの子、アルドゥインたちに出会ってから。別れてからだって、半年以上が経ってしまった)
(あいつは、俺のことをまだ覚えているだろうか?)
 ふいに、激しい頭痛にでも襲われたかのように額を押さえ、アインデッドの上体がぐらりとよろめいた。
「アイン!」
 ぎくっとしてルカディウスが叫ぶ。
「どうした、具合が悪いのか」
「いや」
 アインデッドは、目が痛みでもするように、目頭を押さえた。
「何でもない。心配するな」
 荒々しく言い捨てて、アインデッドは手綱を取り直した。とっぷりと日は暮れ、周りは荒涼たるルーハルの夜である。どこかでさびしい梟の鳴き声が響いた。だがそんなものを恐れるアインデッドではない。このゼーア近くでは悪魔も出ないし、出たところでどのみち彼にとって大した相手ではない。
 アインデッドは再び、瞼を伏せた。
 その瞼の裏には、いまだ見ぬ華やかできらびやかなクラインの宮廷、きらめく不夜城の灯、ふれあうグラスや銀器、貴婦人たちのきぬずれの音とさざめき、楽曲の調べ――そんなものが幻燈のようにかすかに浮かんでは消えていった。
 その幻の中心ではいつも、金色の陽光の髪と、アメジストの美しい瞳を持つ青年が、人人に囲まれて華やかに笑っているのだ。
(サライ――)
(お前はカーティスの美しい街で、人々の喝采と栄誉に包まれて)
(そして俺は――お前が捨てたこの俺は、手を血に汚した赤い盗賊の首領――)
(いつもいつも、消えてしまう。俺が手に入れたいと、手に入れたと思ったものは、確かめる前にこの指からすり抜けて消えてしまうんだ)
 アインデッドは、遠いカーティスの宮廷からうつつに戻るように、ふっと目を開けた。目の前には世にも淋しい森の夜が広がっている。空には降るような星がまたたき、しんしんと冷え込んできている。
 数日前にルカディウスの立てた計略の下調べのため、二人で出かけたメディナの街。そこで伝え聞いた、懐かしい男の噂。
(アルドゥイン……お前の名を、あんな所で聞くとは思わなかったよ。ペルジアとの戦争を、たった一人でおさめたってな)
(それで――メビウスの紅玉将軍か。お前はうまくやっているんだな。俺と別れて――ひとりで……)
(……いや、あいつに腹が立つなんてことは一つだってない。俺はあいつをダチだと思っているし、あいつもそう思っているだろう。俺の今を知ったらどう思うかは別としても。あいつが出世したことは、俺は素直に喜べるし、祝福してやれるんだ。それはアルの手柄だろうし、奴はそれに見合う男だ。俺は、あいつに俺を選べとは言わなかったし、最初から俺とは別の道にいたから。だから、羨むことは、ないんだ)
(だが、サライ)
(あいつが俺を捨てなければ、どんなお偉い身分になっていたかと言われりゃ、何とも答えられねえが。それにしたって、あいつは俺があいつと共につかみとりたかった未来よりも、女帝に従い、与えられる身分を選びやがった。そして俺は今こんな醜い小男だけを相棒に盗賊に身を落としてる)
(奴は知らないだろう。決して知るはずもない。俺が王になりたいと思っている理由が、ある一人の男を殺すため……いや、その男が俺よりも価値があると思ったものすべてを奪い去ってやるためだとは)
(それを聞いたら、こいつはどんな顔をして、何と言うだろう? はっ、くだらねえ)
 アインデッドは背後にしがみついているルカディウスを横目でちらりと見た。
(俺は)
 かすかな呟きが漏れた。
(俺は必ず、クラインを滅ぼしてやる)
(あいつだけは決して他の誰にも渡さない。俺がこの剣にかけて血の海に倒れ伏させ、首を刎ねてやる)
(だがもしも、あいつが俺に身を投げ出して命乞いをしたら――。かつて結んだ友情のことを口にしたなら、俺はそれでもあいつを殺せるだろうか?)
