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     美しい人 あなたの微笑みは
     私の心を明るくします
     その美しさ 優美な姿を
     窓辺に見るとき 私の息は止まり
     胸が苦しくなるのです
     深い慰めを与えられながらも
     死を願うのです あなたのために
           ――エルモルドゥス
           「あなたの微笑みは」




     第三楽章 ヴォルト




 ごたごたの続いたその日も、すでに日暮れを迎えていた。オルテア城内でもあちこちのかがり火やランプに火が入れられ、幻想的な赤い光が城の輪郭を闇の中に浮かび上がらせている。
 トーナメントを控えての、今夜は士気を高めるためと称しての宴である。広間の下座には明日出場する騎士たちの兜が、緋色のビロードを敷いた長机の上にその紋章とともに並べられていた。百年ほど前のまだ決闘の形式を色濃く残した時代では、貴婦人たちは悪口を言うなどした騎士の兜に触れ、その騎士は攻撃の的にされる、というようなこともあったらしい。
 今夜の宴は、トーナメントに出場を許された国内の貴族たちが集まり、人数はかなりになったので、紅玉の間が会場に選ばれている。宴の始まるマナ・サーラの刻もあと残すところ半刻ほどとなり、後は皇帝一家の出座を待つだけとなっていた。
 上座の武官たちが並ぶ一隅には、すでにお馴染みの五将軍たちが集まって久々の顔合わせを楽しんでいた。毎年、トーナメントに出場するのはオルテア参勤の将軍が一人と、非番の将軍から一人ずつと決まっている。今年はアルドゥインとセレヌスという組み合わせであった。
 セレヌスの頭脳の明晰さはすでに知るところであるが、まだ武術は見たことがないアルドゥインは、それをずいぶん楽しみにしていた。せっかくアルドゥインと組めるのに自分が選ばれなかったと文句を言っていたのはソレールであった。
「お選びになるのは皇帝陛下なのだから、あまり文句を言うものではないよ、ソレール。それに、君一人がアルドゥイン殿を独り占めするというのもどうかと思うね」
「俺もセレヌスの意見には全く賛成だな」
 ベルトランが重々しく頷いた。
「君とアルドゥイン殿が我々の中ではいちばん若いのだから、これからいくらでも機会はあるだろう」
 もう少し優しいロランドが苦笑しながらソレールの肩を叩いた。三人の言葉を受けて、アルドゥインも笑った。
「と、いうわけだ、ソレール。今年はもうぶつぶつ言わないで諦めることだ。手合わせならいつでもしてやるから」
「約束ですよ、アルドゥイン殿」
 ソレールはいかにも渋々、といった面持ちで唇を尖らせ、アルドゥインを上目遣いに見た。しかし二人とも年上の三人よりも背が高かったので、相手がアルドゥインでなかったらそんなことはできなかっただろうし、何かおかしな感じがしたのであった。
 この宴には、招待されてという者はないが、この時期オルテアを来訪している外国の貴族や使節も招かれている。むろんヒュラスも例外ではなく、皇帝出座以前の気軽なお喋りの時間とあって、国外の招待客のいる下座のほうから、兄の姿を探してはるばる広間を横切ってきた。
 ヒュラスが声をかける前にアルドゥインは弟に気付いて、他の四人も気付いた。ベルトランとロランドはその場にいたのですでにそれが誰であるのか知っていたが、セレヌスとソレールはまだ話しか聞いていなかった。
「あれが弟君か?」
「そうです」
 近づいてきたヒュラスの肩に軽く腕を回して、アルドゥインはかすかな照れをにじませながら紹介した。
「ロランド殿とベルトラン殿にはすでにご存知だが、セレヌス殿とソレールには初めて紹介します。俺の弟のヒュラスです」
「お二方には、お初にお目にかかります。ヒュラス・ヴィラモントと申します。今年よりラストニア大使をギース国王より拝命つかまつっております」
