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                                *



 アルドゥインはその後、身元を隠していたことについてイェラインに許しを請いに行った。セリュンジェが言ったとおり、イェラインはその事で彼を責めるでもなく、鷹揚に頷いて許しを与えた。恐らくアルドゥインが巻き込まれた運命について、同じ支配者の立場にあって暗殺の危険にさらされている人間として、イェラインにも感じるところがあったのだろう。
「あの申し開きの時にそなたが申していたことがどういうことだったのか、やっと判ったよ、アルドゥイン」
 イェラインは微笑んだ。
「そなたは、自分はもはや生国では死者と同然、これからはメビウスの人間として生きると誓ったな」
「はい」
「その誓いがあるかぎり、そなたの出自が何であろうとそなたは我がメビウスの武将だ。むろん余とて、臣下に隠し事をされたと思えば心安くはない。だがそうせざるを得なかったそなたの境遇は判るつもりだ。何も気にすることはない。それにそなたはもはや我が軍にとってなくてはならぬ武将の一人、たとえラストニア王がそなたに帰るよう申し向けても、余は許さぬぞ」
「有難うございます、陛下」
 アルドゥインは深々と頭を下げた。
「それよりもアルドゥイン、明日のトーナメントを楽しみにしておるぞ、先のチトフとの決闘ごときでは、まったく物足りなかったからな。もう少し手応えのあるものがやればよかったものを……いやいや」
「は……」
 イェラインが武術好きなのはもうとっくに知られたことであるが、アルドゥインはこれには少し呆れてしまった。その決闘の理由が、彼の娘であるリュアミルが侮辱されたことにあるというのも、イェラインの頭の中では恐らく、ほとんどどうでもいい瑣末事として扱われているに違いなかった。
 セレヌスやロランド、ベルトランといった普段忠誠に厚い将軍たちが、皇帝の家庭事情に関しては批判的である理由が、アルドゥインにはやっと判ったような気がした。父親として褒められた態度ではないことは確かであった。
「で……アルドゥイン。そなたは個人的にリュアミルに剣を捧げたわけだし、明日のトーナメントはあれの騎士として出るのであろう?」
 突然イェラインはまた別の話題を出してきた。そしてまた、当然のように言ったのであった。
「いえ、それは……本日あらためて皇女殿下にお伺い申し上げ、お許しをいただくつもりでございます」
「ふむ、そうか」
 何となく不満そうな面持ちで、イェラインは言った。アルドゥインのほうは、リュアミルのことを話題に出される時の常で、頬に血を昇らせていたのであったが、幸いにして肌が黒かったのでイェラインには判らずに済んでいた。
「騎士になったのだから、いちいち了解を取る必要もないと思うがな」
「それは皇太子殿下への礼儀というものがございますので」
「まあ、リュアミルが断るはずもあるまいが。余の話はこれまでだ。下がってよいぞ、アルドゥイン」
「それでは失礼いたします」
 アルドゥインのほうにも話はなかったので、彼は丁寧に礼をして退室した。控えの間では、何だかんだと言いつつも心配そうにセリュンジェが待っていたので、大丈夫だった、という意味を込めて頷きかけた。
「何もお咎めなしだったんだろう? やっぱり俺が言ったとおりだっただろう」
「ああ」
「それで、公邸に戻るのか、まだ寄るところがあるのか、どっちだ」
「リュアミル殿下にお会いする約束がある」
 歩き出しながら、アルドゥインは答えた。いつの間にアルドゥインが謁見の約束を取り付けていたのか知らなかったので、セリュンジェは密かに首を傾げた。だがそんなことを訊ねても、アルドゥインは照れて黙ってしまうだけだと判っていたので、あえて口には出そうとしなかった。
 水晶殿の正面階段を下りて、右手に紫晶殿がある。紫晶殿は三つの五角形を並べてくっつけたような形をしていて、その名のとおりごく淡い紫色で塗られていた。皇帝の住居と後宮である中央の建物が一番大きく、左右の棟はそれぞれ皇女、皇子の住居となっていて、それぞれ三つの入り口がある。
 約束があるといってもすぐに通されるわけではなく、玄関に入ってすぐの控えの間で、二人は取次ぎの女官を待った。約束した時間よりも半テルほど早かったのだが、すでにアルドゥインにはおなじみのトオサと、もう一人の女官が現れるまで、それほど待たずに済んだ。
「おはようございます、紅玉将軍閣下」
 決闘騒ぎ以降――というよりアルドゥインがリュアミルの味方であると知って以来、トオサは当の皇女本人よりも彼に親しみを持っているようであった。