「アイン」
 不安そうな、おずおずとした問いかけ。
「何だ」
 ひとときの血の幻は去った。だが無視をする代わりに、陰惨な想念と、それを引きずり出す辛い記憶から引き離されたことをむしろ喜ぶように、アインデッドは低い声で答えを返した。
「やっぱり、具合が悪いんじゃないのか。顔が真っ青だ」
「日焼けしなくて悪かったな。もうすぐ冬だから、色が抜けるのはしかたねえだろ。別にどこも悪かあねえ」
 つっけんどんにアインデッドは答えた。だがルカディウスはまったく納得できたようではなかった。
「俺は何をしてでも、何があろうと、絶対にお前を王座につけてやる。だから、そんなに焦ったり苛立ったりしないでくれ。俺だって、好きでお前を苛立たせているわけじゃないんだ――」
「別に、そんなんじゃねえよ」
 いくぶん拗ねたようなアインデッドの声。
「だったら……また、お前を捨てたというやつの事か。お前がそんなふうになるときはいつもそうだ。そいつを、そんなに殺したいのか?」
「そいつを、というよりゃ、そいつを俺から引き離したやつだな……。そうだな、そいつの髪を引きむしって、目をくり抜き、鼻も、耳も、唇もそぎ落として二目と見れねえつらにしてやり、さんざんに切りさいなんで肉の塊にしてやったなら、さぞかしすっとすることだろうな」
 薄く笑いながら、アインデッドは言った。実際に彼がそんな残虐を、誰に対してもしたことがなかったにも拘らず、今なら喜んでしかねないと思わせるような酷薄な表情だった。その残酷に美しい顔に、ルカディウスの目は吸い寄せられた。
「お前……今日はばかにすさんでるな」
 いくぶん絶句してから低く言ったルカディウスに、アインデッドはわざとらしい笑い声を響かせて答えた。
「荒れてもすさんでもいないさ。ただ思ったことを言っただけじゃないか。それに、俺にこんな考えを植え付けたのは、お前だぜ、ルカ」
 再び、ルカディウスは黙ってしまった。彼ら赤い盗賊の本拠、ルーハル砦の灯が木々の合間からちらちらと見えはじめている。
「なあ、アインデッド」
 ルカディウスは思い切って覚悟を決めたように言った。
「一つだけ、俺の頼みを聞いてくれないか」
「何だよ。ここはどうせお前と二人だけなんだ、さっさと言えよ。もうすぐ砦に着いちまうぜ」
「一つだけ約束して欲しいんだ。俺は、お前を王にするためになら何でもすると約束した。だから、その代わりというか……そのためにもお前も一つだけ、俺には何も包み隠さずに打ち明けてくれないか。別段お前の心に立ち入ろうっていうのじゃないが、俺が色々と手を打つにしても、お前の考えが判らなければどうしようもない。お前が何を考えているのか判っていたほうが、ずっとやりやすいだろうと思うんだ」
「俺がお前に、何を隠し事していると言うんだ?」
「だったら、なぜクラインにそうもこだわる?」
 ルカディウスは鋭く切り込んだ。
「誰かが裏切ったからといって、国を滅ぼそうとまで考えるお前じゃないはずだ。アイン、間違っていたなら謝る。だが――お前を裏切ったというのは、もしかして、クラインそのもの――女帝だとでも言うのじゃないだろうな」
「まさか」
 アインデッドは低く笑った。それからしばらくまた、黙ったまま馬を歩かせていたが、やがてぽつりと言った。
「俺を裏切ったのは女帝じゃない。その女帝が、裏切らせたんだ」
 アインデッドはずっと心にかかっていたことをつい口に出してしまったことで、むしろ気が楽になったように続けた。
「お前に会う前に――俺はある男と旅をしていたんだ」
「それは……」
 誰なのか、と聞こうとして、それがアインデッドの怒りを誘うのではなかろうかと気付いてルカディウスは口をつぐんだ。
「もう二人、連れがいたけどよ……。その男は――そいつは、俺が王となるための手助けをしてくれると、俺とともにゆくと約束したのに、女帝に呼び戻されたら、あっさりとそっちに戻っていってしまった。俺を捨てて」
 彼の言い方は、ひどく幼く、子供っぽかった。
「俺はごく幼いときに母を亡くした。父がどんなものかも知らない。俺は誰も必要とせず、また誰も俺を必要としなかった。そうやって生きてきたんだ。それで慣れていたし、一人で生きて行けると思っていたから。だが初めて俺は、背中を預けられる友を得たと思ったんだ。なのに、クラインの女帝――生まれたときからちやほやされて、何もかも手に入らぬものはなく育った、甘ったれた女! そんなやつが、俺がこの短い生涯で初めて、やっと手に入れかけたものを、あっさりと横から奪いやがった」
 あの時の怒りを思い出して、彼は歯をきりりと噛み鳴らした。
「俺よりそいつが優れていたからというのならまだ諦めがつく。だが、レウカディア皇帝が皇家に生まれ、俺がそうではなかったと、それだけのことだったんだ。俺にはわからない。他の誰でもなくレウカディアが呼び戻したから、あいつが戻ったのだとしたら、俺と彼女の間にどんな違いがあるというんだ。何が一番の違いだというんだ? それとも王に仕えるということは、そんな大切なことなのか? 一度捨てたはずの剣を再び取りたいと思わせるほどにも?」
「アイン――アインデッド……」
 アインデッドはルカディウスの声など耳に入れていなかった。
「あんなにも負けたと、俺はこの世で一人きりだと思ったのはあの時だけだ。俺は俺にこんな思いを味わわせたレウカディア皇帝を生かしてはおけない。彼女が生きている限り、俺に安らぎは無い……」
「アイン」
 ルカディウスは何となく、打ちひしがれたような声でささやいた。
「俺がいるじゃないか――アイン、俺がいる。俺はお前を王にするためにお前に仕え、お前だけに仕えている……それでは駄目なのか、アイン?」
 アインデッドは一瞬、黙った。
 それから短く笑った。
「駄目だね」
 彼は残酷に言い放った。そうすることで相手が傷つくだろうことを充分に承知していてそれを愉しんでいる口調だった。
「なぜって、あのときも今も、俺が心から必要としているのはお前じゃないし、お前はまだ俺を王にしていないからさ。そうじゃないか? ルカ」

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