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 アルドゥインとリュアミルは二曲続けてのヴォルトを踊ってから休憩した。申し込んだのはリュアミルの方だとしても、もともと彼女と踊りたがっていたのはアルドゥインだったので、彼は彼女と踊れるのなら一晩中踊り続けても構わないくらいであったが、さすがにリュアミルは疲れてしまったのである。
「休みましょうか、殿下」
 彼女は決して疲れたなどとは口にしなかったが、リュアミルが疲れていることくらいはいくら鈍感なアルドゥインにも判ったので、曲が終わるとそう言って腕を差し出した。リュアミルは息を弾ませながら頷いた。
 白い頬を薔薇色に上気させているリュアミルはまるで少女のようにあどけなく見え、アルドゥインはそれを横目に見つつ、幸せに浸っていた。それでも気を利かせることは忘れず、給仕たちが捧げ持つ盆から調合酒のグラスを二つ取り、一つをリュアミルに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
 渇いた喉に、冷たく冷えて、かすかに泡立つ酒は心地よく流れていった。少し息が落ち着いてきたので、リュアミルはそっと話しかけた。
「細く見えるけれど、やはり強いのね。軍人だから、当然のことかもしれないけれど。あんなに高く持ち上げられたのは初めて」
 自分の前には誰とヴォルトを踊ったのか、と小さな嫉妬を感じつつ、アルドゥインは尋ねた。
「お気に召しませんでしたでしょうか。つい調子に乗ってしまいました」
「いいえ、楽しかったわ。まるで宙に浮いたようだった」
 リュアミルはしとやかに首を振り、両耳の水晶がきらきらと輝いた。それから絹の手袋を外して、額の汗をちょっと押さえた。
「少し、暑くなってしまったわ」
「では庭に参りましょうか? 今宵は風が涼しゅうございましたから」
「ええ」
 促されるままに、リュアミルはアルドゥインの腕にそっと手をかけて広間を出ていった。その後ろ姿に、姫君たちの羨望の眼差しが向けられていることには、彼女は気付いていなかった。
 二人はしばらく庭をそぞろ歩き、青晶殿から離れた庭のあずまやに入った。華奢な格子に蔓薔薇が絡ませてあり、その香りが馥郁と漂っていた。他にも、広間の喧騒を逃れてきた男女の組み合わせが何組かいたので、二人は広間で踊っていたときほど目立つでもなかった。
 リュアミルが先に座り、隣に座っていいのか、それとも正面か離れたところに座るべきかと悩んでいると、リュアミルが自分の右隣を指して何の気もなく言った。
「立っていなくてもいいのよ、アルドゥイン。ここに座ったらいかが?」
「し、失礼いたします」
 たちまち顔を真っ赤にしながら、アルドゥインはリュアミルの隣に腰掛けた。幸い暗かったこともあって、彼の表情ががちがちに固まっていることも、赤くなってしまっていることもリュアミルには判らなかった。
「……今夜は本当に、申し込んでくださってありがとうございました」
 何を話したらいいのか判らなかったが、アルドゥインはとりあえずずっと言おうと思っていた礼を述べた。
「約束を破るわけにはいかないもの」
 このリュアミルの答えに、アルドゥインが少々落胆したのは言うまでもない。
「破りたいような約束ではないけれど」
 ぽつりとリュアミルは続けた。
「……」
 その呟きの深い意味をアルドゥインが考えているうちに、リュアミルは自分の思いに沈みこんでいった。
「あなたに私の気持ちが判る? アルドゥイン」
 リュアミルは小さく呟いた。アルドゥインは弾かれたように首をそちらに向けた。涼しい風が二人の間をすり抜けてゆく。大広間の喧騒もかすかにしか届いてこない。東屋のそばに吊るされたかがり火の炎が、赤く二人の姿を揺らめかせた。
「俺は不調法者ですので、殿下ほどの貴き姫君の御心はいかんとも……」
「あなたって、本当に真面目ね。サラキュールみたいな喋り方だわ。それが良いところなのかしら」
 いたって几帳面に答えたアルドゥインの態度を見て、リュアミルは口許を可愛らしくほころばせた。だが、すぐにその微笑みは消えてしまった。
「本当のことを言うと、パーティーなんて大嫌いなのよ。物心ついてから、ずっと」
「では俺のお願いは、ご迷惑でしたでしょうか?」
 責められているのかと思い、アルドゥインはすまなそうに身を縮めた。が、リュアミルは小さく首を左右に振った。
「嫌いなのは、別のことよ」
 アルドゥインはほっとため息をついたが、リュアミルのこの告白は気になった。