 ヒュラスは片足を引いて略式の礼をした。セレヌスとソレールはそれぞれ挨拶の言葉を口にした。特にソレールの方は、国に残してきた弟に似ている、と言われたことがあったので、小首をわずかに傾げながら失礼にならぬ程度にヒュラスを眺めていた。
「さすが兄弟だけあって、良く似ておられますね。アルドゥイン殿のように背の高い方かと思っていましたが」
 セレヌスが言うと、ヒュラスは小さく首を横に振りながら答えた。
「私も驚きましたけれども、七年前に別れたときと身長の差がほとんど変わっていないのですよ」
「そうか?」
 アルドゥインは眉を寄せた。ヒュラスの背は決して低いほうではないが、アルドゥインに比べれば十バルスくらい小さい。
「そうですよ。おかげですぐに兄上だとわかりましたけれどもね」
 ヒュラスの言葉に、全員が笑った。
「アルドゥイン殿の昔というのはどんなだったのだ? ヒュラス殿」
「それは……」
「ああ、余計なことを言うな!」
 陸軍将軍たちの談笑を横目に見ながら、海軍の将であるサラキュールは祖父とともに、こちらは海軍同士での話に花を咲かせているところだった。彼と同じように陸軍のほうに目を向けていたバートリ・ラ・ホルスティが言った。
「アルドゥイン殿はあれこれと話題の尽きない方だな」
 バートリは青銅艦隊の提督で、ラガシュ伯爵である。年上ばかりの海軍提督の中では唯一まだ三十二と若く、サラキュールといちばん気の合う提督だった。
「まったくで。おかげで海軍の影が薄くなってしまいますよ。目立つのは背だけでけっこうだというのに」
「ははは、きつい言われようだな、サラキュール殿」
 こちらは四十代のカミラ伯爵、アルフォンソ・ラ・ヴァリーニの言葉だった。彼の娘イルゼビルはサラキュールの婚約者なので、いずれ彼の舅となる人物である。
 海軍は海軍で談笑しているところに、紫晶殿のお仕着せを着た女官がそっとすべるように近づいてきて、しとやかにサラキュールに呼びかけた。
「ご歓談の途中に失礼いたします、アルマンド公」
「何か?」
 すぐに気がついて、サラキュールは振り返った。金髪に青い瞳の女官はヴィダローサだった。
「ぜひともアルマンド公を呼んでいただきたいと、トオサ女官長が申しております。――リュアミル様のことで、少し」
「は……」
 サラキュールは、広間の壁にかかっている、大理石で張られた巨大な時計を見た。パーティーが始まるまで、あと残すところ一点鐘となっている。そろそろ、皇族専用の控えの間に皇族は皆揃っているころのはずである。サラキュールは大体の事情を察した。
「よかろう。皆様方、しばし失礼いたします。――で、リュアミル殿下はいずこにおられる?」
「化粧の間にただいま」
 小走りに進むヴィダローサの後を、サラキュールは足早に追った。皇女専用の化粧の間に着くと、ノックだけして入った。が、警備を勤める衛兵の中にも咎める者は誰もいなかった。
「何をもたついているのだ、リュアミル。もうすぐ始まってしまう。遅れては何を言われるか判らぬぞ」
 サラキュールが入って来た時、リュアミルは化粧台の前の椅子に座り、ドレスを見下ろしてみたり、鏡の中の自分の顔を何度も見つめたりしていた。声をかけられて、やっと振り返る。
「どうした、そんな顔をして」
「このドレスは変かしら」
 リュアミルは心底不安そうに暗い声で呟いた。兄同然に親しくしてきた間だからこそ見せる、サラキュールにしか見せることのない、少女のような表情だった。
「そうか?」
 サラキュールはくまなく検分するような視線をリュアミルに走らせた。彼女のドレスは明け方の空を思わせるような明るいトルコブルーの絹で仕立てられていた。それはハヴェッド地方の民族衣装を取り入れたデザインで、たっぷりとひだを取った袖は肩口の大きなリボンで寄せ、流れ落ちる滝のように彼女の二の腕を覆っている。
