前へ  次へ



                                *



「遅かったな、リュアミル」
「お待たせいたしまして、申し訳ありません」
 リュアミルが控えの間に入ると、ユナはあからさまに顔をしかめてそっぽを向いた。むろんそれは、イェラインに見えないようにではあったが。
「陛下、そろそろお時間でございます」
 近習が重たいビロードの仕切り布を持ち上げて顔を覗かせた。
「では参ろうか」
 イェラインが立ち上がるのを見て、近習が後ろに何事かを告げ送る。広間の玉座近くに控えていた触れ係が朗声を張り上げた。
「皇帝陛下、ならびに皇后陛下、皇太子殿下、皇子殿下、妃殿下のお成り――!」
 ざわついていた広間はとたんに静まり返り、ごちゃごちゃになっていた人々もただちにそれぞれの身分に相応しい場所に戻って、きれいに真ん中を開けて広間の両側にずらりと並んだ。そして、拍手と万歳が起こる。お馴染みのイェラインの「短い」演説の間、人々はお行儀よく黙って耳を傾けていた。
 半テル弱が過ぎて、イェラインの演説が終わり、パーティーの始まりが告げられた。リュアミルは、アルドゥインの姿を探して居並ぶ群臣たちの列に目をやった。長く探すまでもなく、ずば抜けて背の高い彼はすぐにそれと見知ることができた。
(アルドゥインが、私を好きですって?)
 雪の庭で初めて出逢った時、ずいぶん美しい青年だと思ったのは確かだ。しかしリュアミルは異性の外見よりもむしろ、内面を見るタイプだった。それは、うわべは美しく着飾っても、内面は醜い貴族や女官たちに囲まれて育ってきたせいだろう。
 それに、リュアミルは自分が恋をするとか、恋をされるとかいったことを想像してみたこともなかった。アルドゥインが自分に剣を捧げたのはそれが主君の娘だからだろうと結論付けていたし、決闘もその延長線上のことだと思っていたのである。
 だが、もしもそれが特別な好意に基づくものだとしたら。リュアミルは自分の心拍が早くなっていることに気付いた。そしてそっと頬に手を当てた。
(いやだわ、叔母様もサラキュールも、あんなことを言うから。必要以上に気にしてしまうのだわ)
 物思いに耽っていたので、舞踏曲がまるまる一曲終わってしまった。それに気付いて、リュアミルはようやっと重い腰を上げた。どんなに内心で迷っていても、彼と踊る約束を破るわけにはいかない。
 リュアミルは物思いを振りやると、上座の壇を下りてアルドゥインの方へ歩みを進めた。さすがに皇女の行く手を遮るほどの無礼な振る舞いに及ぶ者はおらず、周りの貴族や貴婦人たちはすぐに道を譲る。とはいってもあの決闘騒ぎ以来、アルドゥインの目に付かないところではともかく、目の前での無礼は全く起こらなくなっていた。
 リュアミルが誰かにダンスを申し込むとか、誰かが申し込むというようなことは、滅多にあることではない。一体皇女は、誰に申し込むのか――。人々の興味と好奇心に満ちた視線の中で、リュアミルは武官たちが並ぶ列の前を通り過ぎ、アルドゥインの前に立ち止まった。
 美男で独身の紅玉将軍と琥珀将軍をダンスに誘い出そうと、二人を取り囲んでいた姫君たちも彼女に気付いて左右に分かれたので、二人の間に何となく道ができるようなかたちになった。アルドゥインはさんざん姫君たちにダンスを申し込まれていたのだが、律儀に全部断り続けていたのであった。
「踊ってくださいますわね、紅玉将軍」
 緊張した顔に精一杯の笑顔を張りつけて、リュアミルは手を差し出した。アルドゥインはその手を厳かに取り、跪いて口づけした。こちらを振り仰いだ彼の顔も緊張を隠せない様子だった。
「身に余る光栄にございます、リュアミル殿下。何曲なりとも、殿下のお気に召すままお相手をつとめさせていただきます」
 流れている曲は宮廷音楽家のエルモルドゥスが最近発表した、ヴィオラのための舞踏曲だった。
「皆様、失礼いたします。――殿下」
 アルドゥインは立ち上がり、リュアミルを伴ってダンスホールとなっている広間の中央まで出た。そして二人は踊り始めた。
 パーティーに出てもダンスをすることもなくいつのまにかいなくなってしまっているリュアミルがダンスをしているというだけでも人の目を引いた上に、相手が今朝の大騒ぎの張本人である紅玉将軍とあって、さらに目立っていた。
「まあ見てサラキュール、リュアミル様が紅玉将軍と踊られているわ」
 濃い金髪と、くるくると輝くはしばみ色の瞳を持つ愛らしいイルゼビルと踊っていたサラキュールは、その指摘に顔を上げた。
「おや――珍しいことだね」
 あらかじめ身分は関係ないとされるダンスパーティー以外では、男性からリュアミルにダンスを申し込むことができないことは、むろんサラキュールも知っている。
(ということは、リュアミルが申し込んだのか)
 この展開は意外だな、とサラキュールは横目に二人を見ながら思った。アルドゥインがリュアミルに恋をしていることは、昨日話したときにその態度や言葉の端々から全て読み取れてしまっていた。だからアルドゥインがリュアミルにダンスを申し込むというのなら簡単に理解できる。
 しかしリュアミルの気持ちに関しては、恐らく好意以上といってもいい感情をアルドゥインに持っているだろうが、彼女自身はそのことに気付いていないだろう、というのがサラキュールの読みであった。
(さてはダンスを申し込んでくれとアルドゥインの方から頼んだか。あやつ、晩熟(おくて)に見えてやることはやるのだな)
 サラキュールが密かに感心していると、イルゼビルが言った。