「でも、何故ですか?」
「あなたがチトフ伯爵に決闘を申し込んだパーティーのことを、覚えている?」
「え? はい」
「私はあの時、あなたにお礼を言わなかったわね。何の関係も無いのに、決闘までしてくれたのに」
 しみじみとリュアミルは言い、アルドゥインは逆に慌てた。
「とんでもございません。血気にはやって、殿下のお気持ちも考えずに先走ったことをしてしまって……」
「本当は、少し嬉しかったのよ。表立って味方してくれたのは、サラキュールの他にはあなたが初めてだったから」
「いえ、それは……お気になさるようなことでは」
 顔をうつむけて、アルドゥインはぼそぼそと言った。
「いつもいつも、パーティーというとあんなふうだった。あからさまに侮辱されても耐えるしかなくて。何故皇女などに生まれついてしまったのかと随分父上を恨みもしたわ。皇女でさえなければ、妾腹もそれほどのことではないもの。だからといって可哀相な母上を恨む気は無いけれど。皇后陛下は私を疎んじていらっしゃるし、父上は私の心などご存じない。出ても面白くも何とも無いのに、出なくてはわがままだの何だのと陰口を叩かれるのだもの。うんざりよ」
「……」
 何と答えていいのか判らず、アルドゥインは顔を上げて目を瞬かせた。リュアミルの表情はまた、いつもの沈みがちなものに変わりつつあった。それでアルドゥインは何か言わねばという気になった。
「殿下……」
 だが、言いかけた言葉はすぐに続いたリュアミルの言葉にかき消されてしまった。
「あなたも、思っているんでしょう。私みたいな嫁き遅れのぶさいくな――しかも妾腹の、卑しい生まれの皇女を相手にするなんてうんざりだと。誰も彼もそうよ。心の中で私をあざ笑い、馬鹿にしているわ。誰が好き好んでこんな女の相手をつとめるか、皇女でなければ歯牙にもかけぬと」
「俺は嘘で人を褒めるなんてしません! それに、剣の主だからとか、そんな理由でダンスを申し込んだりだってしな……」
 叫んでから、アルドゥインははっとした。リュアミルはきょとんとした目で彼を見上げていた。そして、くすくすと笑って宥めるように言った。
「信じるわ。もちろん、皆が皆というわけではないけれども、大半の人はそうよ。あなたは沿海州の方だから、知らないのでしょうね」
「僭越ながら、殿下を不細工などとは……全くの偽り、いや、無礼もはなはだしい」
 アルドゥインは憮然としてむっつりと言った。今彼の目の前に、リュアミルをばかにした者を連れてきたなら、それが何人だろうと、いつなりとでも決闘を申し込んでいたに違いない。
「ルクリーシアに比べたら、どんな女だってサライアの前のリナイス……いえ、私はリナイスというがらでもないわね、ルシアのようなものよ」
 リュアミルはさっきよりもよほど心楽しげであったが、寂しそうにうつむいた。
「あの子に初めて会ったのは私が八歳、あの子が七歳の時。パリスとの婚約式だったわ。宮廷中の誰もがルクリーシアを美しい、可愛らしいと褒めたたえた。私もそう思ったわ。この子はきっと今に、中原一の美女になるだろうと。でも、どうしてそれで私が責められなければならないのかしら?」
「殿下を、責める?」
「忘れもしないわ。モーリスの一言。『ルクリーシア皇女に比べて、うちの殿下は何とも見栄えがしないな』と……それを聞いた者たちが笑ったのも」
 リュアミルは隣にアルドゥインがいるのも失念したように、膝に乗せた手でレースのハンカチを掴み、小刻みに震わせていた。
「だからこそ、私はメビウスの皇帝にふさわしくあるべく努力してきたわ。アルカンドを読み、語学を学び、良き女帝となるためのありとあらゆる学問、教養を学んできた。それは誰に何と言われようとも譲らない。けれども、それでは駄目なのよ。どんなに完璧であろうとしても、たった一つのことだけで私の全てが否定されてしまう。ただ、私の母が側室だったというただそれだけのことで。そんなこと、誰が悪いのでもないし、私にはどうしようもないことだわ」
「……」
 口を挟むのは憚られるような気がして、アルドゥインは黙っていた。まだ出会ってから少ししか経っておらぬ相手ではあったけども、胸のうちに秘めた十数年分の思いを打ち明けてしまうのは心地よくて、リュアミルは続けた。
「昔はまだ良かった。でも、今では、ルクリーシアがここにいる。彼女はどこまでも青い血の流れる、正真正銘の皇女。でも私は違う。そんな事、私自身がいちばん良く判っているのに、あのチトフもそうだったように、まるで私が稀代の醜女であるかのように皆が嘲笑うわ。そうでなければ女帝の夫という地位に目が眩んで、見え透いたお世辞ばかり並べ立てるか、どちらかよ」