「お約束の時間には少々早すぎたでしょうか、トオサ殿」
「早められてもよろしいかどうかリュアミル様にお尋ねしてまいりますから、もう少しお待ちください。ヴィダローサ、お茶を」
「はい」
 ヴィダローサと呼ばれた年若い女官は、わずかに影の部分が茶色に見える金髪と青い瞳を持っていた。肌は雪のように白く、特に美しいというわけではなかったが愛嬌のある顔立ちをしていた。彼女はスカートの裾をちょっと持ち上げて返事をし、トオサとは別の扉から出ていったが、じきに茶を載せたワゴンを押して戻ってきた。彼らがまだ突っ立ったままだったので、彼女はにっこりと微笑んだ。
「どうぞお座りになってお待ちくださいませ」
「これは失礼」
 アルドゥインは言い、セリュンジェにも座っていいと告げた。彼は部下だからといって人を立たせっぱなしにするのは趣味ではなかったのだ。出されたエルボス茶を半分くらいまで飲んだところで、トオサが戻ってきた。その間中セリュンジェはヴィダローサを見つめては視線をそらす、ということをしていたのだが、幸いにしてアルドゥインはそんなことに気付く人種ではなく、見つめられている当人も気付いてはいなかった。
「今からお会いになってもよろしいとのお言葉でございます。先客の方がいらっしゃいますけれども、よろしゅうございますか?」
 せっかくのリュアミルに会う機会に他人がいるというのはあまり嬉しくなかったが、断るのも感じが悪いと判断してアルドゥインは頷いた。
「先方さえよろしければ、俺は構いませんが」
「ではどうぞ、こちらへ」
「かたじけない。セリュ、すまないが待っていてくれ」
「かしこまりました、閣下」
 一応人前なので、セリュンジェは折り目正しく敬礼つきで返事をした。
 今回は直接会うことが許されていたので、アルドゥインが通されたのは前の時よりも奥まった一画だった。見回してみたい衝動に駆られつつ、アルドゥインはそれをぐっと抑えておとなしくトオサの後についていった。やがて目指す部屋に辿り着くと、トオサは重厚そうな扉を二、三度叩いて知らせた。
「リュアミル様、アルドゥイン閣下をお連れいたしました」
 高貴な女性の私室に入るなど、母親や妹以外ではキリアの部屋くらいしか経験が無かった上に、それも遠い昔のことであった。内心ではたいへん胸をどきつかせながら、アルドゥインはリュアミルの居室に足を踏み入れた。
 天井の高いその部屋は白と飴色を基調にしていて、窓枠や壁飾りの木材も全て、施されているのは細かな彫刻だけで、それ以外には艶出しの塗料しか塗られておらず、何の装飾もほどこされていないとても簡素なものだった。
「こんにちは、アルドゥイン」
 絹張りの華奢な椅子にかけていたリュアミルは微笑みながら軽く会釈した。今日の彼女は夏らしい白地に赤の小花模様を散らした薄手の絹のドレスを着ていた。夏でもオルテアは涼しかったので、その上から薄い桃色に金糸で装飾的な百合の文様が織り込まれた袖なしの長衣を羽織っていた。
 私室の中だったので髪は結い上げずに、長衣と同じ桃色の幅広のリボンを斜めに巻きつけて、髪が耳にかからないようにしているだけだった。そうして下ろしていると、彼女の髪はほとんど背中の下に届くほど長かった。
「リュアミル殿下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
 アルドゥインは丁寧に騎士の礼を取って挨拶した。顔を上げて、リュアミルの正面に座っていた先客である女性をそこで初めてよく見た。年のころは四十かそれよりも少し上と見える。真珠のネットで押さえた巻き毛は暗い金髪で、瞳はやさしい青緑色をしていた。瞳の色も髪の色も全く違ったが、どことなくリュアミルに似ているように見えた。
「私の叔母、マラテスタ小伯爵夫人です」
 尋ねるべきかどうかアルドゥインが迷っている間に、リュアミルが紹介した。叔母だから少し似ていたのか、とアルドゥインは納得した。おそらくリュアミルは母親のミラルカ姫に似ていて、ミラルカ姫と妹も似ていたのだろう。紹介を受けて、彼女は立ち上がってドレスの裾をちょっと持ち上げて貴婦人らしく一礼した。
「ロドヴィカ・デ・ラ・マラテスタと申します。初めまして、紅玉将軍閣下」
「お初にお目にかかります。本来ならば待つべきところに同席をお許しいただき、有難うございます」
「あら、そのようなこと」
 ロドヴィカは手にしていた羽扇を口許に当てて笑った。
「気になさらないで。噂の紅玉将軍閣下に一目お会いしてみたいと、わたくしがリュアミルに頼みましたのよ」