「いつまで見ていらっしゃるの、サラキュール? 私、リュアミル様に嫉妬してしまいますわよ」
「嫉妬とは穏やかならぬね」
 拗ねてちょっと唇をとがらせたイルゼビルに、サラキュールは笑った。
「これからずっと、アルドゥインが殿下と踊るのなら、私は君とだけ踊れると安心していたのだよ、イルゼビル」
「まあ」
 とたんに機嫌を直して、イルゼビルはぽっと頬を染めた。婚約者も恋人もいない皇太子のダンスの相手をつとめてきたのは、最も家柄が高く年齢の近いサラキュールだったので、イルゼビルはいつも複雑な気持ちを抱いてきたのである。サラキュールにもリュアミルにも全く他意のないことはわかっていたし、イルゼビル自身も皇女の友人であったのだが、そこのところの女心は複雑であった。
 イルゼビルはとっくに機嫌を直していたが、まだもう少し優しい言葉が欲しかったので婚約者を見上げてみた。
「そんなこと、わからないでしょうに」
「しかし、そう願いたいね。少なくともアルドゥインはずっと殿下と踊るのにやぶさかではないようだ。それに、似合いの二人ではないか」
 言われて、イルゼビルはちらりとそちらを見やった。薄青いドレスに身を包んだリュアミルと、赤い礼服に身を包んだアルドゥインの二人は、アルドゥインの背が高すぎる感があったにしろ、色の対照もあいまってなかなか似合いの一組であった。
 サラキュールとイルゼビルのように好意的に見るもの、ただの好奇心で眺めるものと様様であったが、大抵はこのカップルを温かく見守っていたのであった。
 イェラインはもうダンスに興じるような年齢ではなかったのだが、パーティーの義務としてユナを相手に一曲踊り、後は林立する柱の合間に設けられたサロンで、酒のグラスを片手に同じくダンスをするには少々年のいった廷臣達を相手に狩やその他の楽しみ事を話題にしていたのであった。
「おお――陛下。皇太子殿下がダンスをされておられますぞ」
「リュアミルとて若い娘に違いはないのだ。踊りたいときもあるだろう。珍しがるのはよさぬか、アシュレー」
 イェラインは苦笑し、そちらを見ることもしなかった。たしかに珍しいこととは思ったのだが、父親たるものが娘のダンスを珍しがって観察するのは、少々行儀が悪いと考えたのである。
「お相手が誰か、気にはなりませんので?」
 従兄弟同士の気安さで、エクァン候レオンが肘をつついた。
「誰といって、サラキュールであろう?」
 疑問も抱かずにイェラインは言った。その場にいた数人は何とも言えぬしたり顔を見合わせた。
「何だ、そのような顔をして」
 イェラインが首を傾げたところへ、レオンが教えた。
「残念ながら、サラキュール殿はイルゼビル姫と踊っておられます。殿下のお相手は紅玉将軍ですよ」
「なに? アルドゥインか」
 彼らの大方の予想どおり、イェラインは飛び上がらんばかりに驚いた。むろん忠誠心に篤い彼らのこと、声を上げて笑うようなことだけは決してしなかったが、にやにや笑いを隠し切ることはできなかった。
「ご存じなかったのですか、陛下」
 ミント伯モーリスが、こちらも驚いたように尋ねた。イェラインは答えるのもそっちのけで、レオンの言葉を確かめるべく、身を乗り出さんばかりの勢いで長椅子の背に手をかけて上体をねじ曲げていた。あまり皇帝にふさわしいとは言いがたい格好と行動であったが、あえて誰もそのことには言及しなかった。
「あのリュアミルが、自分からダンスを申し込むとはな……」
 イェラインは唸るように呟いた。二人のダンスは二曲目に入って、今は最近流行している、男女が抱き合って踊るヴォルトを踊っていた。このダンスの見せ場は男性が女性を持ち上げる所なのだが、アルドゥインの背が高いので、リュアミルも周りより頭一つ分ほど高く持ち上げられていた。そうして彼女のドレスの裾の白いレースが宙に揺れるたび、周りの喝采を呼んでいた。
(あれはあんな顔で笑っていたのか)
 リュアミルはいつになく楽しそうに、それでもいくぶんか控えめに微笑んでいた。時折人垣に紛れて見えなくなってしまうその姿を、イェラインはしばらく何とも言えない気分で見つめていた。自分の娘だというのに、彼女の心からの楽しげな顔を、彼は長いこと見ていなかったような気がした。
「陛下、いかがなさいましたか」
 アシュレーの声で、イェラインははっと気付いた。
「やはり陛下も人の子、娘を他の男に取られるのは悔しゅうございますか」
 レオンが笑いながら言った。イェラインも、心安く笑った。
「何を言っておる。ダンスの相手をしているだけではないか。気が早いぞ、レオン」
 口ではそう言いながら、彼は頭の中でその「気の早い」話を具体的に検討していた。しかしイェラインは常々、家庭内のことについて無責任であるとの謗りを免れずにおり、この場合も例外ではなかった。
(リュアミルはいつのまにアルドゥインにダンスを申し込むような仲になっておったのか……。いやいや、それはまあ良い。あれがリュアミルを好いておるらしいことは一目瞭然だからな。このままあの二人がうまくいくなら、ラストニアとファロスに大きいつながりができるぞ)
 アルドゥインがヴィラモント公爵の息子であることが判明したのも、イェラインの気の早い想像の一因となっていた。結局のところ彼は、自分のお気に入りであるアルドゥインを、より身近に仕えさせることができるかもしれないという期待に胸を膨らませていたのであって、娘の将来を真剣に考えていたのではなかった。

前へ  次へ
inserted by FC2 system