 アルドゥインはそっとリュアミルから視線を外して、庭の奥を眺めた。彼女はとても誇り高い女性だったので、涙を見せまいとずっと堪えていたのに気付いていた。
「殿下がお許しくださればいつなりともそやつらを打ち負かしてやりますが。――とはいえ殿下をそのように侮辱する者は愚かです。人のうわべをしか見ぬ、軽薄な人間です。そのような者の申すことに、どうか御心を惑わされませぬよう」
「いいえ、アルドゥイン」
 リュアミルは気丈に笑った。
「私が最も許せないのは、何の罪も無いルクリーシアを恨んでしまう自分自身なのよ」
 この言葉には、アルドゥインならずとも感動しただろう。もちろん彼はメビウス人やクライン人と違って極めて感情ゆたかな沿海州人であったから、思わず目頭にこみあげてきた熱いものを押さえた。
「そのお言葉だけでも、殿下がいかに高潔で清らかなお心の持ち主であるかを皆に知らしめてやれますものを」
「人気取りと言われるだけよ」
 もうすでに、そういう経験があったのだろう。リュアミルは即座に素っ気無く答えた。しかしアルドゥインも強情だった。
「他の誰がどう思おうと、俺は殿下を信じます。だいたい、殿下が美しくないなどとふざけたことを申す無礼者は万死に値しますよ。殿下のどこをどう見てそんなことを言えたものか、とっ捕まえて尋問してやりたい」
「あら」
 激するあまり口を滑らせた、とアルドゥインが気付いたときにはもう遅かった。慌てて彼は言い訳と無礼をわびる言葉を考えたが、リュアミルは思いもかけぬこの告白にいたく驚き、また内心まんざらでもない気分だった。
 すでに彼女が言ったとおり、彼女はきわめて美しい部類の女性であったにもかかわらず、妾腹というその生まれと美しすぎる義妹のためにごく幼いころから劣等感を味わわされ続けていて、こんな手放しの、しかも心からの賞賛を受けたことなど数えるほどしかなかったのである。
「私が、そんなに美しいものかしら。ルクリーシアのほうがよほど……」
「すぐそうやって殿下は妃殿下を持ち出されるのが悪い癖だ」
 アルドゥインはやや乱暴にリュアミルの言葉を遮ったが、彼女はたしなめなかった。
「たしかにルクリーシア殿下はお美しいけれども、あんな完璧すぎるような美はかえって俺には恐ろしく見えます。それにひきかえリュアミル殿下は、もちろん近づき難い方であらせられても、何事にも過ぎるところはないし、非常に美しいと俺は思います。いや、誰だってそう思うに決まっています」
「ほどほどの美人と言うわけね」
 からかうようにリュアミルが言った。それでアルドゥインはまた少年みたいにまごついてしまった。
「いや、ですから、俺が言いたいのはですね」
 リュアミルはアルドゥインを真っ直ぐに見つめた。前々から彼が自分にひとかたならぬ好意を寄せていることはそれとなく判っていたし、最初のうちこそ得体の知れぬ外様の成り上がり者と思っていたこともあったが、幾度か言葉を交わすうちに、要するに――ほだされてきていたのである。
 すっかり困ってしまったアルドゥインは無意識に舌で唇を湿した。国政の話をしたり、旅の話をした事はあったが、こうしてリュアミルに思ったままを洗いざらい打ち明けてしまうのは初めてだったし、無礼になりはせぬかと心配もしていた。
「どんな花でも同じように美しいのと同じです。皆が皆セラミスだけを美しいと思っているわけではありません。俺は、セラミスよりはロザリアのほうがずっと好きです」
「まあアルドゥイン、あなたって、ずいぶんと思い切ったことを言うのね!」
 ここまでの賞賛を浴びると、リュアミルも気恥ずかしいくらいだった。図らずもアルドゥインはリュアミルが好きだと告白してしまっていたが、自分では全く気付いていなかった。リュアミルも気付かせようとはしなかった。これはもう女の勘としか説明できなかったが、彼をいたずらに慌てさせてしまっては、せっかくの二人の間の気分が壊れてしまうと察していたのである。
 アルドゥインが赤面して黙りこくっている隣で、リュアミルは初めて味わう少し甘い気分を楽しんでいた。何しろ、ルクリーシアよりも彼女のほうが美しいとか、好ましいと言ってくれるような男性は、兄弟のようなサラキュールを除けばアルドゥインが初めてのことであった。

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