 噂の、という前置詞にアルドゥインは密かに首を傾げたが、ともあれリュアミルの勧めに従って二人の近くの椅子に腰掛けた。どうやって話を切り出そうかと迷っている間に、リュアミルが先に話しかけてきた。
「朝見では大変だったようですね」
 すでに朝見での出来事はオルテア城じゅうに広まっているらしかった。もしかしたらさっきの「噂の」という前置詞はこの事を指していたのかもしれない、とアルドゥインはこっそり結論付けた。
「お騒がせをいたしましたが、落ち着きました。陛下にもきちんと説明と謝罪を申し上げました」
「それは何よりです。けれど、私にも謝らなければならないなどとは思わなくてもよいですよ、アルドゥイン」
「ありがとうございます。本日は明日のトーナメントのことで殿下に一つお許しを頂きにまいりました」
 トーナメントと聞いて、リュアミルは一度大きく瞬きした。それから、彼女は花のように笑みくずれた。
「あなたは本当に真面目な方ね。私の標章なら、どうぞ使って構わないわ」
「……」
 彼女がそんなふうに笑うのを、アルドゥインは初めて見た。礼を述べるのも忘れて、彼の視線はリュアミルの笑顔に釘付けになっていた。アルドゥインの沈黙を、機嫌を損ねたととったのか、リュアミルはやがて気まずそうに笑顔を引っ込め、かわりに困ったような表情を浮かべた。
「すみません。笑うべきではなかったですね」
「いえ、殿下がお謝りになる必要などどこにもございません。ともあれ、殿下の標章を使ってもよろしいのですね」
「ええ」
「それともう一つ……」
 言ってから、アルドゥインは激しく後悔した。頭の中でずっとその言葉を繰り返していたもので、つい口から出てしまったのである。しかし言いかけてしまったものは取り消せず、リュアミルが「何か?」とでも言いたげに首を傾げたので、続けざるを得なくなってしまった。
「夕刻のパーティーは、俺と踊っていただけないでしょうか」
 今度こそリュアミルは意表を突かれたように目を見開いて、黙りこくってしまった。公的なパーティーではリュアミルのような身分の高い女性に対しては、男女を問わず言葉をかけてもらえないかぎり話しかけることは許されておらず、また男性の方からダンスを申し込むこともできない。
 そんなわけで、私的な面会とはいえアルドゥインがしたような願いは本来は不躾と言われても仕方の無いものであった。しかし彼女が呆然としていたのはほんの数秒のことで、すぐに笑顔で頷いた。
「判りました。ではエスコートはあなたに申し込むことにします」
「有難うございます。光栄に存じます」
 その返事を聞いたとたん、アルドゥインが内心で快哉を叫んでいたのは言うまでもなかった。
「他には、何か?」
「ございませんので、お許しいただければ失礼いたします」
「そうですか。では後ほどまた」
 リュアミルは立ち上がり、アルドゥインが礼儀正しく、辞する前に手の甲に口づけするのを許した。
 彼が出て行ってしまってから、ロドヴィカは姪の傍に近づいて、わくわくしたように言った。
「アルドゥイン閣下は噂に違わず素敵な殿方ね」
「そうですわね」
 どこか取り繕ったような素っ気無さで、リュアミルは答えた。
「レイフとカーヴィについて来て良かったわ。貴女に会うのが一番の楽しみだったけれど、マラテスタに帰ったら皆に自慢話ができるもの。あんな素敵な殿方にダンスを申し込まれたら、女冥利に尽きるというものね。わたくしが貴女くらいの年だったら、きっと彼の目に留まろうとして大騒ぎしていることでしょうよ」
「まあ、叔母様ったら」
 リュアミルは笑ったが、ロドヴィカは真面目くさって言った。
「本当よ。貴女だって、ハークラー候に申し込まれるよりずっと良いでしょう」
 リュアミルはそれには答えなかった。だがロドヴィカはそっと小声で付け加えた。
「それに、これは女の勘ですけれどもね、あの方、あなたを好いているわ。絶対よ」
「そんな冗談を仰らないで、叔母様」
 ぱっと頬を赤らめて、リュアミルは叔母を振り返った。
「あら、冗談など言っていませんよ。殿方はね、好いてもいない女性にわざわざ会いに来たりなどするものじゃないのよ」
「彼は真面目だから、そんなふうにお思いになるのだろうけれど」
 言い返しかけたリュアミルの言葉を、ロドヴィカはすっと目の前に人差し指を立てて途切れさせた。
「もう少し自信を持つことよ、リュアミル。あの方ならわたくしは大賛成よ。それとも、あなたはあの将軍閣下が嫌い?」
「嫌いじゃありませんけれど、そんなのじゃありませんわ……」
 リュアミルは抵抗を試みるように呟いたが、その声は小さかった。

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