 スカートはウエストから大きく膨らみ、膨らんだスカート一面に細かな真珠や水晶の粒が細い銀の糸で縫い付けられ、散りばめられており、四月の雨を思わせてきらきらと輝いている。一方ウエストの部分は体にぴったりとしていて、背中から脇にかけての部分には白い絹糸でアザミの葉の模様が刺繍され、胸元は純白の丸真珠と雫型の真珠とが波模様に縫い付けられていた。
 彼女の細い喉元には雫の形にカッティングされた薄青い水晶をペンダントヘッドにした黒ビロードのチョーカーが巻かれていて、同じ形のイヤリングが耳に揺れている。結い上げた髪はヴェールとヘアバンドで押さえ、真珠の輪状髪飾りを巻いてあった。
「なかなか、似合っていると思うがな」
 サラキュールは腕組みしながら言った。実際、その青のドレスは瞳に青が混じった彼女にぴったりの色だったし、装飾についてもたしかになかなか豪華であったが派手と言うほどではなく、むしろ控えめなくらいだった。それでも不安そうなおももちを変えないリュアミルに、サラキュールはちょっと呆れたように尋ねた。
「今度は誰に何を言われたのだ? 皇后陛下にか。それともあのやくたいもない女官どもにか」
「……」
「それが……」
「言わないで、トオサ」
 答えようとしないリュアミルに代わって口を開きかけたトオサの言葉を、彼女は慌てて遮った。
「皇后陛下か」
 その行動で判った、というようにサラキュールはため息をついた。リュアミルが義母の発言について決して口にしないのはもうよく知っていることだったので、彼はトオサに向かって質問を続けた。
「で、何と?」
「ユナ様は姫様が御髪を結っておられるときにご様子を窺いにいらしたのでございます。そして姫様のドレスを派手ですとか、皇女に相応しくない、みっともないとか、お似合いにならないと仰られたあげくに、自分の女官に向かって、お前が着たほうがよほど美しいだろう、などと仰ったのです」
 トオサはリュアミルがおとなしい分、彼女の分まで怒らなければ気が済まない、というように憤懣やるかたない様子だった。
「相変わらず同じような事しか仰らぬ方だな。リュアミルもいちいちそんな事で落ち込むことはないのだぞ」
 サラキュールはずけずけと言った。当のリュアミルは申し訳なさそうに指をかたく組んでじっと立ち尽くしていた。
「いつも言っておるだろう、リュアミル」
 一転して優しく、サラキュールは言った。父のイェラインがリュアミルに対し、よき皇女、皇太子であることに満足しているだけで何の手助けも言葉もくれぬとあっては、彼だけがリュアミルにとって頼りの男性であった。そしてサラキュールはその役目を積極的に引き受けて、この傷つきやすい心を持った皇女の相手をつとめてきたのだった。
「おぬしの母君は皇后陛下よりもずっと美しくて慎ましやかな女性だった。その娘のおぬしが美しくないはずがない。もっと自信を持て。おぬしは生まれながらの皇女なのだ。おぬしの気品にかなうものなどおらぬ。それにだ、おぬしに陰口を叩くしか能のない頭の空っぽな女官どもや貴族娘がいくら飾り立てたところで、頭の悪さを露呈させるだけのこと。そのような輩におのれが劣ると考えることこそ、亡き母君と他でもないおぬし自身に対する侮辱だぞ」
 こんなせりふがユナの耳に入ればただでは済まないだろうが、サラキュールが意に介したようすはなかった。この場には彼とリュアミルと、忠実なトオサの三人しかいなかったので、告げ口を心配する必要はなかった。
「アルマンド様の仰るとおりでございますよ。さあ姫様、そろそろ参りませんと」
 トオサに促されて、リュアミルは扉の方に足を向けた。まだ少し不安げな眼差しを向けたので、サラキュールはしっかりしろ、というように頷きかけた。
「皇女の衣装としては地味なぐらいだ。安心しろ。それにな」
 それから、彼はこっそりと囁いてやった。
「どこぞの将軍は、控えめで気品のある皇女が好きだそうだぞ」
 ぱっと首筋まで赤らめて、リュアミルはサラキュールを振り返ったが、彼は軽く一礼して化粧の間を出て行ってしまっていた。

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